帰還、そして - 3
ウィルが屋敷を出て、森の外へと向かってから数日が経過していた。
あっという間なんだな、とクレストは、その日ふと脳裏に浮かんだ彼の顔に思う。
滞在期間の短さに反して、登場が強烈だっただけあり印象は深い。彼に対して要求した内容が内容というのもある。
とはいえ、ただでさえ時間の感覚が人間のそれとは大幅に異なっているクレストの事だ。あれは幻だったのだろうかという、ぼんやりした疑いもある。さっと吹いて、さっと消えていった風のように。
無論、そんな事はない。しかし、仮にそうだったとしてもクレストは然程驚きはしないだろう。いつものように、これまでずっとそうしてきたように、ああ、そうだったのかと呟いて終わるだけだ。
だが今回は、幻としてやり過ごす訳にはいかなかった。何故なら、フィリアの未来がかかっているのだから。
未来。その単語を自分などが思い浮かべるのが、クレストには些か面映くもあるけれど。
彼の、ウィルの存在は、紛れもない本物である。
そして今、ようやく確かな形を持つ現状打破へと向けて事態は動き出した。
ウィルが去ってからというもの、クレストは折に触れてそう確認していた。
忘れてしまわないように。そして他にできる事が何も無いからだ。
ただ、待つしかない。
「ウィル、今頃どこにいるのかなあ」
「そうだね……どこだろうね」
フィリアと交わす会話の中、こんな風に過ごしていていいのかという焦りと罪悪感が、時折クレストの胸を掠める。
いいも悪いも、他に何かしようがないのだ。働くのはウィルであり、彼にしかこの件は進められない。
依頼をしたのだから、それで当たり前だとも言えよう。わざわざ仕事場まで付き合う依頼者はおらず、第一邪魔だ。
しかしそうと分かってはいても、思い出すとどうしても気が咎めるのだ。
クレストは、あの時ウィルの目を真っ向から見ていた。
強く哀しげな、全てを諦めていた目。慟哭の際に彼が見せた目だった。
あんな目をした子を、目的の為だから譲れないとはいえ、鞭打って働かせている事への申し訳なさ。
それに自分は彼を守ってやると言ったのに、約束とは真逆の事をさせている。
クレストの、あの言葉に嘘はなかった。だがそれでも、ウィルには彼の守れない場所まで赴いてもらうより他ない。
フィリアは、切り株で作った椅子に座って足をぷらぷらさせている。視線は、森の方を向いていた。
「もう町に着いたかな?」
「着いたかもしれないね」
「まだ途中で、道を歩いてるとこかな?」
「うん、そうかもしれないね」
「野犬とか、狼とか熊とかに襲われたりしてないかな、心配だな」
「そうだね、心配だね……」
「もー! クレスト、真面目に答えてないでしょ!」
「そ、そんな事ないよ……ちゃんと考えてる……んだけど……これでも。
彼は強いから、きっと大丈夫だよ」
「でもクレストには負けちゃったよ」
「それは……」
口篭る。自分が強すぎるからだ、と言うのは、クレストの性格では躊躇われた。
というより、絶対に死なないから負けないというのは、果たして強いに分類して良いのか彼自身が迷っている。
この体を全身全霊で戦闘に特化させるという事を、クレストはしていない。
だいたい、普段から彼の感覚は、本来の状態と比較してほとんど眠っているようなものである。それが、視覚にせよ聴覚にせよ、ひとたび異変を捉えるや自動的に研ぎ澄まされる。格段に。何者をも超えて。
ましてや意識すれば、だ。
それをしないのは、必要がないからである。
死なない以上、何百年でも何千年でも、彼は黙って殺され続ける事ができる。
それに付き合える者など存在しない。だったら、わざわざこちらから勝ちに行く必要もない。
それがクレストの考え方だった。ついこの間までは。
戦ったというのは、本当に久し振りの事だったのだ。
それにしても、ウィルが裏切る可能性は、フィリアの頭には欠片もないようであった。それは、クレストも同じだった。勘だが、彼はそういう真似をしないような気がした。遥かに慎重で賢明な従者達から、単にそう思いたいだけだと指摘されれば、その通りなのかもしれないけれど。
「ウィルが戻ってきたら、ベリーのパイを焼くんだ」
「メイトリアークと一緒にかい?」
「うん!」
「彼、甘い物が好きなんだね」
「なかなか食べられなかったからだって言ってたよー。
わたしもそうだけど。クレストも好きだよね、パイとかケーキ」
「ああ、そうだね」
内心ぎくりとしながら、努めて平静を装いクレストは肯定した。
短い時間で、フィリアはウィルに良く懐いていたように見えた。
口調は乱暴だが、性格は親しみやすく、明るい面がはっきりと表に出ていて、話題も豊富だ。他者を寄せ付けなさそうな態度とは裏腹に、案外面倒見や付き合いも良く、要は人のあしらい方を心得ている。
人に取り入るのがうまい、と、やや穿った見方をすればそうなる。
それは社会の暗部に切り込んでいく仕事上、世を渡る為に彼が身に付けざるを得なかった技術なのだろう。しかしフィリアが素直に懐いているという結果から、確かに彼本来の性質でもあるのだと思える。
物怖じせず、白黒の明瞭な意思表示に、快活な性格と、逞しい成人男性としての頼れる姿。
これなら、子供に好かれるのも無理はない。むしろ好かれて当然である。
そんな事は重々承知していたが、自分の不甲斐なさと比較するとクレストは少々気分が滅入ってくる。かといって自分では、何百年かけて矯正を試みようと絶対にあんな風にはなれないというのも分かっている。
