帰還、そして - 2
「それにあんたの望みは、嬢ちゃんに外の世界で平和に生きてもらう事なんだろ?
その為の下調べだって、早けりゃ早い程いい。遅れれば遅れただけ、受け入れに時間がかかる、嬢ちゃんの方も、外界の社会の方もな」
「そうか……よく分かったよ。ウィル、君にはここで帰って――」
「僕は反対です、真祖」
落ち着いているが、断固たる口調で告げたのはメイトリアークだった。
クレストが、ウィルが、パトリアークが、そして珍しく終始無言でいたフィリアが、一斉に彼女を見る。まとまりかけていた空気が、ひやりと硬くなったようであった。そこに交じる、やれやれというウィルの吐息。
「そう来るとしたらおたくだろうと踏んでたら、案の定だよ。
まさか、プライベート断られた腹いせとか言わねえよな?」
「主たる真祖の命令遂行下において、公私混同は例えようもなく愚昧だというくらい弁えております。かといって私事の方が全くの無関心と化したかというと違いますが、この場合は切り離して考えるべきでしょう」
「……あの……君たちもしかして……」
「妙な早合点すんな頼むから。反対の理由はあれか。オレがそのまんまトンズラこく危険と、もっと最悪な事に、嬢ちゃんの生存をバラす危険だろうな」
「仮定からあえて後者を抜いておく程、迂闊ではないようで安心致しました。
真祖、ここで彼の提案に従い帰すのなら、殺す方がまだ安全策であるとメイトリアークは判断し、提案致します」
「殺す、って君……だめだよ、それは。彼は味方なんだから」
最も目立って動揺したのはクレストで、当のウィルは肩を竦めただけだった。
誰かが指摘するのは想定済みだったのだろう。そして、その判断は妥当という事も理解している。ウィルがクレスト達の立場であれば、彼自身が真っ先に指摘し、要求している処分だからだ。
「そういうこった。早目にどうするか決めてくれや。
オレは出て行く気満々ってか出て行く気しかないが、あんたらが実力で阻もうとすれば勝ち目はない。事実上、決定権は依頼者のあんたにある」
ウィルはクレストを見、次いでメイトリアークとパトリアークを見る。
見られた従者は揃って視線をクレストに移し、フィリアもまた、彼の足元からじいっと見上げている。
これ以上の醜態は晒せないと思ったのか、沈黙と注目の中で、徐々にだがクレストも落ち着きを取り戻してきた。
やがて、言う。彼にしては珍しく、長く。
「……メイトリアークも、皆も少し考えてみてくれ。
どのみち彼にはいずれここを出てもらわなければ、フィリアを帰す為の準備は整えられないんだ。こんな事を言いたくはないけど、何かが起こるとしたら、その可能性は今でも後でも同じ……なんじゃないかな。
だったら、彼の言うようにやらせた方がいいと思うんだ。俺達は人の、その社会をほとんど何も知らない」
「人を動かすのは損得と情のようです、真祖。
もう少し期間を挟んだ後であれば、彼もフィリアの境遇に情が移るかもしれず、あるいは金銭漬けにして、こちらに付くのが絶対の得だと判断させられるかもしれません。ですが今では、そうした積み上げがありません。彼はただ来て帰っていくだけです」
「あのなぁ、仕事なんていつだってそんなもんだぜ。あんたらにはイマイチ理解し辛いかもしれないけどな。
繰り返しになっちまうが、オレがベストのタイミングで帰ろうとするとそろそろタイムリミットに近いんだ。こんな人道外れた仕事だってのに、何より求められるのは規律や正確性ときてやがる。おかしな世界だよ」
「……あのね、ごめんね。
裏切るとか裏切らないとかは、こんな事を言ったら怒られると思うけど、俺はよく分からないんだ。正直な話、メイトリアークに言われるまで頭になかった」
脳天気にも程があるといえるクレストの暴露に、はっとウィルが短う笑う。
「青ックセエなあんた。君を信じてますってか。理想に燃える少年みてぇな青臭さだ。そいつも、騙されるのが一切不利を生まないからこその無防備かよ?」
「そうじゃあない。……普段ならそれで良くても、今はフィリアがいる。俺が騙される事は、そのままフィリアの将来を潰す事になってしまう」
