オールマイティ - 7
ウィルは最後に水筒を取り出すと、喉を潤した。
衝撃を堪える際に噛んでしまい、口内を侵食していた血の味が、水によって洗い流されていく。不快な粘つきが拭われて、人心地ついた思いだった。
「……どうして」
「あん」
「どうして、ここまでしてくれるんだ」
やっと意識がそちらに向いたと言うべきだった。本来なら真っ先に聞いておくべき事である。
腕を失くした。しかも利き腕。それに脚までも。脚は形を留めているが、二度と元通りには動くまい。名うての”オールマイティー”たるウィルは死んだ。彼は積み重ねてきた全てを投げ打ったのだ。引き受けた仕事に忠実というには、度を越している。だからこそ歴戦の強者達をも騙しきれると踏んだのであろうが、それにしても常軌を逸した献身ぶりであった。後からどれだけ多くの報酬を得られるにせよ、殺される危険性も含めたら割に合わなすぎる。
ウィルが、水筒から口を離した。
濡れた唇を左手の甲で拭い、どうという事はないように、言う。
「オレだって、普通ならここまでしねぇさ。
依頼主があんただったから、やる気になった」
「……意味がわからない。俺はここまで何もかもを投げ打たれるような存在じゃない」
「だよな。もっと正確には、あんたがフィリア嬢ちゃんを心底溺愛してたからだ」
「それこそ……意味がわからない。
俺がフィリアを大切に思っている事が、どうして君が手足を失う事に繋がるんだ。むしろ初めて会った時の君は、それを憎悪していた筈じゃないか」
会話が下手だと責めるなら、そちらこそちゃんと説明してくれと、クレストは求めた。これは一本取られたとウィルが笑う。しかしクレストにしてみれば笑い事ではなく、どうしても知っておきたい事であった。
ぎゅ、と水筒の栓を閉じ、ウィルは話し始める。
「憎んでたさ。あんたが本当に、世界そのものなんだろうなと実感するまでは。
そんなあんたが、たかが人間のガキ一人を、本気で救いたがってるんだと判るまでは」
あの手品には度肝を抜かれたと、ウィルは言った。
真竜――クレストが束の間見せた光景の事だろう。
「オレのガキの頃の話、ちらっと聞かせただろ」
「ああ、とても苦労してきたと……」
「苦労ねえ。もちっと踏み込んだ表現すると、二度と誰にも見せたくない姿だな。
腐敗していくゴミの山が、寝床であり食料だった。
何もオレだけじゃない。周りはそんなガキばっかりだったよ。
いつだって腹を減らして、汚物まみれの痩せた体で目ばかり光らせて、往来を睨んでた。
それがある日ドブ掃除でもするみたいにまとめて狩られたかと思えば、カビまみれのパン一切れを餌に、来る日も来る日も人殺しだ。
幼心にオレは理解したよ、オレ達に救いなんて無いんだと。
恵まれてる奴は最初っから枠が決まってて、ゴミは生まれてから死ぬまでゴミなんだと。ゴミの分際で救いに縋った奴から死んでいくんだと、拾った骨をしゃぶりながら思った」
俯くクレストに、ウィルは続けた。
「オレ達は、世界から見捨てられた存在だと思ってた。
いや、世界はオレ達を見る事さえないんだと、知りさえしないんだと思っていた。
世界はあんまりにも広くて、大きくて、端っこで幾らもがき苦しむ奴がいようが我関せずだと。
だが違った。
たかが一個人の為に、世界ってのはここまで自分勝手に、我儘に、醜く振る舞ってくれるんだ。
神様なんぞいねえ、この世に救いはねえと信じてたガキのオレにだって、ひょっとしたら――ひょっとしたら、フィリアと同じ希望が差し伸べられてたかもしれないんだ。
かもしれないが、あった。その事実だけでいい。そう思うだけで、オレは過去にまで遡って救われたんだ」
ひとりじゃなかったと。
