館と男と淫魔と夢魔と - 3
朝食後、ウィルは再び屋敷内をぶらつきに戻った。探索に臨む姿勢は心持ち薄れているものの、完全にやめてしまった訳ではない。
それにしても、広い屋敷だった。明らかに外観よりも長い廊下があるのは、深く考えない方が良いのだろう。仕事上、魔と関わった経験は人並み以上にあるとはいえ、人間の、いや自分の知識などごく限られた断片に過ぎなかったのだと、この森へ、この洋館へ足を踏み入れてから彼は痛感している。
洋館の内装全てが、あのパトリアークという従者の手によるものだという。
広さを考えると俄には信じ難いが、それこそ俄には信じ難い歳月を具体的な数値として挙げられれば、このくらいは出来るのかもしれないと納得してしまう。つくづく、人の物差し如きでは到底測れない生き物達だ。
ウィルは足を止めた。
ついでに、食卓で豆のスープを啜っていた陰気な男の顔を思い出す。
そんな、人の物差しでは測れない筈の生き物が、時として誰よりも人間臭い真似をする。
振り返り、廊下を大股で元来た方へ引き返す。
角の向こうでやや慌てる気配がしたが、構わず突撃すれば、そこには覚悟を決めたような顔のフィリアが、それでも好奇心を隠せない瞳で立っていた。向き合う大小ふたり。ウィルは、今回の依頼における最重要保護対象をじろりと見やる。
ついて来ているのには気付いていた。尾行とも呼べない尾行は、単に声を掛けあぐねていただけかもしれないと、悪びれる様子のない少女を眺め下ろしながら思う。
体格が良く、友好的とは言い難い顔付きのウィルに上段から見下ろされて、怖がりもしないのがなかなか頼もしい。
これがね、と、ウィルは小声で呟く。そういえば、依頼対象と一対一で向き合うのは初めてだった。
ともあれ、無闇に怖がらせる必要もあるまい。
「オレになんか用かい?」
「ばれちゃった」
「そうだな、気付かれないようにしたいんなら、もちっと尾行の練習する必要があるな」
「あのね、おじさん」
「ウィルだ」
「ウィル、すこしお話がしてみたいのって、用があるに入る?」
「入るだろ」
「朝ごはん、どうだった? おいしかった?」
「ああ、うまかったな。パンも厚くて柔らかだった。
日頃メシになんて細かく構わない身には、過ぎたご馳走だったぜ」
「実はあのハムは、わたしが焼いたのです」
「そうか」
「……………………」
「卵のゆでかげんも、わたしが見たのです」
「……そうか」
「……………………」
「……………………」
「えへん」
威張られてもな、とウィルは思う。
苦笑というより、はっきりとした苦々しさが次第に沸き上がってきた。
どうも良くない。仕事は仕事として割り切るべきだと自覚はしつつ、このような穏やかな時を過ごし、自らの置かれた現状を忘れているかのように無邪気に振るまう子供に。
一瞬逸れた意識を戻してみれば、今度はフィリアが、ウィルの顔をじっと見ていた。
「すこし、いがい」
「何がだ」
「ウィル、食べかたキレイだった」
「無闇に食い散らかす奴がいるか。動作は最小限かつ適格に、な。
たかがメシといえど、守った方がいいルールはある」
「あと、早かった」
「のんびり食ってたら、次は首が吹っ飛んでるかもしれん世界にいたんでね。
早食いは、まず誰もが学ぶ基本技術だ」
「よくかんで食べないと、お腹と頭に悪いよ」
「大きなお世話だ。
……が、お前はそうしときな。オレ達みたいな理由で焦る必要も、もうないんだろ」
「それからね、よーくかんだ方が、量が少なくてもお腹いっぱいになる」
「……ああ、それはそうだな」
子供の頃の記憶が、その一言で急速に蘇っていく。
フィリアがこの館へ来た更に詳しい経緯を、ウィルはクレスト達から聞いている。この少女と彼は今が違うだけで、少し前には確かに同類であったのだ。
それを思い出した時、ウィルの苛立ちは雪が溶けるように消えていく。親しみを覚えたのではない。同列の相手をやり過ごす無関心な心に戻っただけだった。
それはつまり、いつも通りの彼という事だ。
屈んで目の高さを合わせるまではしないが、幾らか和らいだ視線でウィルはいきなり本題に切り込む。この子供にはそうしても問題ないだろうという確信があったからである。
