オールマイティ - 4
森は意思を持たない。
荒々しさを剥き出しにする時も、穏やかに生命を包む時も、ただ周囲の流れに任せるのみ。沈黙と無慈悲と恩恵とを、あまねく同時に内包してこその森。生きているのに眠っているかのように静かな姿は、ある意味この森を支配する主を思わせる。
今、森は凪いでいた。
対峙する二者を、すぐにでも散りゆかんとする命を目の当たりにしてさえ、森は何も語らず、何も嘆かず、普段通りの顔で彼らを見ている。この先何が起ころうとも、その表情が変わる事はない。土が血に濡れようとも、苦鳴が響き渡ろうとも、とばっちりで己が身の一部を切り刻まれようとも、二者が去り、再び日常の光景が戻ってくるまで、我関せずを貫くだけである。
ウィルは咥えていた煙草を、思い切り吸った。
火は点けていない。点けられない。それでも香りだけは薄く口内に広がる。
相手の反応が無い為、彼は煙草を指で摘むと口から離した。噛み跡が、くっきりと付いている。
彼は愛煙家ではあったが、敵地に潜入するのに吸いながら向かうような愚か者ではない。独特の匂いが人や犬に察知される危険性があるし、第一そんなものを口に含んでいては気が散る。普通なら、こんな風に火無しで噛む事さえしない。禁を解いたのは、もはや気配を殺す必要も、周囲の変化に集中する必要もなくなったからだった。
ウィルが森に入って二つ目の結界を解除し、三つ目に取り掛かろうとした直後、唐突に結界が消失した。浮遊する煙の群れは霞んで無くなり、以後、全く妨害らしい妨害はない。
明らかに、森を守る側が意図して結界を解除した証だった。
パーティーに歓迎されているのか、手ずから嬲り殺しにするという合図か。
どちらの可能性も等分に胸に秘めたまま、ウィルは森を進み、そして遭遇した。
初めて会った日のように、深い原生林の中心部で、ひょろりとした黒衣の男と向かい合っている。
クレストは、すぐには攻撃してこなかった。
それどころか、何もしてこなかった。
話しかけてこようともせずに、離れた前方に立ち尽くしている。
クレストが姿を現した時点でウィルは進むのを止めたが、その距離を詰める気もないらしい。彼が煙草の噛み跡を暫し眺め、それをポケットに突っ込む間も、声ひとつ立てようとしなかった。
無言で佇む敵とひたすら向かい合って待つだけの時間というのは、非常な苦痛を伴うものである。まして相手と圧倒的な力量差があるとあっては、次の瞬間にでも首を撥ねられるか、もっと悪い事に一方的な虐殺に遭う可能性に延々と耐え続けねばならない。削られゆく精神に、最悪、気が狂う。
そのような状況下で、ウィルの唇には薄笑いが浮かんでいた。
自ら舞い戻った死地で、何を思うのか。あるいは、もう狂ってしまったのか。
怒りもせず怒鳴りもせず、瞬かない目で自分を見ているだけのクレストに、彼はようやく声をかけた。
「先日はどうも。奴らの骸は弔ったかい?」
「………………」
返事は無い。
奴らというのは、ウィルに率いられて館を目指し、ほとんどが殺された者達の事だろう。
クレストが黙っているので、ウィルは尚も続けて言った。
「死骸をそこらに転がしとくのは、あんま良くねえと思うんだが。
獣や鳥ならともかく、人間だしな」
「……森に食わせた」
「そうか。どうりで衣服の切れっ端すら見当たらないと思った。
山棲まいの連中の仕業にしちゃ些か早すぎる」
ぽつりと口を開いたクレストに、納得したようにウィルは呟いた。
声も表情も素っ気ない。弔ったのかと聞きながら、仲間の死に胸を痛めている様子ではなかった。
また、沈黙が落ちる。
その間ウィルは、じろじろと遠慮なくクレストを眺め回していた。
絶対の死を前にしてまるで尻込みしていなければ、裏切り者としての気後れも感じさせない。ふてぶてしく恥知らずな態度でありながらも、それは一方で確かに感嘆を呼ぶであろう姿だった。確実に殺されると判っていて、普通こうは出来ない。
「殺さないのか?」
ウィルが気楽な調子で、そこに踏み込んだ。
クレストは目を伏せる。責める権利を持つ立場でありながら、逆に責められているかのようだった。
だが、クレストのそれは、ただ気弱な者がやり込められているのとは違う。
彼は言葉による威嚇を必要としない。態度による圧倒を必要としない。
どれだけ口汚く罵られようと、光る刃を振りかざされようと、最終的に死ぬのは相手だからだ。
だから、何もしない。それだけだった。
どうしてウィルがそんな事を聞いてきたのか、クレストには判らなかった。
それは挑発とも受け取れる行為で、わざわざ自分の死期を早めているようなものだからである。たとえ一秒でも、人間とは死を先に伸ばしたいものではないのか。一秒でも、痛みを遠ざけておきたいのではないのか、と。
いたずらに苦しませるつもりはクレストには無かったが、苦痛を全て除けるかというと、怪しい。やり方はあった筈なのだが、忘れてしまった。
「オレの話に付き合う余裕あるか?」
「あるよ。無ければ、こんな風にしていないよ」
「そりゃそうだな。まずそもそも、なんであんた自らお出まししたんだ?
たかが後始末なんぞ、優秀な部下に任せときゃいいだろうに」
「……君と、話をしたいと思った」
「説得の為に?」
「いいや、ただ君と話をしたかった」
「そして話が済むまで殺すつもりはないと。絶対強者の風格だな」
「………………」
「なんだ、このまま泣きついたら見逃してくれんのか?」
「それは、できない」
小声だったが、クレストはきっぱりと告げた。
こうなってしまった以上、彼がウィルを見逃す事は絶対にない。
自ら始末を付けると彼が心に制約を課したならば、その爪から逃れる手段はない。
だからこそ、彼は問いたかった。
なぜ、戻ってきてしまったのか、と。
「どうして」
なぜ、裏切ったのかと――。




