始まりの吸血鬼 - 6
「一旦休もうよ」
そう言う彼も寝ていない。退席しようとすると、すかさず襟首を掴まれた。
血走ったアナスタシアの半目が、寝かせるかこの野郎、と全力で脅してきている。
彼が助けを求めれば従者も動いただろうが、そこまではと控えてしまった為に、ずるずると修羅場は続くばかり。人間と違い寝なくても弱りはしないとはいえ、ぶっ続けで作業をやり通しというのでは、多少の疲労感は生じる。
惰性で過ごしているのが基本なせいで、尚の事堪えた。
「だらしないわね」
「だったら、君はもう少し頑張るといい。
俺はもう……」
「あなたがいなくちゃ進まないじゃないの!」
「そう言われても……」
煮え切らないとはいえ乗り気でないのははっきりしているクレストに、ああもう、と唸り、アナスタシアは徹夜続きでボサボサの髪を数度掻き毟った。
やっと解放されるか。その様子にクレストがそう考えた時、アナスタシアは思いもよらない行動に出た。
小箱に並んだペン先から新しい物をひとつ取ると、それを一思いに手首に刺したのである。
彼が止める間もなかった。咄嗟に、え、とか、そのような声は出た気がする。
僅かに顔を顰めた彼女がペン先を抜くと、たちまち小さな傷口にぷくりと赤い玉が盛り上がる。
彼女はその腕を、呆気にとられているクレストに突き出してきた。
「吸血鬼は、血を飲めば元気になるんでしょ。
ほら、混じりっけなしの処女の血よ」
かなり強く刺したらしく、傷は大きさの割に深い。血は細い線になり、とろりと手首を伝って流れている。
ほら、と再度突き付けられて、クレストは戸惑ったように視線を顔と手首で往復させる。吸血鬼が血を差し出されて困るという状況も、なかなか見られないものであった。
「さっさと飲んで手伝って。
もったいないでしょ、血も時間も」
「……わかったよ、じゃあ……」
どうあっても今の箇所が片付くまで逃れられないと、覚悟を決めたというには弱々しく情けなく頷いたクレストは、そっとアナスタシアの手首を掴み、自らの口元に引き寄せる。
「つっ」
唇が触れた瞬間、反射的に手が引っ込められそうになる。
想定済みの反応であったのか、ぴくりと指が動いただけで腕はびくともしない。
彼に、さして力を入れている様子はないというのに。
肌に舌が押し付けられ、傷の上を柔らかく吸われる何とも例え難い感覚に、彼女は知らず息を止めている。良く言われるように、牙を突き立てられたりはしなかった。
時間にすればそう長くもなく、唇が離れる。
「……どうも」
クレストの力が弱まるや、アナスタシアは、ぱっと手を胸元に引き寄せた。
半ば無理強いで提供をしておきながら、そんな風に睨まれてもと、彼はまたしても困った表情を浮かべる。
これはさすがに理不尽すぎると思ったのか、警戒するような目元はすぐに戻った。
洋館の扉を叩いた時でさえこうではなかったという神妙な態度で、彼女はクレストに尋ねる。
「……どう? 体調は戻った?」
「まあ目は覚めたかな……」
「ようし、続きよ。もうひと頑張りだからね!」
確認が取れるや、途端にアナスタシアは勢いを取り戻した。
まだ血の染みてくる手首に、適当に布を巻いて作業に戻る姿を見て、元気になったのは彼女の方じゃないかと彼は思う。
このような、相当に無茶を重ねた頑張りの甲斐もあって、作業は順調に進んでいった。作業の過程でアナスタシア自身が言語を覚え始めたという事もあり、後半から格段に効率が良くなる。じきに人間の暦でひと月が過ぎようという頃には、書物は残っている方が少なくなっていた。
そして迎えた、最後の日。
これで終わり。文末にサインをしたアナスタシアは、そう呟いて大きな伸びをした。猫が鳴くような細い声が、彼女の鼻だか喉だかから長々と漏れる。
万感極まった、やり遂げた人間の顔をしていた。
おめでとう、と彼も地味な祝福を送る。
乾杯する酒はこの場にないが、山と積まれた成果こそが何よりの祝杯であった。
アナスタシアの差し出してきた手を、黙って握る。快哉を叫ぶそのままに、握り返される力は強い。
すっかり馴染んだ椅子に初めてゆっくりと腰掛けて、暫し作業開始からの苦労話に花を咲かせる。
「……でも、本当に助かったわ。
あなたがいなかったら、絶対に成し遂げられない事だった。
そうしたら、この本達は埋もれ、死んでいくしかなかった。それは悲しい事よ、とてもね」
アナスタシアは、解読の済んだ本の山に目をやる。心から書物を慈しんでいる、楽しんでいるというのが、クレストにも伝わってきた。
と、余韻に浸っていたアナスタシアが、ふと表情を変えて、どことなく言い出しにくそうに彼の方を向く。
「あなたには、お礼をしないと」
「お礼なんていらないよ。こんな事をしたのは初めてだから、大変だったけど俺も楽しかった」
「無償で一方的に手伝わせっぱなしってのは、私の気持ちが許さないわ。
これでも私は、人の世界じゃ貴族なのよ。富める者はただ富むのみならず義務と貢献とを自ら負うべし、ってね」
「あ、古書の解読もその一環なのかい?」
「これはまぁ、私の趣味……」
こちらの首根っこを掴んで強制労働させていた者とは思えない殊勝な言葉に、苦笑いのような笑みが彼に浮かぶ。その気配りを、作業中にもう少し示して欲しかったなあ、などと思ってしまう。それもまた思い出だ。
きっと、遠からず記憶に埋もれ、忘れてしまうものだとしても。
「ただ……そのね、あげられる物が何もないのよ。
自由に使えるお金は、この本達を手に入れるのに全部使っちゃったし……ここまでの旅費も結構かかってて……」
「帰りの旅費くらいあげるよ。
宝石だけど、途中で売ればそこそこのお金になるんじゃないかな」
「お礼するって言ってるのに、そこでまた貰ってどうするのよ!」
思わず大声を出してから、相手を怒鳴りつけるような場面ではないと彼女も気付いた。ん、ん、と、気まずそうにくぐもった咳払いをする。
「そういう訳で……お金とか品物とかじゃ払えないのよ。
あの本の山、かなり重くて。他に必要な道具を詰めたら、余分な物を持ってくるのは無理だったわ」
「うん、確かに重そうだね」
「…………えーとね……つまり、その……。
今の私に払えるものっていったら、私しかないわけ。
だから、それで」
「ん?」
「だ、だから! 好きにしていいって言ってるの!
