帰還、そして - 4
帰り着く、という言葉がある。
家持たずの身といえど、長く過ごした街というのは、やはり他より安心できるものだ。途中で行商隊の馬車に同乗できたおかげで、予定よりも一日早く、ウィルは彼が現在身を置くルカード旧市街へと到着した。
正規の商人達にも多く使われる一般道へと抜けるまで――つまりは例の森から遠く離れるまでの間は、極力、人目に気を配った。これは彼にとっての習慣なので、そう苦労はしなくて済んだ。
疲れたな、と、まずはいつも思っている通りに思う。
適度な絶食が功を奏して、大仕事からの帰還ならこうなっているだろうなという程度に、体重もキープできている。
体や服がそこまで汚れていない事については、彼はあまり気にしなかった。
街道に抜けてからは宿にも寄っており、一度、水と桶を借りて手作業で泥を洗い落としてもいる。綺麗過ぎるのもまずいが、かといって無闇に汚ければ良いというものではなく、むしろ無駄な汚れは余計な痕跡を残しかねないとして嫌うのが、彼のような仕事をする者達だった。
これもまた、習慣である。いつも通りに、何ひとつ変わらぬ行動を繰り返す事が、今は求められる。
ルカード旧市街に入った彼が、真っ先に向かったのは酒場だった。
時刻は既に夜、酔うには相応しい。
だが時間帯とは関係なく、仕事後の彼は度々そうしてきた。
祝杯をあげた事もあれば、やむにやまれずという事もある。
これはウィルに限らず、こうした稼業の者の多くが辿る道であった。
表沙汰にはしにくい命掛けの、そうでなくても厳しくて汚い仕事に身を投じる救いを、酒に求めるようになる。中には酒の為に働いているような者もおり、こうなると何の為の仕事なのか分からなくなってくる。酒場にいる時間が長くなり、徐々に腕を落とし、溺れた者は死んでいくという寸法だった。
何にせよ、酒でも飲まなければやっていられないという心境に陥っているのを表現する為には、必要な前置きである。
となれば当然ながら、仕事結果の報告は後回しになる。
ここは本人の裁量に任されているので、真面目に全て片付けてから気晴らしに向かう者もいれば、ウィルと同じようにその時の気分次第でという者もいる。比率としては後者が多い。
やがて市場通りに着く。いつ来ても賑わいのあるバザールは、これからが稼ぎ時という活気を一日中絶やさない。
旧市街はお世辞にも富裕層とは無縁で、治安も良くはない。だがこうした市場においては、多数の客や店員の目が自ずと自警団の役割を果たしている。
天井から無秩序にぶら下げられた古着。壁まで使って、ところ狭しと並べられた靴。いずれの店も至って粗末な構えで、天幕に毛が生えた程度のものもある。
衣類の並びを過ぎると、食料品のエリアに移る。果物や魚、加工品。多数の屋台や、前面が通りに開放された食堂は熱気に満ち、盛んにいい匂いを漂わせていた。
店内に入り切らないのか、通りにまでせり出しているテーブルを避けて進む。
横目で見た店では、給仕の浅黒い肌の女が、並んだ大皿に手際よく揚げた鶏と米を盛り、煮込んだ豆をかけていく。
幾つかの飯屋から、ウィルは呼びかけられた。いかにも腹を空かしていそうに見えたのだろう。それらを軽く手を振るだけでやり過ごしながら、あそこには今度入ってみてもいいなとウィルは考えていた。
市場の一角を、途中で曲がると狭い道に出る。ここから、酒を主に出す通りへと通じている。
ウィルは、幾つも並んだ酒場のひとつの扉を潜る。
内部は、外見の印象よりも明るく、不潔感も無い。暗い仕事をしてきて、戻った場所までもが暗いのでは、誰も寄り付こうとしなくなる。
店は八分の入り。夜は始まったばかりだが、テーブルはほぼ埋まっている。
馴染みの視線が幾つか送られてくるが、大概は一瞥しただけで自分達の話題に戻っていった。ウィルも簡単に目視で返しただけで、隙間を縫って進み、空いていたカウンター席に座る。入店時の視線による洗礼だけが決まり事で、後は自由。ここでは、必要以上の干渉を嫌う者も少なくない。
されど、中にはひどく陽気な連中もいる。出自や境遇を辿ればいずれも惨めな者ばかりであろうに、その陽気さの根源となっているのが何なのかは不明だった。それを、いちいち確かめる者はいない。そもそも、その笑顔が本物の陽気さなのかどうかが判別できないからだ。
ウィルはいつも飲んでいるのよりも、一段階上の酒を注文する。やはり安酒には変わりないのだが。
求めた品が黙って出てくる。これも習慣だった。何もかもが定石通りに運んでいる。また、そうでなくてはいけない。
鼻を近付けると、濃い蒸留酒の香りが立った。
焼けるようなそれを、生で喉に流し込む。
全身にぶわりと熱が巡り、いまだ治り切っていない傷がぴりぴりと熱くなった。
「よう、おつかれ!」
「よお」
唐突に、乱暴に後ろから肩を二度叩かれる。
陽気な声。嫌でも接近には気が付かされた。というより、こういった稼業の者達が集う場所において、他人に接近する際にわざわざ気配など殺していたら、敵対者と見做されて手痛い目に遭いかねない。いずれもが腹に一物抱えた男達とはあまり想像できない、落ち着きと陽気さとが同居した安酒場内の雰囲気には、そういう理由がある。殺気立っているよりも、大袈裟なくらいに無防備に、馬鹿になっていた方が安全だからだ。