おそらく、ウィルと自分とでは生物としての根本が違うのだ。吸血鬼や不老不死やらとはまた別の意味で。人の言葉ではこういうのを、あいつと自分とは人種が違う、という具合に例えるのだった気がする。
加えてウィルの場合は、幼い頃の境遇がフィリアと似ている。
そういう点でも、何がしかの共感するものが二者の間にはあるのかもしれない。
クレストが考え込んでいると、ふふっとフィリアが笑った。何に笑われたのか見当がつかず、戸惑う。
「ちゃーんと、クレストのぶんもあるから大丈夫だよ!」
「あっ、ああ、それかい……」
「え? 他に何かあるの?」
「い、いや何でもないよ、何もないよ。どうもありがとう」
「クレスト、くらーい顔して黙っちゃったから」
「うん」
「ヤキモチやいてるのかなぁと思って」
「――え、ええ……ええええええ!!?」
曇っていた頭がいっぺんで醒めた。
彼にしては滅多にない大声である。聞きつけた従者がすぐにでもすっ飛んでくるのではと思える程に。
「な、なんでそういう話になってるんだい!?」
「あれっ、ちがうの?」
「違うよ! 絶対違うよ! ……いや俺にも良く分からないんだけど、でも違うよ絶対に!」
「ほんとー?」
「本当! 本当に本当だから!」
「ふふぅーん」
口元を妙な形に曲げて笑うフィリアに、仕舞いには手まで振る勢いで、クレストは必死に否定し続けた。あれこれ考え込んでしまったのは事実だが、嫉妬というよりは自己嫌悪の部類である。嫉妬を掻き立てたり、捕食の結果として掻き立ててしまったりはメイトリアークの分野であり、かつこの類の話はクレストの理解の範疇外にある。
唯一こればかりは自覚のある、己のフィリアへの執心に関して、彼女達から色々と揶揄されるのならまだ分かる。というよりフィリアを迎えた当初に散々言われており、最近でもたまに言われている。
だからウィルに纏わりつくようにその周りをぴょんぴょん跳ねながらついて回っているフィリアの姿に、横取りされて嫉妬するでしょうと彼女達から言われたのなら、心底やめて欲しいがまだ納得できなくはない。
しかし、よりによってフィリア本人からそんな単語が飛び出すとは。
まだ子供なのに、ひょっとしたら人間の女の子というのはみんなこんな感じなのだろうかと、クレストは解答が得られる筈もない疑問に半ば唖然となる。
「そ、そうだ、その服、よく似合ってるね」
苦し紛れの、無理矢理にも程がある話題転換だったが、幸運にもフィリア自身が服装への関心が高かったらしく、すぐにこの話題に乗ってきた。「あ、これ?」と嬉しそうに笑い、切り株の椅子から降りると、くるりとその場で回ってみせる。フリル付きのスカートが翻り、幾つもの小さなリボンが揺れた。
外で動き回るには少々ボリュームがありすぎ、装飾も華美だったが、実際よく似合っている。家さえ無事ならば――こうした衣服に日々身を包み暮らすのが、本来のフィリアの生活だったのだろう。
その考えに囚われてしまうと、可愛らしいドレス姿が途端に痛々しく見えてくるようで、クレストはフィリアに気取られない程度にそっと目を伏せた。自分で話題を振っておきながら、その話題で勝手に自分が苦しむ。厄介な自爆体質はつくづく業が深い。
「パトが仕立ててくれたんだ。
すごいよね、パト。お洋服作るの本当に早いもん」
「彼はあれが趣味だからね。好きな事だからこそ、早くもなるんだと思うよ」
「ウィルに作ろうと思ってた服がね、そのぶんの時間が空いちゃったから、こっち一気に作ったんだって」
「そうか」
「早く帰ってくるといいのにねー。
パト、張り切ってたよ。今から新しい服を考える時間ができたと前向きに考えておくことにします、って」
「それは……ウィルにとって、いい事なのか災難なのか分からないけど……」
「そっかなあ?
でも言われてみればちょっとメーワクそうだったね。似合ってたのに、あのシャツ」
僅かな滞在期間であったが、メイトリアークの場合とは違い、パトリアークを退けきれなかったという訳だ。淫魔に迫られるのと、新しい服に着替えるのとでは、敷居の高さが異なり過ぎるのもあろう。
それはパトリアークにしては大分シンプルな意匠の薄手だったが、却って鍛えられたウィルの肉体を引き立てていた。さすがの見立てと言うべきか。そして自分ではああはいかないと考えると、またもやクレストは複雑になったりする。
結局は、だらりとしたマントに埋もれているのが一番似合っているのだった。
クレスト自身は意識していなかったが、黒ずくめの長衣は彼の貧相さを最大限隠していたのである。
そう、服は頑張っていた。が、それでも露骨にみすぼらしいのだから、彼の見栄えに関しては推して知るべしである。
「わたしも何か作ってみたいな。
お洋服はむずかしくても、アクセサリーなら頑張れば作れるかも……」
「そうか……じゃあ、これからパトリアークに聞いてみたらどうだい?」
「うん、そうしてみる。
できるようになったら、お揃いで作ろうね。クレストと、パトと、メイと、わたし。みんなで」
フィリアは館を見る。少女の意識は、すっかり森からアクセサリー作りに移ったようだった。
今すぐにでも戻りたそうなフィリアの傍らで、おそろいか、と今の言葉を反芻しているクレスト。前にも飾り付けられて大変な目に遭ったが、不思議と今は魅力的に聞こえた。ひとつくらいなら持ってもいい。
お揃い、いいなと思う。どうしたって辛気臭さの抜け切らない男の顔の、頬がそれでも僅かに緩んだ。




