待ち人、来たる - 1
真剣な面持ちでジョウロを傾けるフィリアを、クレストは隣で見守っていた。
夢中になりすぎて暑さにやられない為の監視役であるのと、あとは単純に彼だけやる事がなかったからだ。
フィリアは、花壇の花に水をあげるという重要任務の真っ最中である。
パトリアークに手解きを受けた限られた範囲の花だけだが、あの青年がどれだけ庭造りに精魂傾けているかを知っているフィリアは、人生の一大事に臨むかの如き真摯な誇りを胸にじゃあじゃあ水を撒いている。
それにしても、とクレストは思う。以前に自分があえなく追い払われた作業に、フィリアは従事するのを許されている。この扱いの差は一体どういうつもりなのだろうと。さすがに九歳児に作業効率や正確さで負けはしない筈だが。
今朝の寝起きに頭へ食らったフィリアダイビングの当たり所が余程悪かったのか、自己主張の希薄な彼にしては極めて珍しい類の疑問が生じていた。あまつさえ、たまには居丈高に振る舞って威厳を取り戻すべきではと、クレストの思考は更なる発展を見せる。
早速そのようになった自分の姿を思い浮かべてみて、浮かんだ瞬間に捨てた。無理だ。
「フィリア、今日はプールはいいのかい?」
諦めて話題を変えたクレストに、フィリアはうんと頷いた。今日の日差しが夏にしてはさほど強くなかったのもあるし、単純に泳ぎすぎて飽きてきたのかもしれない。白かったフィリアの肌は、小麦色とはいかないまでも幾らか日に焼けていた。子供にこの色は良く似合う。そんな些細な変化に、クレストは不老不死である自分との違いを意識する。
「せっかく作ってもらったのに、あんまり遊べる時間ってないよね。
夏って、結構すぐ終わっちゃうんだ」
「そうだね、早いよね」
「クレスト、もっと夏をのばしたりできない?」
「それは無理だよ……きっと」
「そかー」
無能の全能といえるクレストには、自分に季節操作などという離れ業が可能だとは思えなかった。これまでやろうとした事もなく、該当する能力があるという自覚もない。従者達の力を借りた擬似的な再現ならば可能かもしれないが、いかに彼がフィリアの願いに関して無節操だろうと、自然の摂理まで曲げてしまうのは気が引けた。フィリアも、それ以上粘るでもなく納得する。元から本気で聞いた訳ではなかったのだろう。
ひとつの季節は、すぐに過ぎ去ってしまう。折角のプールが使われる機会は来年まで――いや、もう二度と来ない。
来てはならない。フィリアは人の世界に戻るのだから。
この決定事項についてだけは、彼の心は微塵も揺らごうとしなかった。
プールの処遇については、惜しいとは思わない。そもそも何もしていない彼に惜しむ資格は無い。資格があるのは、設計者であり作成者であるパトリアークだ。
ともあれ、彼にプールへの執着は無い。だが残念そうなフィリアを見ていると、何か言ってあげたいと思ってしまう。いつだってそう思い、いつだって大した事を思いつけないまま終わるのだけれど。
「ほかの使いみち探そっか」
「他の?」
「うん、ゆーこーりようってやつだよ! 遊ばせておくの、もったいないもん」
「……? ああ、遊ばせておく、ね」
それが何もせずに放置しておくという意味だと、少しかかって思い出す。遊ばせておくだなんて難しい表現を知っているものだと、クレストは感心した。
勉強好きなフィリアは、こんな限られた環境下でも日々様々な知識を吸収してくる。それは蓄えられた蔵書からであったり、メイトリアークやパトリアークからであったりした。意欲のある子供の伸びは驚く程に早い。
フィリアはプールを睨みながら、うんうんと難しげに唸っている。
幼いながら真剣に考案する姿はなかなか様になっていた。知識の量と発想の豊かさとは必ずしも結び付かないとはいえ、多くを識る者はそれだけ多くの閃きに近い位置にいる。さて、ではこの駆け出しの読書家は何を思い付くのかと、固唾を飲んでというには寝惚けた目付きでクレストは成り行きを見守った。
「あ!」
「考えついたかい?」
「いけす!」
「……いけ?……ええと、これはプール……」
「違うよ、いけすだよ。本で読んだの。
あのね、こういう囲いにお魚を放しておいて、いつでも食べられるようにするんだ」
「へえ、便利なものがあるんだね」
そんな発想もあったのかと、クレストは感心した。
フィリアが読んだ本なら彼も読んでいる筈なのだが、思い出せなかった。完全に忘れている。
食物を蓄えるという当たり前の行為に今更改めて感じ入ってしまうのは、彼が食事を必要としない生命体故にだ。人や魔のみならず、獣の中にも一種の農場ないし漁場を、そして食料庫を構える種族は多く存在する。この屋敷にも、パトリアークやメイトリアークが管理している食料庫や畜舎がある。
それなのに、いざ食事時を迎えてテーブルに呼ばれるその時まで、彼は食事という行為を己から切り離されたものとして認識する。
彼は、人からも獣からも魔物からも弾かれた存在だった。
世界と同一であるとは、純粋なる不老不死であるとは、どこに所属するのも許されぬという事である。ならば果たしてこれを生命の括りに含めて良いものか。駄目だというなら、彼は死ねない身でありながら既に死んでいる事になる。
そして決して壊れぬ心を持つが故に、その事実に絶望する事さえ出来ない。
「……あ、でも、お魚なら近くの川にたくさんいるかぁ」
「確か、そうだね。
それにこんな狭い場所では、魚も長くは生きていられないかもしれないよ」
「じゃあかわいそうだね、やめとこ」
殺して食べる目的で囲ったものを可哀想と呼ぶ感覚が、クレストには不思議だった。かといってフィリアに肉を避けている様子は見られず、食卓に上れば喜んで食べる。この割り切り方もまた、食料だろうと無意味な命の浪費は避けるという人間独特の感覚のようだ。
後で、メイトリアークかパトリアークに聞いてみるのも良いかもしれない。
ひょっとしたら、過去にも何度か聞いた事があったのかもしれないけれど。
クレストとて、経験して学ぶ能力はある。
人間と決定的に異なるのは、彼は、遠い記憶の彼方にいずれ全てを置いてきてしまうという事だ。
人は、そうなる前に生の終わりを迎える。忘却するにしても、彼のような忘れ方をする事はない。有限の生命である以上、無限の向こう側に記憶を置いてくる事は絶対にできない。
今交わした会話とて、いつかは忘れてしまう。どんなに憶えておきたいと願っても。忘れないように書き留めておいたとしても、きっとその文の意味ごと忘れてしまう。
それでも、彼は憶えていたいと思った。この期間に見、聞き、教えられ、学び、感じた記憶達を。
せめて、いつか自分がフィリアの存在を忘れてしまう日が来るまでは。
「クレストもいっしょに考えてよー」
「う……うん、わかった。頑張ってみるよ」
承諾はしたものの、それはクレストにとって相当の難題だった。
生産からも消費からも隔絶されている存在が、生産的かつ実用的なものを生み出すのは難しい。なにせ当人がそれらを一切必要としていないのだから、勢い出てきたものは見当外れで無益で不恰好な怪物になる。
それでもフィリアにせがまれたのでは断れず、プールを眺めながら、クレストは彼なりに必死に知恵を振り絞った。
考えて、考えて、考えて、考えて、やはり何ひとつ思い付かなかったところまでもが予想通り。わたしも分からなかったよとフィリアが慰めてくれたのが、微妙に悲しかった。




