オールマイティ - 1
これといって用件が無いと、クレストは自室の窓際で安楽椅子に掛けて過ごす日が多い。室内よりは室外の方が、眺める風景にまだ多少の変化があるからだ。
運の良い日には、どこからか飛んできた大きな鳥が庭で暫く羽を休めていたり、館で飼われている牛や馬がのんびりと引かれていく姿を見られる事がある。見ようと思えばいつでも見に行けるものだが、ぼうっとしている中でふと目にした光景には、自分から見に行くのとはまた違った価値が生まれてくる。
得をした、という感覚である。
もっとも彼が用事らしい用事を持っている事など普通は無く、勢い窓際で体を伸ばすだけの日は多くなり、また一旦そうなったが最後、用事が奇跡的に生じるまでその場に据え付けられて動こうとしない。正直暗いです、とはパトリアークの弁である。光に当たりましょう、とはメイトリアークの弁である。クレストっぽいよね、とはフィリアが言った。これが一番堪えた。
これでも昔よりは相当活動的になっているのだ。フィリアが館に連れて来られてから、フィリアと遊ぶという用事が彼には出来た。そして子供は兎角良く遊ぶ生き物だ。従者達の仕事を手伝おうとして追い払われるよりは、子供に構っている方が建設的ではなかろうかと思う。
それでも、声が掛からないまま時間だけが過ぎていく日もある。
陰気な顔付きの男が、黒衣に埋もれて朝から一箇所に固まっている眺めは、だいぶ重苦しい。一昨日に模様替えが為された室内の、せっかくの装飾も台無しになっていた。
同じ姿勢で寝ていては、いかに休む為に設計された椅子といえど背中と腰が痛くなってきそうなものだが、この男に限ってはそうなる事もない。よって動かないものは動かない。
だが、怠惰な中にも変化は訪れる。彼が起きていようと寝ていようと館の内部は滞りなく運営されていて、そこには主であるクレストの食事という仕事が、しっかりと含まれているからだった。
規則的なノックが三度。顔をあげるクレストが見えているかのように、開かれる自室の扉。
「真祖、昼食の支度が整ったようですよ」
こうして朝食以来となる、クレストにとっての腰を上げる機会が訪れた。
寝惚けた目を中空に彷徨わせつつ、彼は現在の時間帯に当たりをつける。
昼と呼ばれる頃ではある。しかし、日々の昼食よりは少し遅い。
そうしてから、おかしな事に気が付いた。
メイトリアークではなく、パトリアークが扉の前に立っている。
一瞬で生まれた疑問がふたつ。ひとまず彼は、最初に頭に浮かんだ方から片付ける事にした。
「もうそんな時間なのか、早いね。
でも、いつもよりも支度が出来るのが遅くないかい?」
「今日は、フィリアを交えて何らかの仕掛けを施しているようです。
それで幾分手間取ったのでしょう」
「そうなんだ。君がここに来たという事は、準備が終わったんだね」
「はい」
「だったら早く行ってあげるべきかな……。
ところで、どうしてメイトリアークじゃなくて君が伝えに来――あ」
「……それに関しては、只今解決したばかりかと」
「……うん、そうだね」
「蛇足ですが、本来なら時間よりもそちらが真っ先に疑問となるのではありませんか、真祖」
「……そうなんだけれど、先に思い付いたのが時間の事だったから……」
ひとつを尋ねたら、もうひとつも解決していた。
何かを仕掛けていると言ったのだから、メイトリアークが来られないのは聞くまでもないだろう。不思議がる優先順序が逆な件についても、最初に浮かんだ方から片付けたと説明したが、冷静に考えてみればまるで理屈になっていない。普通ならば家事を預かるメイトリアークでなく、庭師のパトリアークが来た事の方を、より妙に感じて聞くものだ。
もごもご小声で呟いているクレストを見て、パトリアークはこれ以上の追求は避けるべきだと判断した。どうせ身のある言葉など出てはこないのに、無意味にどん詰まりに陥らせるだけである。
「食堂へどうぞ、真祖。フィリア様がお待ちです」
「うん、行くよ。ありがとう」
迎えの礼を言って、クレストは椅子から身を起こした。
寝続けて体が痛んで起きざるを得なくなる事はないが、逆に急に起きても体が固まっている事もない。どうしようもない面とメリットになり得る面というのは、大体において表裏一体なのである。自室を出る間際に、そういえば一度内装の事にも触れておいた方が良かったかなとクレストは思った。
到着した広すぎる食堂では、メイトリアークが身なりを整えて待機していた。
何を仕掛けていたのとクレストは尋ね、同時にパトリアークが、ああ、と珍しく戸惑ったような声をあげる。その時である、食堂隅に置かれていた巨大なバスケットの蓋を持ち上げて、中からフィリアが顔を覗かせた。
「あー、だめだよばらしちゃー!」
「これは失態でした。申し訳ありませんフィリア様。
わたくしとした事が……」
「事前に明かされてしまっては、サプライズがサプライズになりませんね。
珍しい事もあるものです、パトリアーク。周到なあなたなら、言われるまでもなく適当な理由を付けて誤魔化してくださると思っていたのに」
「ありがとうございます、メイトリアーク」
「前半部分の評価は日頃のあなたへの賞賛ですが、後半部分は現状への嫌味です」
「だとしても、今のわたくしには甘んじて受けるより他ありません」