死なない程度に血を吸うとか、もっと別の……夜の相手をさせる、とか。そういうの、何でも」
気丈そうな美貌が、初めて見る揺らぎ方をしていた。
そこまで言われて、ようやく意味が通じた。
「え、いや、いいよ」
「な、なによ、処女の血は好みでも処女の体は嫌いなの?」
小馬鹿にしたように、クレストを睨みつける。
虚勢を張っているのは確かだが、単純にそれだけとも言い切れない何かが瞳にあった。
「好きとか嫌いとかじゃなくて……。
君は、もっと自分を大切にした方がいいよ」
説教と呼ぶには全く迫力の無い声で、静かにクレストが言う。
唖然としていたアナスタシアは、やがて、いつの間にか乗り出しかけていた身を、どさりと椅子に沈める。
「……吸血鬼に身持ちを諭されるとは思ってなかったわ」
はああああ、と、下を向きながらの大きな溜息。
そのまま糸が切れたように、暫く動かない。
顔を上げた時、まだ同じ場所でぼけっと立って見ているクレストに、彼女の眼尻がきつく吊り上がった。
が、口元は笑っている。不思議な表情だった。
「――さっきのは冗談よ!
さ、終わったんだから、荷物まとめるのを手伝って!」
「え、今から荷造りするのかい? 今日はもうゆっくり休憩したら……」
「私だって、向こうの仕事が暇じゃないのよ。
ほとんど騙して出てきて、ひと月以上も留守にしちゃってるんだから、余分な時間なんて無いの。わかったら、ほらほら早く」
「はいはい……」
没頭した事に関しては、自分も他人も顧みない女性だった。しかしその生き方は、やはり楽しいものかもしれない。
アナスタシアが持ち込んだ荷物は、大部分が作業道具と本だったので、荷造りは半日もかからず終わった。迎えた翌朝。森の出口まで送らせようかというクレストの申し出を、ここで結構よと彼女は辞する。
そう言われては、それ以上彼が口出しする事もない。
この約ひと月、散々振り回された女性が去っていくのを、彼は初めて顔を合わせた玄関前に立ち見送った。森に消える間際に一度、振り返って思い切り手を振ってきた時の彼女の瞳の色は、それなりに長い間覚えていた。
それきり、アナスタシアと会う事はなかった。
それがまさか、こんな事になるとは。偶然とは恐ろしいものだと、クレストは改めて少女を見る。
面影……は、あるのだろうか。判らなかった。
「あっ、本なら聞いたことがあるよ!
ひいひいおばあちゃん……かな? その頃に、古い建物と、そこにいた人たちの本を、わたしの家で発表したんだって。
とってもすごい物だって、騒がれたみたいだよ」
古い建物と人々というのは、古書に記されていた、群在する遺跡と古代民についての記述だろう。
では、あの成果は役に立ったのだ。考えてみたら、彼はその後を知らなかった。
良かったと思うと同時に、現状に関する新たな疑問が沸いてくる。
「でも、どうして君が売られるような事に……」
「お金がね、たくさん足りなくなったんだって言ってた。
いろんなとこから借りてて、あとは、親切だった人が助けてくれなくなったりしたんだって」
「……自分の金は本に使ったと言っていたけど、そこまで困窮している感じではなかったが……」
「当時で言えば、それは正しかったでしょう。
彼女の家は富んでいました。ですが真祖、人の栄光とは移り変わるものであり、永遠ではありません。
どんなに高潔であろうと、貴族というだけで買う、民草の妬みもありましょう。
少しでも政局内での立場が悪くなれば、それまでの同士や支援者があっさりと牙を剥く事も珍しくないのです」
クレストは、少し悲しくなった。
子孫がこのような憂き目に遭っている、誇りと共に語った家が滅びかけているとアナスタシアが知ったら、どう思うだろうか。
「買われただけ、まだ良かったかもしれません。
反乱に巻き込まれていれば、一族郎党皆殺しにされて不思議は――」
「そこまでだ。
メイトリアーク、どこか人間の町で、この子を預かれそうな所を探せないだろうか」
「承りました、早速取り掛かります」
メイトリアークが、山高帽をくいと手前に引いた。
それから彼は、きょろきょろとこの場の全員を見ている少女に告げた。
「君はひとまず休むといいよ、とても疲れてるだろうから。
パトリアーク、もう少し楽そうな服を用意できないかな。このままじゃ寝辛そうだ」
「承りました。さ、わたくしと参りましょう」
少女は素直に頷いて、パトリアークに手を引かれていったので、とりあえずクレストはホッとした。
彼には、子供の面倒の見方などさっぱり判らないのだ。