オールマイティ - 3
彼はひとりで訪れたと、従者達は言う。
大勢を連れての潰走の後の、単騎。
意図を掴みかねるまま、クレストは今の今まで読まれていた本を片付けていく。
どういった形でこの先の事が運ぶにせよ、終わった後はもう続きをする気分にはなれないだろう、誰も。
淡々と表紙を拭きながら、クレストの思考は目まぐるしく回転している。
目まぐるしく、空回りをしている。
どうすべきか考えてはいる。おそらくその答えはひとつしかない。それも理解している。だというのに、結論の引き伸ばしを求めて片付けの手は鈍る。そこしか無い捕食者だらけの陸地へ、どうしても着地するまいと、虚しく上空を飛び回る海鳥のように。
「ねえ、クレスト、ウィルは約束をやぶったの?」
クレストは、片付ける手を止めた。
あの日以来、初めて、はっきりとフィリアから聞かれた。
ウィルの襲撃については、一度も触れずに暮らしてきた。
黙って日常に没頭する事で、もしかしたらあれを無かった事にできるのではないかと、あれは夢だったのではないかと、少なくともそう思い込めるようになっていくのではと、そんな幻想を抱いて。
だが、それももう終わりだ。
話したくなったら話してくれと、あの日に言ったように。
今日までずっと疑問や衝動を我慢してきたフィリアが、尋ねた。
ならば、彼もまた応じなければならない。
「ウィルは――」
「………………」
「………………」
「うん。話して、クレストの思ってること」
「……ウィルは、この前、他の人間を多く連れて、ここを目指していた。攻撃も、された。連れてきた人間達にも、ウィル自身にも。ちゃんと言葉を交わす事はできなかったけれど、彼が、君を救うという目的以外でここを訪れ、その為に人を連れてきた可能性は、こうなってしまっては、高いと思っている」
それも彼なりの不器用な気遣いであったのか、やたらと核心を避ける物言いとは裏腹に、クレストはおよそこの状況が最悪と呼べるものだと把握していた。
ウィルが裏切って攻めてきた時点で、フィリアの生存は、既に外部に知られてしまっている筈である。最低でも、フィリアを買ったという人間に。最悪では、彼の同業者達全てに。
今後フィリアが外に出られたとしても、もはや行ける場所は無い。
一旦内側に入れて情報を与えた者を外に放つのは、その者が絶対にこちら側を裏切らないという、鉄の前提があってこそ成り立つものだったのに、見通しの甘さからそれを潰した。
本当の意味でフィリアの将来を潰したのは、ウィルではなく自分なのだ。
俺がこの子を、潰した。
助けてあげたいと思っていたのに。
未来をあげたいと思っていたのに。
幸せになって欲しいと思っていたのに。
「大丈夫だよ、方法はたくさんあるから。焦らずに考えよう」
その挙句にまだ、こんな、その場しのぎの言葉を吐ける。
方法が誰より見えていないのは、自分自身だというのに。
そっと頭を撫でられて、フィリアは微笑んだ。その微笑みがクレストを戸惑わせる。俯かれるか泣かれるかなら、次にかける言葉を探せもしただろうに。
「……あのね、クレスト。わたし、もういいよ」
「フィリア……?」
「もういいんだよ、クレストがそんな顔しなくても。
クレストが悪く思うことなんて、何もないよ」
「フィリア、君は何を言ってるんだ」
「わたし、本当は初めに来た人たちといっしょに出てくはずだった。
それでいいって思ってた。もともとこうやって出ていくつもりだったんだから、クレスト達がもう戦うの嫌なら、それでもいい」
「やめるんだ、フィリア。
自分を責める必要なんて無いと言っただろう。どうして俺が君の事を迷惑だなんて思うんだ。自分がいなくなれば済むなんて思ったらいけないよ。君は無事に人の世界に戻って、幸せになるんだ」
「でも」
「だめだ。そんな風に考えたら、だめだ」
長身を屈めフィリアの両肩を掴み、珍しく強い調子でクレストは言った。
「痛いよ、クレスト」
フィリアが小さく顔を歪めた。
我に返り、クレストは慌てて手の力を緩める。
出て行かせてはならない。けれども、出て行かせなければならない。
矛盾だらけの願望を紐解く手段を知らないから、ただ、違う、駄目だと繰り返すしかなくなる。抵抗が許されるのは、抵抗する力を持つ者だけだというのに、それを手に出来ないまま、手に出来た者を手放してしまったまま、みっともなく駄々をこねて。
不死であるから、真に追い詰められた事がない。
不滅であるから、真に追い求めた事がない。
だからこんな痛々しい姿を目の当たりにしてさえ、真の意味でフィリアの心情を理解する事はできない。
死なないというのは、こんなにも不便な事だったのか。
「真祖」
パトリアークとメイトリアークが、クレストの声を待っている。
どちらに任せても、彼らは完璧に役目を果たしてみせるだろう。
あるいは再度ウィルを見逃して、森から追い返すようにさせる事もできる。
こうなってもまだ、クレストの中にウィルへの憎しみはなかった。あの目で自分を見た男を殺したくはなかった。守ると言いつつ頼るばかりで何ひとつ返してやれないままに、終わらせたくはなかった。
どうして来てしまったんだ、ウィル。
せめて最初に逃げ去って二度と現れずにいてくれれば、こんな決断をしなくて良かった。皆に、こんな辛く苦い思いをさせる事もなかった。たとえ何の解決にならなくとも、今頃策を練っているのだろうと、一縷の希望を抱いて君を待っている事ができた。
「俺が行くよ。
責任は取らなくちゃいけない。これ以上、フィリアを害意には晒せない」
ウィル、君を殺す事もなかった。
「わたしが行けばいいんだよ」
尚もフィリアは言った。
少女へ向けたクレストの目に、痛ましさと共に咎める気配が無かったとは言い切れない。
「みんなにケガしてほしくないんだよ。すぐに治ってもケガは痛いんだよ。
する方も見てる方も痛いんだよ。もう誰かに死んで欲しくないよ」
フィリアは顔を伏せる。微笑みは消えていた。震える声で、潤む瞳で、誰であろうともう死ぬのは見たくないと、そうなるくらいなら自分がここを立ち去る方がいいと訴えている。物心ついた頃からずっと、悪意に蝕まれ、死に囲まれて、守ってくれる大人達が次々と消えていく中で、これが自分の運命なのだと幼い心と体に受け入れて。それでも、他者の幸せを呪い、他者の不幸で己を慰め、他者の痛みをやり過ごす事には、遂に慣れられなかった。
すすり泣く少女の髪に掌を添え、肩口に引き寄せるように抱き締める。縋りついてくる小さな手が、途方もなく痛い。この小さな手に込められた力が、肩にきつく押し付けられた額が、この子の味わってきた苦しみの全てだ。
自分は無力だ。
何も知らず、何も知ろうとしてこなかった。何もできない。
だからどう動いても、結局は君を傷付ける。
(ごめんね、フィリア)