このようなやり取りの間、クレストは巨大バスケットにすっぽり収まっているフィリアを眺めていた訳だが、ひょっとするとこれはフォローした方が良いのかと遅まきながら感じ、大丈夫だからと従者達に告げた。目的語が行方不明になっていた為、案の定、無理して会話に入ってくるなという同情の目を向けられる。とてもではないが、サプライズとやらの対象者とは思えない待遇であった。
フィリアが籠の中に身を潜ませていた事自体には、実のところ然程の意味はない。どのみち、クレストがフィリアを探そうと考えた瞬間に気取られていた。――が、それでも探す意思が働いた末に発見されるのと、最初から隠し事があると知っていて指摘されるのとでは、隠れている側にとっての面白味が違ってしまう。
ともあれ、ばれてしまっていたものは仕方がない。
フィリアは籠の縁に手をついて出てきて、クレストはメイトリアークに促されて席に着いた。隣に座ったフィリアと一緒に、奥に引っ込んだメイトリアークを待つ。
すぐに運ばれてきたものを見て、クレストにはフィリアがバスケットに隠れていた意味が判った。陶製の白い器に、こんもりと盛り上がったパンで蓋がされている。香ばしい狐色をした、パイかと見紛うさっくりと焼けたパンに、勧められるままスプーンを差し込んで崩すと、空いた穴からは具沢山のシチューが覗き見れた。
牛乳とバターの香りが、ふわりと立つ。言うまでもなく、クレストの分だけ赤い色をしていたりはしない。蓋の役割を果たしているパンは勿論食べられるが、どちらかといえば見た目に面白い飾りとしての目的が強い。
なかなか凝った趣向である。へえ、とクレストは茸を乗せたスプーンを片手に感心した。
シチューを満たした器に、蓋としてパン生地を厚く被せて焼く。
初めにフィリアがバスケットに隠れていたのは、蓋の下から中身が出てくるという遊び部分に掛けていたのだろう。
「フィリアは今日、何を手伝ったのかな」
「上にかぶせる生地をこねてね、カタで抜いたんだよ」
一口食べて、取り出しやすいようもう少し穴を広げてから、クレストは聞いた。
フィリアはといえば、続いて自分の前に置かれた同じ品を気にしつつも、質問にも答えたくてならないらしい。食べてからでいいよと彼は言おうとしたが、やめた。こういう時、子供は喋ってしまうまで他が手に付かないのだ。
ついでに、頂きますの挨拶をしていないのを思い出した。
「本日の作業では、水分が多くなりすぎずに済みました」
「前のこと言わないでよぉ、メイ」
せっかくの手柄に水を差されて、フィリアが膨れた。
「あとね、野菜も切ったよ。お肉も柔らかくなるようにたたいた。
煮てる時に、あく?っていうのも取った」
「じゃあほとんどフィリアが作ったんだね、すごいじゃないか」
「ううん、ずーっと煮てるのと、味つけと、最後にパンを焼くのはメイがやったよ」
「という訳ですが僕の働きなどお気になさる必要はありません。
真祖は存分にフィリアを称賛し愛でるべきであるかと」
「……ええとあのう、ええとね、メイトリアークの事だってもちろん凄いと思っているよ」
「ありがとうございます」
「クーレースートー」
「ご、ごめん……」
フィリアが半目でクレストを咎めた。
別段従者をないがしろにしようという意識があっての発言ではないので、余計に始末に負えない。指摘されれば反省するが、気を利かせたフォローを思い付くような男であれば、そもそもこんな無神経な言葉を口にする事などないので、つまりは付け足し感が甚だしい。
パトリアークが小さく咳払いをし、メイトリアークがそっとフィリアの肩に手を添えて前を向かせた。従者達のこの辺りの呼吸の見計らい方は、申し分なく連携が取れている。
「さ、お話はそのくらいにして、せっかくのシチューが冷めてしまう前に」
「うん、パトとメイもいっしょに食べようよ」
「僕達は従者ですから、主と同じ席には着きません。
これはしきたり……日常で守りたい決まり事のようなものです、どうかフィリアもご理解を」
「ふうん……メイたちが守りたい決まりなら、しょうがないね」
「俺は別に構わないけど……」
「真祖……」
「……ごめん」
「じゃ、いただきまーす! ……あっ!」
「どうしたのです、フィリア」
「クレスト、いただきますって言ってない!」
「………………」
やっぱり指摘された。
今日という一日は、こうして終わっていく。
明日という一日もきっと、同じようにして終わっていくのだろう。
繰り返される穏やかな時間に、どこか陰が付き纏う。
すっかり馴染んだ日常が、僅かな歪みを抱えている。
それは部屋から動かないクレストであり、平凡な失言をしてしまったパトリアークであり、主を揶揄したメイトリアークであり、特に変わらずに明るいフィリアである。
この館は、時が止まっているように感じられる。
だが時間は、そんな感覚とは関係なしに流れている。
たとえ、ここでは本当に時が止まっているなどという事があろうとも、ここでない外では流れているのだ。
――失礼致します。
パトリアークを教師にフィリアが文字を学び、朗読にクレストが付き合っていた所へ、メイトリアークが現れる。前にも同じ事があった。いつかの、近い前にも。
従者の表情だけで、その場の全員が何が起きたのかを知った。




