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君のいる世界  作者: 田鰻
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迅雷 - 9

罵声はただの一度も飛ばなかった。

分厚いカーテンは脇に束ねられ、解放された大窓からの採光によって、室内は豊かな陽光に照らされている。

壁に刻まれたレリーフが、光に浮かび上がっていた。舞踏会の一幕を写した、華美でありながら品の良さがある品。

明るかった。まるで今にも扉を開けて次々と一家の者達が現れ、席に着くや、和やかな会話のかわされる昼食の席が始まりそうな、そんな爽やかな明るさの漂う部屋だ。そこに集った面々の表情と、今にも弾けそうに緊迫した空気さえ見ぬ振りをすれば、だが。

皆が立っている中で、一人だけ、両手両足を床につけている者がいた。

ウィルであった。両膝をつき、握った右手の拳を床に当て、左手は肘を曲げて右胸に添えた格好で跪いている。その姿勢で、頭を垂れていた。深く、深く、それこそ今にも、額までもが床に着いてしまうのではという程に。

カツカツと床を踏み、ウィルに近付く者があった。

誰かは言うまでもない。依頼主である、あの男だ。

即ち、ここは男の邸宅であった。

ウィルの正面で、硬質な足音が止まる。ウィルは顔を上げようとしない。男の靴先くらいは見えているだろうか。

先だって、フィリア・ソローネ奪還計画の結果報告は済んでいた。

では振り下ろされるのは拳か、靴底か、あるいは剣か。

意外な事にそのどれでもなく、逆に男はウィルを労うような、低い笑い声さえ交えて言った。


「ご苦労であった。貴公の働きぶりは賞賛に値する。

どれ、労いの酒でも授けるか」


男は手首を捻り、青銅色をしたゴブレットを傾けた。

その限界まで、ウィルの真上で。

紫紺に近い赤の液体が、ウィルの頭部に降り注ぐ。高価な酒は髪に染み、頬を伝って顎から垂れる。

仕事依頼を装った罠による暴力であれば、最低限の規律及び組織維持の為にギルドは動く。しかしこれはそうではない。惨めな敗北者が味わって然るべき、正当なる侮辱であり暴力だった。彼ら最下層の者達を、それから庇護してくれる力は何処にも無い。

ウィルは跪き、頭を垂れた姿勢を崩さぬまま、一言も声を発さなかった。

酒に浸った髪から強烈な匂いがする。顎を伝い落ちていく酒が、黄色い石造りの床に血のような染みを広げる。

誰も話さない。ウィルも、当の男も、周囲を固める護衛や使用人達も。沈黙が何よりの刃となる。この場でウィルの首が飛んだとて、誰ひとり驚きはしないだろう。そういう鋭さが広い室内の隅々まで満ちている。


「大損だ」


和やかですらあった男の、声の調子が一転した。


それは、あるべき状態になったと言える。

男はこうした小芝居を好む性格には見えなかったが、それを忘れるほど腹に据えかねたという事か。どちらにしても、好ましい状況からは程遠い。世にこれを超える最悪は主観的にも客観的にもそうはあるまい。仕事の失敗を理由に、直に命を奪われる事はまず無いが、絶対ではないのだ。楽観視の材料には成り得ない。

それにこうした後ろめたい仕事を依頼してくるような連中は、命を奪われるよりも尚悪い状態を知り尽くし、かつ作り出す事に長け、そして良心の呵責というものがない。味方など一人もおらず、ウィルは今、全ての鎧を剥がされたに等しい。


ウィルの率いた部隊は壊滅していた。

彼を除き、11名中9名が死亡、帰還できたのは僅かに2名のみ。

それも辛うじて無事と呼べるのは一人だけで、片方は生存しているだけであった。

精神を焼き切られ、いまや涎を垂らして譫言を漏らし続け、歩くのも覚束ない。ここに帰れたのが不思議な程だった。もう二度と使い物にならないだろう。いや、家族も無く、協会に飼われる術者の身では生きていく事もできまい。遠からず処理されるのは目に見えていた。ウィルの去った翌日にか、翌々日にか、あるいは今日にでもか。

その前に、ウィルがこの館を辞する事が出来ればの話であるが。


難を逃れた方はウィルと共に危険な前線に赴いており、廃人と化した方は後方で待機していた。何が明暗を分けたのかは、ウィルと生き残りの報告から知るしかないが、聞いても男には理解など不可能だった。証言から唯一確かに分かるのは、森に潜む魔物が途方もなく強いという事、それだけであった。

理解できたとて、不愉快にしかなれない無用で無価値な情報だった。熟練者達を掻き集めて作った奪還隊が、敵遭遇から間をおかず三分の二が瞬時に殺され、退却途中で待機部隊も瞬く間に殺されました。そんな話を聞いて、どうなる。

精神を灼き切られた者を、その場で始末した事もウィルは報告した。

依頼者の情報を守る為に必要な処置だったとはいえ、それで尚一層男の心象が悪くなった。

精強であるという事は、雇うのに金がかかるという事だ。その金を出しているのはウィルではない、この男だ。それもよりによって、貧民街をうろつく雑兵とは訳が違う、協会所属の術者達を。

フィリアを奪い返せていれば、まだ許せた。だが失敗した事で、単に追加で莫大な金を捨てただけになってしまった。如何に商品価値の高い奴隷といえど、ここまで損失が膨れ上がってしまっては取り返しがつかない。


「……申し訳ございません」


ウィルは手酷い侮辱にも怒らず、ただ繰り返し詫びた。

謝罪するしかなかった。腕一本でのし上がっていく世界において、しくじりを釈明する手段は存在しない。無論、謝ったからといって許される保証も存在しない。

この場合の存在しないはゼロではなく、マイナスを意味した。


「敵の精強さは、私の予想を遥かに上回っていました。よもやこれ程の手練れを揃えても通用しないとは。警戒を尽くして尚、認識が甘かった事は深く謝罪致します。部隊壊滅の責は全て私にあり……」

「黙れ」


男は告げた。怒りが生む罵声ではない。有無を言わせず、命じたのだ。

男は、悪とはいえ支配者であった。壁を隔てた上位に立ち、下層でもがく者達を使い捨てる側の人間だった。

その声が、責任は貴様にあると言っている。当然だ、他の誰にあるというのだ。

分かり切った事を言うのは無駄でしかない。それも、敗者というこの世で最も無駄な生き物の口が。

故に一切の弁明は聞かぬ。聞く必要もない。


その傲慢さは、実はウィルのような者達に対する正当な評価法だった。

弁など幾ら立った所で飯の種にはならぬ。彼らに求められているのはお喋りではなく、ただ、成功。一貫して成功のみを求められ、連続する成功のみが人間の価値となる。成功すれば、極論実力さえ問われはしない。

実力がなくとも、成功続きであればそれは使う価値のある者なのである。

実力があろうと、失敗したならば何の価値もない。丁度まさしく、今のウィルのように。

では、失敗の許されぬ仕事で失敗した者はどうなるのか。

運悪く生き残った場合、その者はどう転落していくのか。

今、それが此処に示されようとしていた。敗者に与えられるものは、いつでも種類に乏しい。

死か、破滅かの二択である。


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