迅雷 - 11
定宿には戻らなかった。
かといって他に行ける場所も多くはなく、減った外用薬を買い足す等して時間を潰してから、いつもの酒場に入った。入り口に立つウィルの姿を見止め、一斉に注目が集まる。普段の軽い洗礼とは異なる、露骨な好奇の目であった。
報告に当たって寄り道は最低限に留めている。それにも関わらず、こうなる程度には既に噂が広まっているようだ。店内から、会話が途絶えた。酒場には似つかわしくない水を打ったような静けさに、肩を竦めたくなる。
異常事態と隣り合って生きる者達は、立ち直りも早い。
直ちに復活した会話によって、嫌な沈黙はあっという間に掻き消されたが、いまだ複数の視線と、囁き交わされる会話の題材が自分へと向いているのをウィルは感じ取っていた。ほんの一時とはいえ、遠慮とは無縁な連中までもが声を潜めたのが、その証だ。
カウンターを目指しながら、テーブル脇を通り過ぎる際に、よう、とたまたまそこにいた顔見知りに軽い挨拶をする。
ひどく曖昧に頷き返された。この稼業で愛想のいい連中というのはそこまで多くないが、今のは明らかにそれとは違い、こいつとどう接していいものかという逡巡が生んだ間であった。こうも腫れ物に触れるように接されるとは、どうやら自分の失敗は、思った以上に手広く迅速に広まっているらしい。
となれば同業者達が対応に困るのも当然だった。失敗も失態も死も日常茶飯事とはいえ、今まさに破滅の坂を転がり落ちている知己に声をかけられたら、多かれ少なかれ言葉に詰まるに決まっている。
己もこの道に身を置くが故に、失敗した者が歩む末路は幾つかに絞られると熟知しているが故に。
余裕の無い毎日を過ごす中でも、その程度には、多くの者が人間らしさを残しているのだ。無論、残していない者もいる。
集まる視線は、どれもが中途半端な同情と好奇心と嘲笑である。他は言うまでもない、無関心だ。自分が彼らの立場であった場合も間違いなくそのどれかを送っていただろうから、ウィルも腹は立たない。
多少、疲れはするが。
カウンターの隅に座り、注文しようとして少し迷った。待ってくれと、目でカウンター向こうの老人に伝える。この男の態度だけは全く変わらない。破滅していく男達など飽き飽きするほど見てきただけでなく、仕事で直接肩を並べている訳ではないから、一層無関心でいられるのであろう。
高い酒にするか、それとも安い酒にするか。
程度に関係なく失敗をした時には、いつもウィルは迷ってきた。だから、それは今回も同じである。景気付けと自戒とどちらを選ぶか、あまり手に取る者のいない雑なメニューを真剣に眺めてから、高い物にした。カウンター向こうでふたつの酒が混ぜ合わされ、透明な液体が、もうひとつを注いだ途端にぶわりと白く濁る。
注文を終えてからふと、あいつが来るかな、とウィルは思った。
あいつとは誰か、言うまでもない。格好の話題を携えて酒場に入ってきた者に、奴が絡んでこない筈がない。
が、来なかった。
そんな事もあるかと手を伸ばし、置かれた酒を受け取ろうとしたタイミングで、ウィルは後ろから肩を叩かれた。おかげで、狙いがずれてグラスを倒しかける。何をするんだと振り向いた先に、シャムローが立っていた。握ったグラスには濃い色のオレンジが刺さり、あの赤すぎる酒が半分辺りまで満ちている。
否応なく、邸宅での一件をその色に思い出した。
無断で隣に腰掛けると、シャムローはずいと顔をウィルに近づけて、丸い鼻先をこれ見よがしにひくつかせる。
「なんだなんだあ、おかしな酒の匂いがするぞ。こんな安酒場にお出でなさろう筈もない――こいつは酒じゃない、お酒様の匂いだ」
「……向こうさんで、目の玉飛び出るぐらい高価なのをご馳走になってね」
「そいつは羨ましい!
