迅雷 - 5
敵はいつ攻撃してきたのか。
しかし隊に動揺らしい動揺は見られなかった。
魔物と交戦していればままある事だった。この程度までならば。
鉤縄を握っていた2人が、棒状の冷却弾を投げた。強烈な冷気は全身の筋肉を強張らせ、息を妨げ、同規模の炎か時としてそれ以上の拘束効果を持つ。
白い爆炎があがり、2人が直ちに次の行動に移るそれよりも早く、ぐんとワイヤーが引かれる。
あり得ない事であった。全身を絡め取られ、喉を締められ足も塞がれ満足に踏ん張れもしない者が、絶対的優位な態勢にある複数の相手を引っ張り返すなどと。
それを、苦もなく引いた。
片手でひとりを。もう片手でひとりを。
否、そもそもそれは本当に手によるものであったのか。標的の両腕は縛られて使えない筈だというのに。
ウィルの率いる男達は、場数を踏んで心身を鍛えた熟練者達だった。
常であれば、咄嗟にワイヤーを離し逃れる事もできた。
クレストの引き寄せは、反射行動さえも許されぬ程に疾かったのだ。
自らが放った冷気の塊の中にしゅっと吸い寄せられていく様は、彼らの目にさえ現実離れした光景だった。短い悲鳴。声はすぐに消えた。吹き散らされる白い煙の中から、人3人が凝集した異様な輪郭が姿を現す。
クレストの纏う黒いマントの端が触手めいて伸び、男2人の胸部を貫通して抱き寄せていた。
哀れな犠牲者を引き寄せたワイヤーを握っているのもまた、マントの別の端であった。あれは、ただの服などではなかったのだ。
ヒッ、と後方の男が、戦闘開始から初めてとなる怯えた声をあげた。
それですら、彼らの卓越した技量の証明となる。並の戦士であれば、ここまでで一体何が起きたのかさえ理解が追い付いていないだろう。精鋭が、瞬く間に、減った、4人も。事実を認識できたならば、己の置かれた状況が把握できぬ筈がなかった。
ウィルの解除術式がようやく完成する。それとて充分に手早かったのだ。敵の反撃が早すぎただけで。
捕縛型の結界弾が、クレストの爪先に着弾する。ぱちぱちと乾いた音を立てる光が、日溜まりのようにクレストを中心とした円形に広がった。歩行型の標的に対しては、範囲に入り込んだが最後、命取りとなり得る強力な罠である。
しかし、一同に安堵の表情はない。こんなものは焼け石に水だというのが、既にこの部隊の共通認識となっていた。
激しくウィルは舌打ちをした。駄目か、と吐き捨てたのが、全員の耳に届く。
「撤退だ、立て直す!」
号令らしい号令が初めて飛んだ。
だが、”狂犬”はそれを無視してクレストに躍りかかった。
「馬鹿ッ、やめろ!!」
一際強くウィルが叫んだが、”狂犬”は止まらない。
確かに、眼前の敵を斃すとしたら今を置いてなかった。鈎縄による全身の捕縛に加え、ウィルの放った結界弾も相手の両足を捉えている。瞬く間に4人が屠られたのを見てなお立ち向かったのは、白兵戦を最得意とする”狂犬”の、己が技量への自信が、あれらの攻撃を交わしきれると判断させた為であった。
荒々しい肉体が滑るように動いた。宝石によるエンチャントを施した強化細剣から、正確に4つの刺突が突き込まれる。
疾風の如き大動作であった。攻撃の疾さだけなら、ウィルをも超えていただろう。
喉、肋骨を縫って胸、左の腎臓、大腿部。それら全てをクレストは――受けた。
ばくりと開いた傷口が、灼熱して輝く。
剣に付与された術が流れ込み、発動する。同時に、会心の笑みを浮かべかけた”狂犬”の上半身が吹き飛んでいた。回避に向けていたフットワークが、動作の途中までを完璧になぞり、そして崩れ落ちる。
伸びたマントの端が、巨大な掌で叩くかの如く、その辺りを真横に薙ぎ払ったのだ。