「でもあえて、オレの判断とプロ意識を尊重すると? 嬉しいねえ、そこまでオレを信じてくれるんだ」
「……それも、そうじゃない。申し訳ないけれど……」
「……ああ?」
「君への絶対の信頼からじゃないんだ、ウィル。
俺がそうするのは……それが唯一、フィリアの為だからなんだよ。
危険なのと同時に、フィリアの未来を繋ぐ為の大きな第一歩だとしたら、俺の手で潰したりせずに拾ってやりたい。君への信頼は、その次に、ある……フィリアの次、なんだ。こんな大変な役を頼んでおいて、済まないけれど……」
ぼそぼそと喋り終えるクレスト。
真祖、と、こういう状況ではあまり口を挟みそうになかったパトリアークが言う。
さすがの彼も、クレストの交渉下手ぶりにだいぶ呆れていた。こういう場合は、君を一番に信じているからだよと言い切ってみせるのが、人を使う際の常識であろうに。
くくっと、ウィルが先程とは違った笑い方をした。
「あんたはもうちょい嘘をつくって事も学んだ方がいいんじゃねーの、なあ世界さん。この世は本音と建前の使い分けで動いてるんだぜ」
「僭越ながら、わたくしもそう思います」
「僕も同意致します」
「わたしもそう思うよ」
「………………」
自分以外の四者から揃って否定されて、クレストは何も言えずにいる。
俯いて縮こもるクレストを暫し何とも言えない目で見、それからウィルの声が急に真面目さを帯びた。
「確認する。雇い主の決断としては、オレの一時帰還を認めるって事でいいんだな?」
「うん……そうだよ。君の判断に任せよう」
「了解した。このまま出発する」
「案内はいるかい?」
「要らない、覚えてる。余計な妨害がなけりゃ単調な森だ」
「路銀や、必要な品は?」
「不要だ。ここから不純物を外に持ち込むのは危険すぎる」
「道中の食料も不要ですか?」
「食い物なんざそこらを見れば転がってるもんさ、鼠とか草とか土とかな。
むしろ、食い足りずにやつれてるぐらいの方が丁度いい。敗北して遭難してた奴がツヤツヤしちゃいないだろ」
「……昨日ほとんど召し上がらなかったのはその為ですか。考え事に集中したいというお話でしたが」
「念の入った事だね」
「かといってやつれ過ぎてても不自然だから、程々にな。負け戦だって、帰り道で飯ぐらい食うんだから。
昨日の半断食は、うまくてつい食い過ぎちまった分の引き算さ」
「おいしかった?」
フィリアが、その一箇所に強く反応した。
ウィルは、フィリアとメイトリアークとを順番に眺める。
「ああ、うまかったぜ。このオレが、つい自制を忘れちまうぐらいにな。
あんな豪勢で、家庭の匂いがする飯を食ったのは初めてかもしれねえよ」
「ほんと?」
「お気に召したようで嬉しく思います」
先程、殺すと告げたのなど忘れたように、メイトリアークが丁重に頭を下げた。
そして言う。
「願わくば、またその味を貴殿に届けられますよう」
「あのね、わたしどんどん上手になってるからね、お料理!
ウィルもまた一緒に食べようよ。あの卵とハム混ぜてパンに挟むの、おいしかったよ!」
「そいつは楽しみだ」
それからウィルは、クレストとパトリアークを見た。
青年従者は、それが挨拶であるかのようにシルクハットを僅かに手前に引き、胸に手を当てて一礼する。
「貴殿の離脱をパトリアークは深く惜しみます。貴殿もまた今までにないカタチの来客でありました故。見立てました服は全てわたくしの手で保管しておきますので、ご安心くださいませ」
「……それは素直に喜べねえな」
「……ええと、俺からは……」
「あんたはもうちょっと人と喋る練習をしとけ、廊下のばかでかい鏡にでも向かってな。一日二回、朝夕だ」
「うう……」
「それすごい暗いよ、クレスト。ぜったい落ち込むから、やったらだめだよ」
「いや、やらないよ……」
暗い目のクレストが無益な話をしている間に、じゃあなとウィルはさっさと踵を返してしまった。あ、とフィリアが呟く。メイトリアークとパトリアークは止めない。何も言わない。それが主の決定であるから。
別れの挨拶が出遅れた事に慌てて、また、と遠慮がちに、去っていく背に呼びかけるクレスト。扉を締める直前、ウィルの片手がひょいと指を揃えて上がる。それが、返事だった。




