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君のいる世界  作者: 田鰻
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迅雷 - 4

『なぁに見てんだよう』

『隊列を崩すな、戻れ』

『カタイこと言うなよ、ピクニック日和過ぎて飽きてきた』

『持ち場に戻れ』


あろう事か隣まで寄ってきてニタニタと笑う”狂犬”に、ウィルは表情を殺して命じた。

彼らが用いたのは、シーブズウィスパーと呼ばれる特殊暗号言語である。流派によって複数の形態が存在する。隠密行動下での意思疎通の為に単語や文法から作られた簡易言語で、声量を抑え唇で伝える技能も含むが、他人と組む機会の少ないウィルはそうそう使う事がなかった。ひとつ言える事としては、間違っても雑談に使う類の言語ではない。それも、僅かな油断も許されない難関を前にして。

よくよく肝が座っているのか、己のやり方を崩すというのを知らないのか。

編成に加えた事が吉と出るか凶と出るか――この性格と戦闘スタイルを見る限り、良い方向に行くだろうと判断する。それを心に留め、辛抱強くウィルは繰り返す。


『戻るんだ、”狂犬”』

『まだ大丈夫だろ。敵さんの影も形も見えねェんだし』

『何度も事前に忠告したろう、見えてからでは遅い相手だと。

直ちに戻れ、”狂犬”』

『魔物相手なら自信あるんだがなァ。この腕を振れば、みィんな砂糖菓子みたいに死んでったもんサ。砂糖菓子なんて食った事もないけどよォ。なぁ、ある? てめえはある?』

『重ねて命じる、戻れ、”狂犬”。

そのまま並んで歩いてて、あそこの結界に引っ掛かりたいのか?』

『オオゥ危ねえッ、早く解除してくれよォ』


”狂犬”が声に妙な抑揚を付けておどける。

さすがに溜息を吐いて、ウィルが片手を上げた。皆が止まる。

目を凝らし、彼は二歩半右にずれた。魔力線を縦に張っただけの単純な探知網は、解除するまでもない。

進軍を再会する。すかさず隣に並んできた”狂犬”の軽口もまた再開された。

集中力を著しく欠いた男に、ウィルは怒りはせずに念を押す。

戻らせる事からは一時離れた。


『もう一度言うが、お前さんの得意な近接戦は、完全に動きを封じ切るまで絶対に避けろ。特に、黒だ。そいつにこちらの体を掴まれたら最後だと思え』

『掴まれちゃったらオシマイねェ。いつもやってる事と変わらねえよソレ』

『母親のスカート握って駄々捏ねるぼうやと、鎌みたいな爪で襲ってくる巨大熊を一緒にして考えるのか?

ゴミ捨て場で寝てるこっちの足を、何度追っ払っても齧りにくる鼠みたいにしつこく言っておく。目的は敵の殲滅ではなく、ターゲットの奪還だ。奪って、逃げられさえすればそれで済むんだ』

『ヒ、殺してから捜せば同じ話じゃねェのか。しかもノンビリ探せるぜ。御殿とやらでくつろぎながらよォ、他のお宝も持ち帰れちゃったりしてサ』

『どうしてもというなら、この任務が終わった後に一人でやればいい。

仕事としてここにいる限りは、オレの指示に従ってもらう』

『さすが”オールマイティ”の言葉には含蓄がある。どっかのバカ犬とは違うねェ。

ところで……オールマイティってどんな意味だったっけ?』


くふっと鼻を鳴らして、”狂犬”が嗤った。

吠えたのかもしれない。

部隊の中で、喋っているのはウィルとこの男だけであった。


『それにしても平和な森だ。

奴さんお昼寝中かもヨ。このまま出くわさずにイケるんじゃないの?