こっちはホレ、いつもの通り慎ましくやらせてもらってる。
そういやぁ前な、ベロリスんとことやり合ってる連中の密造酒の証拠掴みに行った奴がな、大馬鹿にもブツをひとつちょろまかしやがってよ。飲んでおっ死んだ話、聞いたか。ああいうのには盗人防止に、何樽かにひとつの割合で毒を混ぜておくのが常識だってのに」
「いいや、初耳だ」
いつもの通りに、脈絡もなく仕事に関しての噂話が始まる。
ウィルはグラスを舐めながら、適当に相槌を打った。
「かわいそうにな。しかし必然の死でもある」
「だよな……そこの豆と羊の煮込みをくれ。あとパン」
「なんだあ、飲みながらメシ食うのかよ」
「悪いか、やっと腹が減ってきたんだよ」
女給仕が、パンの塊を裁断機のような物に乗せる。手際良く刃を下ろして二つにすると、女給仕はウィルの横にあった籠に黙ってパンを置いた。切られた際のへこみが、ゆっくりと元に戻っていく。
ほぼ同時に、羊肉と豆と玉葱だけのシンプルな煮込みが出てきた。僅かにトマトの固い身が浮いている。
覗き込んでくるシャムローから器を庇いながら、ウィルは備え付けのスプーンで煮込みを掬った。よく煮込まれた肉はとろけるようで、汁の熱さが胃に染み渡る。今日に限っては、酒以上に飯を身体が歓迎していた。
「どうだった、首尾は」
「それをここで聞くかよ。あと声がでけえ」
「妙な噂話が耳に入ってきてな。戻ってきたお前さんが行きの12人から3人に減ってたとか、祝杯もあげずに報告に向かったとか、どいつもこいつもえらく憔悴してたとかのさ。憔悴だぞ。俺は久々に聞いたねそんな奥ゆかしい気分を表現する言葉を。だから俺は是非とも確かめときたい訳だ。お前が……凱旋してきたお前が奥ゆかしかった……ぶっ、ぶふっ!
……ふう、すっかりしょげてたってのは本当なのかってな。まとまって売られてきたおぼこ娘みたいに」
「ああ、それなら全部嘘だ。
特に最後のはな。オレはしょげたりしちゃいねーよ、普通にしてた」
「おお、うん、ふむ、そうだな。
辛気臭い面でバザーをフラフラしてようもんなら、並べてる品物が腐ると店主達に袋叩きにあっちまう」
話が逸れたようで、シャムローの横目は依然としてウィルに注がれている。
触れずに済ませる事はできなそうだと、簡単に結果だけ教える事にした。長々と話したいような事ではないのだ。
ウィルは身体をやや斜めに傾けて、片肘はカウンターについたまま、ぱっと両手をあげた。お手上げ、まさしくそんな様子であった。投げやりにおどけながらも、うんざりした様子は隠しようがない、無理のある道化振りであった。
「相手が悪すぎました、以上だ。これで充分だろ」
「うっふ、相手はいつだって悪すぎるし、敵はいつだって強すぎるもんだ。
そう考えてねえと死ぬって、最初の頃に徹底的に叩き込まれるだろうが。
なのに相手のせいにするのは良くない、良くない」
「モノには限度ってもんがある。
グラス空になってんぞおっさん、何杯目だそれ」
「さあなあ。切り上げ時は毎度適当だからな、俺は。
いつも、いつもな、次の一杯を飲んだら気持ちよぉく目が回ってぶっ倒れて、そのまま二度と起きられないんじゃないかって思ってる。
集まってきた連中に見下ろされてる俺の顔は安らかに呆けてて、そいつはきっと最高に楽で幸せな死に様だろう。
少なくともこんな生き方してて辿り着く、どんな死よりも確実に最高に違いない。
だがいつだって、そうなる前に我に返っちまう。
あと一杯で、もしかしたら。そう思った時が俺の切り上げ時だ」
「なんでそこでもう一杯いかないんだ?」
「白けるだろうが、考えちまったら」
「そんなもんかね」
「そんなもんだ。いいか、大人ってのはな、格好悪いと思った事はあえてやらないもんだ。お前にもいつか分かる日がくる」
「オレはいつまで坊主のままなんだよ」
この間会った時は、お前ももう若造じゃないんだからと言っていなかったか。
都合良く発言を変えるこの男が、いつか、という言葉を使った事にウィルは気付いていた。無論シャムロー自身も気付いているだろう。無意識にではない、意図して使ったのだという事を。
互いに気付いていて、互いにそこには触れようとしない。
静かな励ましは、あえて掘り返さないからこそ美しいのだ。格好悪いと思った事はしない、まさにその通りに。
シャムローは、今回のウィルの仕事に関する噂を聞いている。
嘘が、根も葉もない与太話ではないという事も、こうして酒場を訪れたウィルの様子から知った。あの邸宅で、ウィルと雇い主との間にどのようなやり取りがなされたかも、たとえその場に居合わせなくとも、自身の経験や慣例から推測できている。ウィルが失敗の代償として何を提示されたのかも、この先歩まざるを得ない道も、全て判っていると見て良い。