「あんたは、オレが一番欲しくてたまらなかった、絶対に手に入らない筈だったものをくれた。手足の二、三本イカれるぐらい惜しくない」
「俺は何もしていない」
泣きそうな顔で、クレストは言った。
「今の君にも、過去の君にも、俺は何ひとつしてやれないままだった」
対照的な顔で、ウィルは告げる。
「いいんだ、あんたはそれで。
せいぜい嬢ちゃんに溺れてろ。あんたがエゴ丸出しでいればいる程、オレは嬉しい」
よっ、と掛け声をあげて、ウィルは立ち上がる。
揺らぎかけた体勢を持ち直すや、そのまま歩き出そうとしたので、クレストは慌てて声をかけた。
「どこへ」
「どこって、帰るんだよ」
「無茶だ。もう少し手当てをするか、せめて休んでからにするんだ」
「あのなァ、殺されかけて逃げ出した奴が悠長に現地で休憩とってられる訳ねーだろ。言ったろ、嘘はひとつしか許されないって。休むのは最低限山を降りてからだ」
「だからって、帰る途中で死んでしまったら――」
「ああ死ぬかもな。そのぐらいのリスク背負わなきゃ騙しきれない。死に掛けでの帰還含めて、計画の内だ。だってここで殺されかけたなら、そうするしかないしな。
なァに、きっちり生きて町まで帰ってやるさ。片手で這って、泥水啜ってでも」
それには、慣れている。
右脚を引き摺りながら、思い出したようにウィルが視線を下にやる。
「そこに転がってる腕は、犬にでもあげてくれ」
「笑えないよ」
クレストは沈んだ様子で、地面に横たわった腕を見た。
「早く人間社会に戻してやりたいところを悪いが、結構な期間、一切ここには接触できなくなる。傷を治す必要があるし、嬢ちゃんを受け入れる為の準備があるからな。迂闊に連絡取って怪しまれるのは避けたい。おとなしく待っててくれ。
戻り次第すぐに嬢ちゃん連れて出発するから、お別れパーティーは念入りにしときな」
「わかったよ」
もはや虚しい励ましと知りつつも、クレストは言わずにいられなかった。
「どうか、気をつけて」
気休めではあったが、案じる気持ちは確かに伝わっただろう。
ふとウィルは動きを止めた。
それから、いかにも厭らしい笑みの形に唇を曲げる。
「なあ、さっきの。『だからって帰る途中で死んでしまったら』
続き、なんて言おうとしてた?」
「え…………そんなの、わざわざここで言わなくても……」
「言えよ、いいから」
「……ええと、なんでまた……」
「言いたくないなら当ててやろうか?」
「………………」
「君が帰る途中で死んでしまったら、フィリアを帰す手段がなくなるだろう」
口調まで真似て言い終えると、ウィルは爆笑した。
心から愉快そうに、爽快そうに。
大声を出したせいで激しく傷に響いたのか悲鳴をあげて、だというのにまだ笑う。
項垂れるクレスト。ウィルの指摘通りだった。とはいえ、その思考に対する罪悪感はあるのだ。
「いい、いい、あんたはそれでいいんだ。そのままでいてくれ。
さっきも言ったろ。そのぐらいじゃなければ、オレがここまでしたのは報われないんだ」
やっと笑いの止まったウィルが、何度も頷く。
本当に、そう思っているようだった。
「あいつらに宜しくな。次来た時にいきなり殺されるのは勘弁だぜ。
それとメイトリアーク、だっけか。あの仕事のできる淫魔に謝っておいてくれ。
捕獲用トラップっつっても、ありゃ食らう側は結構なキツさだった筈だからな」
わかったと応じかけて、クレストは止めた。
「事の経緯は全部伝えておく。でも謝るのは君がやるんだ」
訝しむウィルに向け、彼は微かに笑う。
「生きて戻れなければ、謝る事はできないよ」
依頼とは関係なく、純粋にウィル個人を案じている言葉であった。
「要請承諾した、雇い主殿」
ウィルが小さく敬礼をする。
フィリアから関心が逸れたというのに、戦士の瞳はどことなく嬉しそうに綻んでいた。