森の端っこからこっそり入ったんだからサァ』

『それは前回も同じだった。

最小限とはいえ結界を壊して進んでるのに、呑気に昼寝してる訳がない』

『前回、見付かっちゃった、ふーん。

それってサ、てめえがヘボだったからじゃねえの?』

『ああ、そうだ、オレの力は足りなすぎた。だから多くの熟練者を集める必要があった。オレのヘボっぷりをフォローしてくれるだけの、お前の働きに期待している』

『任せとけよ。周りにいたら殺しちまうかもしれねえけど、恨まないでな』

『恨んだりしないさ、依頼主に報告はさせてもらうがね。

……さて、もう戻ってくれ、”狂犬”』


ウィルの目付きが変わった。

益体もない会話から関心が失せ、注意は一直線に森の奥へと向かう。


『来る、あいつが』


呟いた。

”狂犬”が幅の広い口を半開きにして、胡乱な目を辺りに向ける。

森は何の変哲もないまま、豊かな緑で彼らを包んでいる。


『来ないじゃねえかよう』

『来る』


確信があった。いかに気配を薄れさせようと、それは所詮、人間の持ち得る範囲の技能に過ぎない。

必ず嗅ぎつけてくる。奴ならば、奴らならば。

自分達の強さよりも敵を信用するかのような言葉を口にするウィルに、”狂犬”が鼻白んだ。

ウィルは気付いていたが構わず、ひたすら周囲の変化にのみ神経を尖らせる。

最初の襲撃時と帰路における観察により、ウィルには現在森の中で自分達がいる位置を、あたかも地図上で駒を動かすが如く正確に把握できた。


来る。


心が警鐘を鳴らしている。

何処まで接近すれば、来るか。

侵略を見過ごしてもらえるのは、何処までか。

来るとすれば、誰が先陣を切るか。

それら全要素を想定し、遭遇後に取るべき行動を練っていく。

練り進める程に、自分の心臓が抉り出される映像が鮮明になっていく。

嘔吐しかねない極度の緊張を制御するのには慣れているが、決して気持ちの良い感覚ではない。


――来る。


ウィルは低く細く口笛を吹き、注意を促す。

そよ風に紛れるそれは、ともすると野の獣ですら聞き逃すかもしれぬ。

集団でありながら草を踏む音は無いに等しく、纏う気配は山そのものに溶け込んでいるかのようだ。


来る!


どくんと森が脈打った。

異変を感じ取ったのはウィルのみにあらず、全員に電流のような緊張が走る。

今の今まで半信半疑でいた”狂犬”が、表情を消すや即座に定められた位置へと下がった。

隠さない足音。山を掻き分ける様。藪を跳ね飛ばす靴先は、整えられた彼らの行軍とは正反対である。来るとしたら、誰が先陣を切るか。ウィルは、己の予想がまさしく的中したと知った。

自ら率いる奪還部隊に下していた作戦命令の、最後の箇所。そいつとの遭遇時には一切の疑問を持たず、指令をも待たず、各自が取るべき行動について、汗の滲む手を握り締め最後の反芻を行う。


黒衣の人影が現れた。

走る勢いで広がったマントは、深い森の中で、まるで大翼を広げた怪鳥のように見えた。

ウィルの姿を認め、クレストの瞳が僅かに揺れる。唇が動きかける。

合図は要らぬ。視認自体が号令となる。

予め伝えられていた通りの姿に、全員が直ちに攻撃に移った。

完璧な軌道を描いて捕縛の縄が飛ぶ。先端に重しとして付けた鉤爪が服を破り肉に噛み付き、棒立ちでいるクレストに、猪の成獣でさえ繋ぎ止める頑丈さのワイヤーが次々と絡まっていく。

頼りない痩せぎすの男に、あまりにも素人丸出しの姿勢に、普通ならターゲットを誤ったかと躊躇しそうなところだが、攻撃の手が止まる事も緩められる事もなかった。彼らは己の気分で喧嘩をしかけ、血が出れば狼狽える素人ではない。命令に従って動くプロなのだ。

4本のワイヤーが首を前後から挟み、腕を手を足を絡め取る。投擲手のうち2人がワイヤーを引くと、細身の鋼線がぎりりと身体に食い込んだ。突き刺さった鈎爪だけでも相当な苦痛を伴う。残り2人は、手早く持ち手を樹の幹に打ち込んだ。先端が反しになっている為、容易には抜けない。

捕縛は完了した。一歩を退がる隙さえ与えられぬ早業であった。

あとは、殺すだけ。刃を握らせた子供でも可能だろう。

誰の目にも、そう見えた。

鉤縄を握る2人が、強くそれを手前に引く。縄は標的の脚の自由を奪い、転倒させる。倒れた標的に向かい、縄を放した2人が踏み込み、強力な昏倒性の毒を塗り込めた手槍で刺せば終わりだ。


クレストは倒れなかった。

ひ弱な体格の男が、屈強な戦士達が全力を込めたのにも関わらず。

びぃん、と鋼線が上下に振動する。

予定が狂い初動に遅れが生じたが、さしたる障害にはならない。男達は手槍を構えて突進する。

どこまでいっても虚ろな目が、微動だにしないまま、ぼんやりと2人を見ていた。


次の瞬間、濡れ雑巾を叩き付けるような音がした。

向かっていった男2人の頭部が、真横に薙ぎ払われていた。

1人は首から上全てを、もう一人は頭の上半分を失い、びくん、びくんと残った身体が痙攣する。

標的が倒れる筈だった地面に、自らの身体を横たわらせて。


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