全てを承知の上で、あえて、いつかと言った。
そのまま、並んだ二人は黙った。
会話が途切れると、背後のざわめきが耳に入ってくる。
ウィルは、それらを聞くともなしに聞く。自分を対象とした話題はひとまず収まり、視線も薄れたと感じるが、話にのぼらなくなっただけで、こちらの声が客達に注目されていない訳ではないだろう。
酒場は情報収集の場である。意図して聞いて回るものであれ、意図せず耳に飛び込んでくるものであれ、ここでは誰もが、他人の話から自分にとっての利を得ようとしている。彼はそれを忘れた事はなかった。そして、現在この酒場で最も多くの注目を集めているのは、間違いなくウィルであった。
煮込みの中身を食い終わったウィルは、残った汁にパンを浸して食べ始めた。
スープを取るのに使ったのであろう筋と骨だらけの肉は食べられず、ごろりと器の中央に残っている。
胃袋が重くなってくると 自然と酒からは気が離れ始める。
今日もまた、一杯だけで終わりそうだった。
湿ったパンを食べながら目を横にやれば、シャムローの前には、いつ注文したのかまた例の真っ赤な酒がある。彼曰くの人生を終わらせる日は、まだ先であるようだ。
シャムローが飲んでいる酒を、ウィルはまだ飲んだ事がなかった。結構な長い付き合いなのに、勧められた事もない。味が気にならないといえば嘘だが、わざわざ聞いて知りたい程かと言われれば、そうでもないなとなる。一度くらいは飲んでみても良さそうだと思いながら、きっと飲まないままに終わるのだろう。
「俺の仕事の方はな」
「聞いてねえって」
「……なら話さんぞ」
「話すな」
「……本当に話してやらんぞ?」
「だから別に聞きたくねえっての」
「ちっ、何だよ」
「……あんた日頃は何でも流すくせに、たまに妙なことで不貞腐れるよな」
老練な男が子供っぽさを隠しもしない事に、束の間ウィルは呆れた。
どこかしら螺子の外れたおかしな奴が多いのは、今に始まった事ではないが。
こうして、鬱陶しがっている自分も含めて。
「今回は茶器が良く売れた。反面塩は全然ダメだったな。どっか別のルートが先に入っちまったらしい、クソが」
「………………」
話すのかよ、と言う気にもなれない。
ウィルは抵抗を諦めた。
「あんなものを買う連中は何を考えてるのかね、俺には分からん」
「扱ってるあんたに分からねえんじゃ、オレに分かりっこねえだろ」
「儲けと二束三文の処分、差っ引いてトントンより少し勝ちってとこだったかな。両方共売れてりゃ、今頃俺はお貴族様通りのお店でお豪華にやれてた予定なんだが、残念でならない。読みが外れたせいで、オレの酒道がランクアップする日はまた遠のいた」
シャムローは大袈裟に嘆く。あるいは本心なのかもしれなかった。
鼠や虫など一匹も出ず、常に警護兵が張り付いているような高級店に入るには身分証明や紹介が必要で、一見の客、まして何でも屋のようなアウトローの入店が許される筈もないのだが、どちらもそこには触れない。ぬかるんだ地べたを這いずって生きる者達の、実現しないと知りつつ頭の中に描く、ささやかな夢だからだ。
それから暫くは、シャムローによる副業についての講演会となった。
酒の肴にもなりそうにない話を右耳から左耳へ通り抜けさせながら、ウィルは残っていたグラスに口を付けた。勿体無さもあって、あまり呷るような飲み方はしないたちだが、満腹感のせいでその辺りは鷹揚になっている。
「……まあ思うようにいってくれんものだな、世の中ってのは」
シャムローは、そう話を結ぶ。
まったくだなと、ウィルは淡白に答えた。
声に溜息が混じった。シャムローのものか、ウィルのものかは定かではない。
世の中は、自分の思うようにいってくれない。
それは今日まで生き延びられた自分を慰めているようであり、まだまだその年数には届かないウィルに言い聞かせているようでもあった。
飲み終えて、ウィルは席を立った。
別れの挨拶は告げず、シャムローも呼び止めなかった。
勘定を置き去っていく背中に、静かな呟きが店内の喧騒をも潜り退けて届く。
「命あっての物種だぞ、若人よ」
「そうだな」
足を止めずに、ウィルは言った。
「ここでの命ってのは、全部金で買えるものだ」
他の生き方など無かった。今までも、これからも。
ウィルの声は、そんな思いに満ちていた。
振り返らず、そうかいとシャムローは返した。否定はしなかった。ウィルの言葉が現実だと知る為に。
扉に手を掛けたウィルに、彼の最後の声が届いていたのかは分からない。
酒場を出て、何処に向かうのか。お前は一体どうしようというのか。
もはや問わずとも明白になった答えには、とうとう誰も触れないままであった。