汚れ仕事に手を染めるとは、自然、誰かの恨みを買っている事に繋がる。
自分はそれを晴らしに来た奴ではないですよと分かり易く周囲に示すには、素人客の如く振る舞うのが一番なのだ。
見るからに怪しい振る舞いの人間には、酒場内の誰もが注目する。
その懐に隠されたナイフがめり込むのは、高い確率で我が身かもしれないからだ。
集中する視線に因縁をつけられたと誤解した新参の馬鹿が喧嘩をふっかけ、袋叩きにあった挙句に死亡した事もある。死体がどうなったのかは知らない。そいつの背負っていた借金額に従い、適正に処理されたのだろう。
ウィルに声をかけた男は、許可も求めず当然のように隣に座った。
注文はしない。自分のグラスごと移動してきたらしい。
シャムローという名のその男は、ウィルの知人だった。
付き合いの長さを考えたら友人と呼ぶのが適切なのかは、彼には分からない。
自分達のような存在に友を持つ資格があるのかなど、この酒場内の誰にも分からないだろう。
ともあれ顔見知りというには若干親しすぎる男は、駆けつけ一杯とばかりに、まず自分のグラスをぐっと干した。元から半分も残っていなかった中身が空になると、底に沈んでいたオレンジの欠片を摘んで食べ始める。見慣れた癖だった。どうでもいいような、それでも刹那的な生き様の中では、どことなくほっとする一時である。
で、とシャムローが身を乗り出してくる。
ここで出会い頭に話題に昇る事といえば、大概ひとつしかない。
彼らの明日の暮らしと、そして時には――いや腕利きほど常時生命に直結している、仕事の結果についてである。
次いで多い話題は女絡みだが、そこに明るい空気を孕んでいる事は極めて少なかった。まともな人付き合いができて、まともな恋愛関係を築けて、まともな家庭に帰っていく結末を叶えられるような者は、そもそもこの場所まで墜ちてきたりはしないのだ。最初から踏み込まないか、さもなければ落下の途中で死んでいる。
「どうだよ、最近は」
「いやぁ、駄目だな。全然駄目だ」
「でかい仕事が入ったって聞いたが」
「知ってんじゃねーか、最近どうもクソもあるかそれで」
「じゃあ本当なんだな、大仕事だったってのは」
「まあな、そうだよ」
「それで、駄目、か」
「ああ、まるで駄目だな」
「そいつはラッキーだ。命があっただけでもめっけもんだ」
喋り終えて、シャムローが残ったオレンジの皮をグラスに落とす。
すかさず、指を立てて次を注文した。カウンター向こうの寡黙な老人が黙ってグラスを下げ、ほとんど入れ違いにやたらと赤い酒が出てきた。また端に果物が刺さっている。
ウィルの方は、最初に頼んだ酒がまだ半分残っていた。飲み始めた時間が違うというのもあるが、元々ちびちびやるタイプでペースは早くない。そしてその遅いペースに釣られて飲み比べを挑んだ者が、やがてひとりグラスを傾けるウィルの横で潰れているのも珍しくない光景だった。おかげで、穴開きバケツなどという名を頂戴した事もある。溜まるのは遅いが、満杯になる事もない。
ウィルに負けず劣らず鍛えられた肉体の男は、彼より一回り以上も歳上だった。
ここではまっとうな友人関係に至る事は稀だが、年齢によって隔たりが出来るという事も然程ない。
もっとも年長者は、それだけこの厳しい世界で長く生き抜いてこられたというのを意味している為、無法者達といえど一定の尊敬を集める。それを知らずに舐めた口を聞く若造は、軽蔑と嘲笑の対象になるのだ。
つい先日、一回りどころではない年上達を相手にしてきたばかりだが。
そう思うと、ウィルは何か可笑しくなってしまった。
唇の端に浮かんだあるかなしかの笑みが、シャムローに見逃される筈はない。さりげない表情の変化を、たとえ酒の席といえども見逃すようであれば、男はこの歳まで生きていられないだろう。意識していた訳ではなく、観察は自然と身についてしまった癖だった。ちょうど最後に残った、半分絞ったオレンジのような。
無論、逆の立場にいたのがウィルであったとしても、浮かんだ笑みを見逃す筈がない。それを口に出して指摘するか、後で何かに使えるかもしれないと黙って心の棚にしまっておくかは、人それぞれであろうが。
シャムローは、特に理由がない限りは前者であった。
「にしちゃあ笑ってるな。
失敗したけど生きてはいた。拾った命の有り難みを、しみじみ噛み締める若造でもあるまい」
「オレはまだ若けーよ、引退間近のおっさんと一緒にすんな。
それに目の前の金を逃して喜ぶマゾ趣味もしてない。それならとっくにマーサの店の常連になってる」
「ああ……あそこはいかん。
この前な、騙されて連れて行かれた新参が、可哀想に表におっぽり出された時にゃア泣きそうになってたぞ。あれは少しばかり……そう、刺激が過ぎたようだ。なけなしの金で奮発したのに、柔らかいベッドは待ってなかった」
「見てたんなら止めてやれよあんたも」
言っても無駄な事を、無駄と知りつつウィルは言う。
どこの世界であれ、間抜けの失態は格好の肴なのは変わらなかった。
ウィルは再び酒を一口。それからナッツ皿を注文した。最初に少し飲んだ後に食べるのが、彼の組み立て方だった。首尾よく仕事を果たした時も、失敗した最悪の気分の時も。それをここで崩す訳にはいかない。隣でシャムローが、何かを期待した目をしているが無視する。どうせ奢ろうと奢るまいと勝手に食うのだ。




