帰還、そして - 6
悪に所属する富豪の住居というのは、総じて嫌な匂いばかりがする。
こうまで共通項として挙げられると、彼らが示し合わせて様式美を演出しているのではという疑惑すら抱きそうだ。
僅かな期間で忘れかけていた、彼にとっては当たり前の感覚を、ウィルはここにきて取り戻していた。
悪臭など微塵もあろう筈がない。立派な家を構えれば、その隅々まで手入れを行き届かせておくのは主の見栄であり、雇われる側の義務である。ここで言うところの嫌な匂いとは、そうしたものに付いて回る欲望の匂いだ。欲に塗れ、欲に使われる最底辺の世界を這いずって生き延びてきたウィルには、華やかな塗料の下に隠れた悪臭を、望まずとも嗅ぎ取れてしまう。
そう思うとあの洋館が異常すぎたのだ。どれほど贅の趣向を凝らそうとも、付き纏う色香は淡白なまま。金銭にも見栄にも執着がなく、向かう欲望の先が人とは相容れない者の築く砦は、自ずとああなるのだろうか。あるいは彼らと同じ存在であれば、人の身では感じ取れない、纏わりつく別の欲の匂いを感じられたのかもしれない。
思考が脇に逸れていたのは、一瞬。
ウィルは、目の前の現実と改めて対峙した。
依頼者、つまりは今回の雇い主に当たる男が、尊大に彼を見下ろしている。
フィリアを扱うボードレール商会の支部長どころではない。その一段階上の、購買者。直に、あの命を買った人間だ。長身のウィルを尚見下ろせる程、この男が人並み外れた背丈の――という訳ではない。いる場所が、彼よりも一段高いのだ。玉座でこそないものの、重厚な椅子に深々と沈んだ様は、まるで王様気取りだ。
どうしてこう権力者というのは、高い位置が好きなのだろうかとウィルは思う。
こうなると本当に玉座であってくれた方が、まだ振り切れていて好感が持てる。
迫力がある風貌かと言えば、これはそうでもない。
見るからに強そうという事もなく、はち切れんばかりの肉体も、顔を走る無残な傷跡もないが、では善人に見えるかと問われれば、全員が迷わず首を横に振ってみせるような、要はそうした容姿をした男だった。
が、更に踏み込んで、没落貴族の娘を甚振って愉しむのが趣味に見えるかとなれば、これは誰もが返答を迷う程度には紳士然とした出で立ちでもある。
名はベノソフといったか。いずれにせよ、これから先に話を進めるに当たっては、あまり意味のない情報だった。
そんな個人的な感想を、ウィルが表情に出す事は決して無い。感情表現の相手は選ぶものだ。
各所に露骨に配備された護衛達は、この主をどう思っているのだろうか。
おそらく、どう思ってもいまい。この場に立つウィルと同じ、ただの仕事だから。
依頼主周囲に4人、やや離れて1人、背後に2人、と、ウィルは大雑把に数を見繕う。
正規の訓練をしたお抱えの私兵。野外での騙し討ちには弱そうだとしても、この室内では手こずらされるだろう。距離を詰め、護衛の壁を突破して依頼主の首を掻っ切る難しさと、あの頼りない男の心臓を貫く難しさとを、ついウィルは比較してしまった。攻撃が届くまでは後者の方が楽、だがその後は言うまでもない。
通常、ウィルのような稼業の者が、こうして身分違いの依頼者と直に顔を合わせる機会は生まれない。仲介は所属する団体が請け負ってくれる為、会う必要がそもそも無く、相手にとっても排水口の鼠と同列に見做している存在を、わざわざ磨き抜いた邸宅に上げて面会したい筈がなかった。
ウィルとて、通常の仕事ならばそうである。会わないし、会えないし、会おうとも考えない。
しかし、これは通常の仕事ではなかった。名指しの仕事である。
大袈裟だが、彼はそれを皮肉を込めて勅命と呼んでいた。
この場合、彼は必ず依頼主と顔を合わせる事にしている。それを断られた場合は、仕事自体を断る。
ささやかな矜持の誇示というよりは、安全策の為であった。
指名が必要になる程の仕事なら、直に聞かされない内容は信用できない。
依頼に裏があるか、つまり真意を隠してこちらを騙そうとしているかどうかも、ある程度なら探る事ができる。
これはウィルに限らず、名指しの仕事を受ける程の者ならば、そう珍しい慣習ではないらしい。広く取られている慣習だからこそ、こちらの面会要求もまた通りやすくなっているとも言える。
