オールマイティ - 2
片付けるべき荷物もゴミも、実のところ身構えねばならぬ程には多くない。
彼に限らず、強い者ほどそうなる傾向にある。野生の鳥獣が無闇に巣の周囲を散らかさないのと同じく、ルカード旧市街に身を置く強者は、自分の痕跡を最小限に留めようとする傾向が強い。それは何が切っ掛けで隙を生むか判らないからであり、いつでも逃げられるようにする為でもあり、いつ死んでも構わないようにでもあった。
新しく入手した品物も含め、商売道具は全て持った。彼のような生業の者は余計な品など持ち歩かない。よって、ここに置いていくのは、どうでもよい品ばかりだった。
「婆さん、またまとめて前払いしとくぜ」
いつもと変わらぬ姿で、幾つもの仕事へと向かった姿で、ウィルはまとまった金を置いた。
常に宿の入り口近くに座っている愛想のない老婆が、じろりと目を動かして彼を見上げた。たまに息子らしい男と入れ替わっている事もあるが、この宿を訪れた者は、まずこの老婆の商売を放棄した眼差しの洗礼を受ける事になる。
この辺りの安宿は、一日毎の支払いが標準であり、数日分のまとめ払いで幾らか割り引かれるようになっている。長逗留ともなるとだいぶ差が出てくるので、ウィルのようにまとめて前払いしておくのは普通だった。
しかし、それにしてもこれは期間が長過ぎる。額を見て、またも老婆が顔を上げた。
「えらく景気がいいじゃないか」
「二度目だろ? この前も同じだけ払ってった。
ていうか良く覚えてたな、金勘定以外に興味ねえと思ってたが」
「こんな短い間で、二度も長期旅行されりゃ覚えてるさ」
「旅行。難しい言葉知ってるじゃねえか。
んな訳だから部屋、またキープしといてくれ。大仕事から帰った後ぐらいは、慣れた部屋で寝たいから」
長く町を出る場合には、戻ってきた時に部屋を取り直すのが普通である。
満室になるなど滅多になく、もしそうなったとしても、同じような安宿は周辺に幾らでも見付かる。一日二日ならばともかく、それ以上となると、留守の間も部屋を取っておいてもらうなど、たとえ割引分を差し引いたとて金の無駄もいいところだからだ。
だが稀に、そうした無駄をあえて選ぶ者もいた。
大半が、今のウィルのように、不吉な未来から目を逸らす為に。
仕事を無事に終えて自分は再びここへ帰ってくるのだと、勝利を見越して部屋を用意しておいてもらう。その際にちょっとした適当な理由を付け足すのは、彼らのような男の見栄だった。
慣れた部屋で寝たいから。誰かが訪ねてくる予定になっているから。別の仕事が手紙で舞い込むだろうから。
どれもが本音や現実とは別物の、死を飾ろうとする男達の最後の見栄だ。
「危ない仕事だって聞いてるよ」
「婆さんの耳にまで入ってんのかよ。こりゃオレもいよいよ長くねえな」
老婆がウィルを睨んだ。
「まったくねえ、ここじゃ危ないのはいつもの事だよ。
こんな風にお前ら相手の宿やってるだけでもさ、うちだって何度か巻き込まれた事もある。こんなしみったれた場所まで」
「ああ」
「それにしたってねえ、いくら慣れてようと、分かり切ってるもんに突っ込まなくたって良かろうにさ」
「はは、そうだな」
「常連にはいなくなって欲しくないよ、こっちの暮らしは結構カツカツなんだから、お前みたいな安定してる奴は大事なんだ」
ウィルは咄嗟に反応できなかった。
らしくなく束の間黙ってから、問う。周りに他の客はいない。
「婆さん、何遍見てきたよこんなの」
「さあね、数えてないよもう」
「後から知ったのも沢山あるんだろうな」
「あるだろうね」
「オレがここに居着いて、どのくらいになるっけか」
「7年ぐらいかね。たまに他に行ってたのを数えなけりゃ」
「よく憶えてんな」
「金勘定しか取り柄がないからね、帳簿はちゃんと見てるよ」
きっちりと最初の嫌味に嫌味で反しつつ、迷わずに教えてくれる。
だいたいの定宿にしてから7年。この老婆がそう言うのなら、それはきっと正確な数値なのだろう。随分と経ったものだ。この街に辿り着いた時から考えれば、更に長くなる。振り返って浸るような思い出とは無縁なままだったが、心に残る事までもが無い訳ではない。
ふとウィルは、7年の間、一度として興味を持った事も、聞いた事もなかった質問を口にした。
「婆さん、あんた名前なんてんだ?」
「ジェンナだよ」
特に聞き返されもせず、老婆は答えてくれた。
そしてその答えに、ウィルは満足した。
「婆さん、若い頃美人だっただろ」
「バカ言ってんじゃないよ」
眦を吊り上げる老婆に、ウィルは笑った。
気に留められていると思っていなかった人間が、実はこちらを気に掛けていた、そんな光景を見る。本当に何が起こるか分からないものだ。だからこそ世界は意外で、面白いのかもしれない。
この老婆は、皆をこうして見送ってきた。
皆、こうして見送られてきた。
無論、見送られる事のなかった者もいる。
どうやら自分が見送られる者であったらしい事を、こんな短い会話だけで、ウィルは良かったと思っていた。