「フィリアって言ったか。
お前さん、オレがここに連れて来られた理由について、どこまで聞いてる?」
「えと……わたしを町に返すために働いてくれる、お客さん?」
「そうか、分かっちゃいるんだな。なら話が早いや。
全部は理解できないかもしれんが、聞け。お前が抱えてる事情は相当面倒で厄介だ。ただ町に放り込んだだけじゃ、十中八九、見つかって売り飛ばされて終わる。そこを見つからないよう細工する為に、オレが雇われ……雇われたって言っていいのかあれは……とにかく雇われた」
「やっぱりそうなんだ……」
「歓迎されてるってんじゃなさそうだな」
ウィルは、フィリアの顔が曇ったのを見逃さなかった。そこをすかさず突く。
対象との会話、及び内容は依頼主から制限されていないのだ。気になる事は聞いておくに限る。
しかしフィリアの口から明かされてみれば、それは聞くまでもない事だったかもしれない。
「ここ、楽しいから」
「だろうな」
「みんな優しくてね、親切にしてくれて……わたし一人だけ楽しくて、いいのかなって思ったこともあった。
その時に、いいんだよって何回も言ってくれたのがクレストだったの。
……なのにまた、お別れになっちゃうのは、さみしいな」
そうかとウィルは気のない返事をする。
少なくとも、鼻へ抜けていったような声はそう聞こえた。
「……こっちから聞いといて悪いが、なんでオレみたいな奴に、聞かれるままベラベラ心の内を話すかね。
薄汚い道に生きる連中に対抗するには、こっちも汚い手を使うしかない。その専門家だから、オレは選ばれた。先に言っとくと、オレはお前を買った連中と同等か、それ以上の事だってやろうと思えばできる。
お前さん、ガキだがバカじゃなさそうだから、そのくらいは分かるだろ。
だったら今回の仕事の内容も含めて、どっちかといえばお前にとって、オレは口もききたくない敵の筈だ」
「そんなふうに思わないよ。
だってクレストが連れてきた人だから、聞かれたらしゃべっていいんでしょ」
「へえ」
いとも簡単にそう答えるフィリアに、あいつが聞いたら喜ぶだろうなと、ようやくウィルの声に興味の欠片が乗る。
一定の信頼は得ているらしい。しかし、この案件は必ずしも本人に歓迎はされていない。それはそうだろう。苦難の日々を経た末に得た安住の地から、追い出されるのと同じなのだから。
ここにいれば、人の世界では生きていけなくなる。そしてここは、人が生涯を腐らず過ごせるような場所ではない。
いかにそういった理屈を説かれようと、現在は幸せに、穏やかに過ごせているのである。苦痛ばかり毎日見続けてきた少女にとっては、いつ来るかも不明な未来の話などより余程重要な、今そこにある現実。
クレストの依頼が、ウィルの仕事が成功するという事は、残酷にもそれを取り上げられ、再び絶対の保護者の存在しない毎日に戻される事である。そこまで理解した上での発言だとしたら、むしろこの年齢で我侭を言わず、相当良く我慢している方だ。我慢どころか方針を概ね受け入れ、自分に言い聞かせる段階にまで進んでいる。
物分かりがいい。痛々しい程に。
これまで生きてきた、我侭どころか自分の意見や泣き言さえ許されない世界を容易に想像させる程に。
だがいずれにせよ、ウィルは己に課せられた仕事を完遂するだけであった。
「とにかく、そういう事だ。お前さんの心情如何にかかわらず、オレはお前を人の社会に返してみせる。
それが、引き受けた依頼だからだ。お前の思惑に、オレの行動は左右されない。
左右させたいなら雇い主に訴えろ、あの暗い顔の奴に」
「あんまりクレストを悪く言わないでよ。
いいところもあるんだから」
「……それ褒めてるのか?」
「本当はすごいんだよ、クレスト」
「知ってる」
「あとね、わたしの事をいつも考えてくれてる」
「そうみたいだな」
「だから、クレストがこうするって言うのなら、それが一番いい事なんだって思う。逆らったりなんかしないよ、わたし」
これも先程と同じ、信頼と呼べるのだろうか。
だとしたら、最も悲しい信頼の形態であろう。
