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君のいる世界  作者: 田鰻
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迅雷 - 6

ウィルと、今や先遣隊では唯一の生き残りとなってしまった男が並走する。

もはや気配を潜める気を失くしたのか、それすらも頭に無いのか、ウィルに向けて男が怒鳴った。


「どうなってやがるんだ!! 想定を超えている!!」

「今は走れ、待機部隊と合流する!!」


答えになっていないが、男もプロだけあって即座に注意を周囲へと戻した。

今は自棄を起こしている場合ではないと判断した、その切り替えは早い。

数度に渡って作戦内容の説明は受けていた。障害となるであろう魔物の強さも、まさに説明に忠実であった。ただ、程度が、大袈裟過ぎると笑いそうになったウィルの話を更に上回っていただけだ。

なんだ、あれは。なんだ、あれは。

走りながら男は心中で繰り返す。だが聞くのは後だ。待機部隊と合流し、逃げおおせた後だ。今考えてしまえば、光景を思い出して恐怖に囚われてしまえば、交互に踏み出せている足がたちまち乱れる。

それも、逃げられればの話であるが。

男は、忍び寄る死の足音を久々に聴いた。あらゆる雑音を通り抜けて、耳の奥に直接触れてくるその音を。

ウィルは合流し立て直すと言ったが、男は既に、作戦を思い描いた時、真っ先に上がってくるのが逃亡になっていた。そして熟練の戦士であるからこそ、こうなってはその作戦は終わりだという事を知っている。

勝てない。あんなものには絶対に勝てはしない。

男は今の自分を過去に戻して、しつこい程慎重だったウィルの説明をもう一度聞かせてやりたかった。きっと二度目であろうと三度目であろうと真剣に耳を傾けるだろう。そして、任務から逃げたに違いない。

恐怖が生む、振り返りたい強烈な誘惑を堪える。足音は追ってこないが、何の安心もできない。


そうと知らねば見落としてしまうマーカーが、木の幹に光る。後続部隊は目と鼻の先にいた。

ウィルはひゅっと息を吸うや、後続の男と、幹を境に左右に別れる。

周囲には山林の景色が広がるだけ。が、確かに待機部隊はそこにいた。

ただ物陰に隠れているのとは絶対的に異なる、光を捻じ曲げ姿を眩ませる高等隠形魔術。衣服と装備品には人造のゲル状生命体から抽出した特殊な油が浸されており、行動に伴い発生する音をほぼ無音化出来る。

彼らこそが、この遠征に当たって編成された術師集団であった。

専業の戦士であるウィル達程には身のこなしに長けていないが、術と道具の複合仕様によって、生身の人間ではどうあっても到達できない領域の能力を自在に使いこなしてみせる。それだけに人材としては貴重で、道具や触媒を大量消費しての強さである為に、非常に出撃コストも掛かる。よって、このようにまとめて雇うなど滅多に叶わない。単純に金を積むだけでは不可能なのである。


陣の中央にウィルは飛び込んだ。走るのを止め、さすがに荒くなった呼吸を整える。

生き残りの男も止まった。これで数は6に回復した事になる。

ここまでの短時間での撤退、しかも2人しかいない事に異常を感じていない筈がなかったが、待機組から動揺の声は一切上がらない。術者達は、平静状態における精神制御だけならばとりわけ優れている。

撤退は、と聞いて首を横に振ったウィルに、男は一瞬明らかに忌々しそうにしたものの、単騎で逃げるまではしない。彼も職業としての生粋の戦闘者であった。


指を交差させるサインで、男と待機部隊に手早く指示が飛ぶ。

待つが、瞬時に6人を屠った黒衣の男は現れない。能力を考えれば、見失ったとも振り切ったとも考え辛い。もしや見逃されたのかと、本来任務が終わるまで抱いてはならぬ安堵を抱きかけたのが、たちまちひっくり返った。

全身が総毛立つ。表情にも気配にも殺意の欠片さえ感じられなかった黒衣の男とはまるで違う、臓腑までもが闇そのものに侵されていくかの如き不快極まる冷気が皮膚を撫でる。


「ギャッ!」


鈍い衝撃音。

苦鳴は、恐怖に負けてのものではなかった。

視線が集中する先には、黒衣の男以上にこのような場所に相応しくない装いの、可憐な少女が立っていた。上品な青色をした燕尾服。舞台に立つ曲芸師の挨拶のように、お揃いの山高帽へ片手を添えてみせる。

その少女から伸びた、伝承の悪魔を思わせる長い尾が、ひとりの男の胸を貫いていた。

ずぼり、と濁った嫌な音をたてて尾が抜かれる。栓を失い、胸の穴から鮮血を零して、男はうつ伏せに倒れた。

皆、声ひとつ立てられない。


「雑魚が数を頼んだところで無駄ですよ。そして無益です。

本当に無益な事が好きな生き物だ」


メイトリアークは言う。

眼前の襲撃者達を見下しきった冷淡な物言いは、日頃の彼女とはまるで別物であった。儚げにさえ映る美貌。虫一匹殺せなそうな容姿。それだけに容赦なく男を屠る様は、より一層おぞましい。


「様子は見ました、一応。ならばもはや謝罪も懇願も一切不要とお判りでしょう。

こそこそと隠れている方々も潔く出ていらしたらいかがです、無駄ですから」


今度こそ動揺が広がった。

術者の不手際で暴かれたのではなく、初めから見抜かれていたと告げられたのだ。

即ち、次に胸を貫かれるのはお前だと宣告されたのである。


「協会術士隊、詠唱に入れ!