ウィルは居心地の悪さに耐えていた。
富裕区にいる自分には、正規の認可を受けていようと、忍び込んでいるという意識が消えない。
とある貴族の家が潰れた。そこの娘が買われた。買った商会がいた。遡れば、そこに注文をした男がいた。たまたま、自分の活動拠点がその悪党の住居と近かった為に、巡りに巡って、雲の上の相手と顔を突き合わせている。この偶然は、あの森の者達にとって幸運であったのか。そして、自分にとってはどうであったのか。
それは、これから決まる。
「まずは結果のみからご報告致します。
ターゲット、フィリア・ソローネの確保には至りませんでした」
「うちの掃除婦でも捻り出せそうな報告だな。
そんな芸の無い話を聞く為に時間と金を割かれたと思うと、久々に死にたい気分にさせられるよ」
「………………」
条件指定をして面会特例を認めさせた結果が失敗なのだから、どんな態度を取られても反論するのは不可能である。一気に空気に重苦しさが増したのは、この男がお飾りでこのような立場にいないという事の証か。普通の人間ならば尻込みして退席しそうなところを、ウィルは構わず、更に要求を突きつけるという暴挙で押した。
「次に、本件の報酬に関する契約の確認です。
成功報酬は失敗の為にゼロとし、前金として私が受領しました50万ルツ2万5千ベルグに関しての再承認を」
つまりは、前金は返さないと告げている。
無様に失敗して、最初に求めるのが許される話ではないように思えた。
案の定、金を取るのかと男が不快そうに言った。
ウィルは淡々と答える。だいぶ昔に、一字一句違わず憶えてしまった文句を読み上げる。
「ギルド条項一之序文にして九十七之最終章、団員との契約に伴い発生したいかなる報酬も、団員の生存、死亡、失踪、及び契約内容の成功不成功を問わず、一切の返却要求はこれを退けるものとする……」
男が嫌な顔をした。
腐った生ゴミを見るのとさしたる違いもない、目の前のウィルを心底見下している顔であった。そんなものには、ウィルは慣れきっている。彼の人生は、常に己に注がれ続けるその視線と共にあったのだから。
前金の返却は不可能。仕事の成否だけでなく、たとえ当人が死亡や失踪しようとも。これだけはどの団体でも概ね、否、必ず徹底されていると言っていい条項だった。そんな団体を利用する機会の一生ないまっとうな市民の間にまで、広く周知されている程である。
生き残っても死んでも必ず前金自体は手に入るという保証があるからこそ、彼らは危険な仕事に日々身を投じる。
これほど最低のものもないにしろ、それは唯一彼らに施された救済措置であった。
ギルドに登録している以上、個人として受けた仕事であっても、その唯一絶対の法の庇護下に入る。命の危険を伴う仕事でも、頼むのは自由。いかなる見下した態度も自由。どんな条件を提示しようと咎められぬ。だが、このたったひとつの約束を違えた場合、依頼主はギルドぐるみの報復を受けたとしても文句を言えない。普段我関せずを保っている連中も、程度の差こそあれ、この時ばかりは力を惜しまず協力する。一度鉄の掟が崩されれば、あっという間だという事を熟知している故に。誰もが使い捨てられる側に属するだけに。
こうしてウィルが依頼主と話している事自体、実は危険を伴っている。過去には指名自体が罠で、呼び出された先で命を狙われた者もいたが、後にその家は襲撃を受け、護衛含めて子供から老人まで皆殺しにされた。有力者だっただけに当時は騒ぎになったが、犯人は結局挙がらず有耶無耶になった。
これは、やり過ぎだといまだに言われている。
だが最低限の約束ひとつ守れなかった場合に、どうなるかを知らしめる効果はあったようだ。
よって不服そうな顔をしつつも、男は前金を返却しろとは求めてこなかった。
これで、ウィルが一定の報酬を得るのは確定した事になる。
「感謝を致します」
「ふん……」
ウィルは深く頭を下げた。
「それでは次に、結果に付随する情報をご報告致します。
こちらは、些少ながら得るものがあるかと」
「勿体振るでない、時間の無駄だ」
「ターゲット、フィリア・ソローネの生存を確認致しました」