「聞き分けはいいみたいで、助かるな」
まるきり世間話の口調と表情であった。
無造作に振り被った手には、いつ握られたのかファイティングナイフが光っている。赤ん坊の腕くらいなら切断できそうな厚みのあるそれを、ウィルは迷わずフィリアの頸動脈を狙って突き込む。
腕が止まった。
真上から伸びた黒い帯が、ウィルの手首に巻き付いている。
見た目は布。しかし質感は布のそれとは違う、瞼を閉じた後の闇を思わせるのっぺりした艶の無さ。皺もない。
焦る事なく、取り繕う事もなく、ウィルは首を曲げて背後の天井を見上げた。
「ほう、本気で守ろうって訳だ」
蝙蝠のような姿勢で高い天井にぶら下がっていた男が、膨らんだ水滴が落ちるように、床へと降りてくる。
一体いつ現れたのか。つい先程までは、確かにあの場所にはいなかった筈だった。
クレストは、ウィルを責めたものか、あるいは他にどうしたものか迷っている顔をしていた。黒いマントの一部がほつれて剥がれたように伸びて、長い帯状となり、彼の手首を巻いて食い止めている。痛みすら感じかねない手首の締め付けをそのままに、ウィルは意地悪く笑った。
「こうもすぐに防げるって事は、オレの事はやっぱ信用してなかったって事だな」
「そういう訳じゃ……」
「だったら監視なんてしてねーだろ」
ウィルがそう言うと、クレストは黙ってしまった。
咎める権利は彼の側にあるだろうに、加害者から責め立てられて黙り込んでしまうあたりが、つくづく弱い。
と、殺されかけたばかりのフィリアがウィルに高い声で食ってかかった。
「こらー、クレストをいじめるなー!」
「……おいおい」
「だめだよ! クレストこういう話するの苦手なんだから!」
フィリアは、真剣にクレストを庇っていた。
クレストを見たウィルの顔からも声からも、力が抜けている。
「情けなくねえのかあんた」
「……反省してる」
「どうせ今の話だって盗み聞きしてたんだろう」
「してない、それは断じてしてないよ」
「クレスト、かくれて聞いてたの?
それはだめだよ、いやらしいよ」
「フィ、フィリア……」
内心やれやれと溜息を吐きつつ、ウィルはいまだに手首を縛ったままの布を、指でとんとんと叩く。
僅かに逡巡する様子が見られたものの、しゅる、とクレストがそれを解いた。
ウィルも再度攻撃に移りはせず、小型の包丁のようなナイフをしまう。
今の今まで手に握っていたナイフが、瞬時に、一見しただけでは何処に潜ませたのか判別できなくなっている。
フィリアがあれっという顔になった。
その頭を押し潰すように一度ぎゅうと上から押さえてから、ウィルが言う。
殺気だったところは一切ない、食事中の時のような顔だった。
「この辺にしとくか、オレもあんま性格悪い真似がしたい訳じゃねえ。
こいつは儀礼みたいなもんだ」
「儀礼?」
「こうすればそうくると、頭の中で手順を思い浮かべつつやる、あれだ。
あんたに止められる所までは予想してたさ。といっても、もし来なきゃ本気で殺せるだけの威力で斬ってたけどな」
「……わからないよ、君のやりたい事が」
「あんたは分からなくていい。オレだけが分かってればいい」
戸惑うクレストに、一方的にウィルは告げた。
「あんたが真剣だってのは、改めて伝わった。
たった一人のガキの為になりふり構わず、たった一人のガキに全ての目と愛情を向ける。そのぐらいじゃなければ、オレもあんたに付こうって気にはならねえ。
……いいか、あんたは何も分からなくたっていい。
あんたに求められてるのは、今まで通りに、そのガキに盲目的に自分勝手な愛情を注いどく事だけだ」
「……ごめん、やっぱり分からない」
「だから分からなくていいって言ったろ。そういうもんだと納得しとけ」
ウィルはフィリアに刃を向けた事を詫びもせず、じゃあなと手を振って去っていった。残されたクレストとフィリアは暫くその広い背中を見つめ、やがてどちらからともなく顔を見合わせる。
顔立ちはまるで異なるふたりの、顔付きは一致していた。曰く、不可解。
へんなひとだねとフィリアがはっきり言い、それよりはかなり控えめな態度と声で、うん、とクレストが呟いた。