それはまさしく掌だった。均一な幅で続いていたマントの端が、急激に平たく膨れ上がって面積を増している。
”狂犬”の回避動作は申し分なかった。軌道の読みも誤っていなかった。
単にクレストの構造が、魔物の常識からさえ外れていただけだ。
”狂犬”は死んだ。本当の名前も知らぬまま、名前があったのかさえ知られぬまま、死んだ。
クレストは手首をひょいと返し、ワイヤーに指先を引っ掛ける。浅く指が曲がっただけで、鉄糸を幾重にも編んだワイヤーがぱらぱらと細かく千切れた。
俯いていた顔を、クレストが上げる。とうに遥か先を駆けている者達は、果たしてそこまでを目撃していたのか。
乱れを最小限に留めた呼吸と、激しく草を踏み散らす音が入り混じる。
先頭を行くウィルが突出して速いが、残り2人も引き離されずに付いてきている。
残り、2人だ。2人になってしまった。交戦した途端に。
背後から、長衣が風を切る唸りが響く。
「来てるぞ!」
ウィルが一喝する。左横を走る男の喉から引き攣った悲鳴が漏れる。
そこへ襲撃から初めて聞く、クレストの声が届いた。
「ま――」
待ってくれと、彼は言いたかったのだろうか。
声が言葉となり意味を成す前に、ウィルの身体が軸足を中心に翻った。
ダンスのターンを思わせるような、いっそ華麗とさえ言える身ごなしで投擲された炸裂弾が、クレストの顔面を直撃して弾け飛ぶ。
耳鳴りを伴う派手な轟音と閃光が、森を照らした。
爆風が背を打つ。通常ならば即死であろうが、駆ける足を、そして心を緩める者は一人とていなかった。
あのような光景を目の当たりにした後だけに。
爆発の余韻を、土煙の向こう側から、強く地面を踏み込む音が蹴散らす。
明らかな加速音であった。それに気を奪われたか、遂に恐怖に負けたか、逃げる男の片方が足を取られた。転びはしない、僅かにもつれたのみ。だがそれすら現状況下では致命的だと、この場の誰もが知っていた。他ならぬ、その男自身もである。
足を止める者はおらぬ。呼びかけもせず、助けようともしない。下手な連帯意識を出せば、死ぬ。
男が体勢を立て直した時には、胸から上をいまだ燃え盛る火炎に包まれたクレストが、真後ろまで迫っていた。
逃げられない。曲がった指に喉を掴まれるまで、一呼吸。
破れかぶれの、裏返った叫びがあがった。男は短刀を握り直すと、クレストの目に向けて突き出す。
クレストが振り下ろした左手によって、その腕は真上からあっさりと叩き折られた。肉と骨が断裂する激痛を感じる間さえ与えられず、右手が男の口蓋をぶち抜いて延髄を破壊し後頭部にまで抜ける。飴細工のように頭蓋が砕け、バランスを失った首から下の胴体が、びちゃりとクレストの胸に衝突した。
一瞬のブランクは、彼らにとって天佑となったに違いない。
ウィルともう一人の男は、少なくとも視界からは完璧に姿を消していた。仲間の死が煙幕になると瞬時に判断し、クレストの注意が逸れたほんの刹那の隙に、巧みに木々の隙間を縫って身を眩ませたのである。
こうなってしまえば、常人による追跡は困難だった。逃走経路に一度の枝分かれを許すという事は、迷っている間に、その枝分かれが二度に、四度に、八度にと、際限なく増殖していく事を意味する。
無論、クレストであれば話は違う。
しかし、彼はもうウィル達を追おうとしなかった。
まるで助けを求めて縋るかの如き格好で足元にずるりと崩れ落ちた死体には構わず、糸が切れたようにその場に立ち尽くして、彼らが逃げ去ったと思わしき方角を無言でただ見詰めていた。気怠そうで、眠そうで、常に疲れているようで、どうあっても明るくならない表情に、少しの悲しみを滲ませて。
ウィル、と呟いた彼の声を聞ける者は、誰一人そこに残ってはいなかった。
どうしてだ、ウィル。