対象『前方範囲』、目標属性『淫魔サキュバス』、選択属性『火炎』!」


問答無用ですか。

あなたは最後です、簡単には殺しません。

脅しを一顧だにせず即座に攻撃命令を下したウィルに、メイトリアークは冷たい目を向けた。

術者が詠唱を開始するとは、それを守る者達が行動を開始するという事。

ウィルと、そして生き残りの男が投げた小瓶を、メイトリアークの尾と手の甲が難なく払う。地面に落ちて砕けた小瓶の中身から、嫌な匂いが広がった。

束の間の時間稼ぎで、既に詠唱は終わっている。

発動範囲から逃れる為か、ウィル達が横飛びに跳ぶ。開けた視界の先に、透明化を解いた男がいた。厚手の旅装束は平凡なものだが、フードに縫われた三日月を掲げる手のシンボルが、その男の出自を証明している。

去勢兵。

魔術協会の中でも殊更宗教色の強いラノラ派が擁する、魔術の素養のある少年を、協会への忠誠の証として幼いうちに性器を切除させた戦闘員である。肉体の一部を欠き生涯を協会に縛られる代わりに、研究者としての身分保障と、あらゆる税の免除を受けられた。


魔術とは、つまるところ精神の鍛錬である。本能を強制的に捨て去らせる歪みが彼らの精神を尖らせ、術の分野における特異な才能と伸び、振れ幅を引き出した。更には薬物投与と洗脳にも近い徹底した教育によって、通常の成人男性よりも肥満傾向が強く、弱くなりがちな肉体的不利を補って余りあるだけの術戦士として作り上げる事に成功したのである。

そして、これは思わぬ副産物を生んだ。

古来より人の間近に出没した魔物、淫魔に対して高い耐性を発揮したのである。

淫魔の力とは、人間の本能に訴える力である。たとえ一段階なりとも肉体面、及び精神面の反応が低下すれば、そこには自然と遅延が生じる。そしてその遅延は、優秀な術者である去勢兵達にとって非常に有利に働いたのだ。

性愛を糧として生きる淫魔への冒涜とも呼べる人工兵に、メイトリアークの表情が険しくなった。自らへ向け迸った業火を前にして、薄紅色の唇は恐れではなく怒りと喜悦に笑う。

炎。最強の浄化力を誇る四大元素。光を除き、闇に打ち勝つ唯一の精霊。


「……あ、あ……あ…………」

「こんにちは。

見事な魔術でしたけれど、折角の威力も当たらないのでは無意味ですね。

火遊びで淫魔に勝とうとは片腹痛い」


炎が去った後、そこには服ごと腹を尾に貫かれた男がいた。

渾身の詠唱を終えた姿勢のままで。

術者というと兎角暗い部屋で机に齧り付いて本ばかりを読んでいるように、魔術などとは無縁の一般層には思われているが、それは正確ではない。そうした者達が多数を占めるというだけで、今回の部隊と同じく、戦う訓練を積んだ者達も多く存在する。数と質は所属する魔術協会によりまちまちであり、熟練者であれば単独で二十からなる小隊を潰走せしめるという、生ける破壊兵器と呼べる存在と化す。

専業の戦士に比べると身体能力は劣るが、彼らは己の武器によって弱点をカバーしていた。肉体強化や皮膚表面の硬化、魔力によるシールドを張る事で、打撃を和らげ、斬撃を防ぎ、熱や冷気に耐える。


メイトリアークの尾は、槍の穂先が紙を切るに等しく、それら魔術障壁を切り裂いていた。

動きは確かに幾分鈍った。ウィルや”狂犬”であれば避けられたであろう。

だが、魔術の技量と反比例して肉体鍛錬の絶対的に足りない男に、そこまでの敏捷さはなかった。

淫魔は直接の戦闘をしないだけで、できない訳ではない。

淫魔は直接の戦闘能力が低いが、すべての淫魔がそうという訳ではない。

それを思い知らされながら、男が中空に吊り上げられる。

もがく手足が出鱈目に宙を掻く。拷問の訓練を受けている訳でもなく、聞くに堪えない悲鳴があがる。まるで屠殺場だった。豚のように吊られた光景も、滴り落ちる血液も、響き渡る絶叫も。

メイトリアークは、尾一本で男一人をぶら下げていた。

驚嘆すべき力だが、吊られている側は、腹に穿たれた傷の一点で全体重を支えている事になる。その苦痛たるや想像するだに壮絶であった。


「下から串刺しにした方が、趣きがあったでしょうか」


恐ろしい事を、メイトリアークは口にした。


「生殖器を廃棄した程度で、乳飲み子すら絶頂させる淫魔の王族に通じるとでも?

快楽域そのものを焼き尽くさない限り、対策にすらなりません。

灼き尽くされるのは貴殿らの側ですが」


尾の先端から、表皮から、大量の粘液が分泌され始めた。

絡み合う透明と鮮血の赤は、一見すれば飴細工のようだ。

激痛に喚いていた男の口から、涎と共に別種の呻きが漏れ始めた。

快感も過ぎれば猛毒となる。殊にそれが魔性の技によるとあっては。

ほぼ致命傷とはいえ、尾が抜かれていない為に少量だった体外への出血量が変化しつつあった。小さな傷口から、目に見えて血液が溢れ出す。血流が急激に増している。激しく脈打つ心臓が、服の上から見えるような錯覚に陥る。

仰け反った頭が数度前後に揺れると、呆気なく首が前のめりに折れた。

それきり、男は動かなくなる。断末魔の呻きも、法悦の喘ぎも、もがいていた手足も、一切の反応を失った。

心臓が爆ぜましたよ、と、簡単にメイトリアークは告げた。

淫魔により与えられる快楽が、人の肉体と精神の許容量を超えたのだ。

炎を用いて淫魔を焼こうとした男は、淫魔の焔に灼かれて逝った。

術者達は既に、その数を半分にまで減らしていた。


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