始まりの吸血鬼 - 4
なるべく歩き慣れない場所を選んで、歩を進めていく。
日中だというのに樹影の濃い森は薄暗く、重なる梢に遮られた空には、太陽も雲も認める事ができない。
その日、クレストは、屋敷を囲む森の見回りをしていた。
見回りといえば重要な役目のようだが、実態は単なる散歩でしかない。わざわざ不規則なルートで回っているのも、その為だ。知らない道の方が、少しは楽しいだろうから。
どこかへ行こうなどと彼が口にすれば、従者は引き止めるが、こうして黙って出てきてしまえば止められない。いや、たとえ口にしたとしても、彼が本気でそうしようと決めれば、従者達に止められる筈がないのである。
単に、やろうと思わないだけだ。そこまでしてもという結論が常に先に来て、虚しくなって中断する。
無理をしてまで我を押し通すのは、押し通した先にあるものが欲しいからだ。
彼には何もない。彼はそれを知っている。
森はだだっ広いだけで、起伏に富むでもなく、面白みのある風景ではなかった。
ただ座っているよりは、歩いていた方が時間が潰れる。
ただ座っているだけの日の方が多い彼にも、そんな日はある。
そのうちパトリアークかメイトリアークが出てきて、それは警備兵の仕事です、と言いそうな気がしてきた。うちに警備兵はいないじゃないかと答えるしかない。
はて、こんな会話を、いつだったかにも交わしたのだろうか。
古の吸血鬼が隠れ住む屋敷、それを囲む呪いの森というといかにも恐怖を掻き立てるが、何も虫一匹住まぬ森という訳ではなく、ここに暮らす生物は多い。
第一まず呪い自体がかかっていない。かつて人間達が、勝手にそう呼んで恐れていただけである。また呪い云々とは別に、地理的にも人の手が入り難い場所にあるため、ここは野の生物達の楽園となっている。
小さな溜まり水を見付けた彼は、もうだいぶ長い間、その前に座り込んでいた。
ひと跨ぎで越えられそうな、ほとんど水溜りに近い池である。ここは確か前に来た記憶があるが、その時にはこんなものは無かった、気がする。
彼は少し嬉しくなって、何の変哲もない水溜りを眺めていたのだった。彼の基準における「前」とは、どの程度を指すのか。想像もつかないが、気が遠くなるような時間には違いない。
しかし幾ら嬉しかろうと、水溜りだけではじきに飽きる。むしろこれだけ持続したのがどうかしていた。
そろそろ帰ろうか。そう思いのっそりと立ち上がった時、彼の鋭い聴覚が違和感を覚えた。普段はその生き方から人間並みに鈍感な耳だが、ひとたび異音を捉えれば、たちまちのうちに研ぎ澄まされる。
どこだろう。
自然と、彼は方角を探っていた。
微かな、出鱈目な、だがそれは確かに人間の声、それも悲鳴だった。
誰かが森に迷い込みでもしたのか。まさか、と思う。
こんな人里離れた場所をわざわざ通る者などおらず、何よりここは呪われた森として有名で、近付きたがる人間はいない筈であった。しかし何度確認しても、声は間違いなしに人間の発するものなのである。いよいよ、本格的に自分の事は忘れ去られたのかもしれない。
僅かに逡巡した後、彼はそこへ向かってみる。
はじめは歩いて、途中から早足になった。
とん、と革靴の底が土を蹴る。
やや前屈みになっている以外は、これといった力の入ったフォームでもなく、走っているという努力のまるで感じられない軽い動作である。それで、太い根の這った地形を意に介さず進んでいく。
森の端まで到着した。もう、あと少し行けば外へ出てしまう。さすがに、彼も進むのをやめた。
従者2人が今にも止めにくるのではないかと、立ち止まったまま辺りを窺う。
どうやら、件の場所は森内部ではなくて、そのすぐ外だったらしい。悲鳴は、とうに聞こえなくなっている。それを無事に解決したと受け取るほど、さすがに彼もおめでたい頭をしていなかった。
悲鳴がやんだのは、片付いたからだろう。解決とは違う意味で。
漂ってくる臭気が、只事ではないと伝えている。
せっかくここまで来たのだから。そう思い、彼は思い切って森の外へと足を踏み出した。
原因はすぐさま判明した。
森を出た場所は小高い崖のようになっていて、そこから見下ろした山肌に、横転した馬車があった。
転がっていたのは、馬車だけではない。馬も、そして人間もだ。全員が倒れたまま動かない。一帯は血の海と化しており、数頭の獣達が、カチ、カチと前歯を噛み鳴らして、新鮮な肉の取り分を争っている。
「うわあ、これは……」
眼下の惨状を、怖がったり気持ち悪がったりする感覚は持ち合わせていないとはいえ、明らかにこの状況に引いた顔で、それでも彼は馬車に近付いていった。
周囲はむっとする血臭。血は吸血鬼にとっての食料だが、だからといってどうなりもしない。そもそも人間とて、地面にぶち撒けられて潰れて食い荒らされた食品に食欲が湧くかといったら、違うだろう。まして食が細いうえに食事に無頓着な彼となれば、尚更だった。
腹にあいた穴から、長い腸を啜り込むように貪っていた大柄な灰色の獣達が、彼を見て唸り声をあげ始める。
「こら、しっしっ。あっちへ行くんだ」
それを彼は、間延びした声で、ゆるく手を振って追い払おうとする。
上半身を低く構えて、今にも喉笛に飛びかからんとしていた獣達の唸り声から、獰猛さが消えたかと思えば、それは徐々に当惑へ、そして怯えに変わっていった。
じりじりと、囲みが遠ざかり始める。
迫力など欠片もない男の、果たして何を気取ったのか。群れは一目散に駆けていった。その際に素早く千切れた腕を咥えていったのは、中でも一際度胸のある個体なのだろう。
しかし、あの獣の姿で大体の事情は判った。
馬車はここを走っていて襲われ、応戦するなり逃げるなりしたが、遂に全滅して食われたのだ。ただの狼なら武装した隊商でもあしらえたかもしれないが、相手が悪かった。
あれはダイアウルフの群れである。いつもはもっとずっと北の豪雪地帯に縄張りを構えているが、ごくごく稀にこの辺りまで南下してくる。一定の長期周期でしか捕れない餌があるとか、繁殖の相手探しだとか言われているが、真偽は不確かである。危険すぎて、生態の研究をする者がいないからだ。
森林狼や砂漠狼よりも遥かに大柄で、脚力も顎の力も強く、賢い。頑丈な灰色の剛毛に覆われた毛皮は、並のナイフ程度では切り裂けない程である。
とはいえ、原因が判ろうと、何故こんな辺鄙な場所を経路に選んだのかは相変わらず謎のままである。知らない間に通行しやすい道でも整えられたのかと思えば、そんな状態でもないようだった。尖った小石が多く、馬車を走らせるには向かないだろう。
「……あれ?」
残骸の中を行く彼の、足が止まった。
どう見ても、乗員は全滅している。が、確かに今、呼吸に近い声を聞いた。
出所も判っている。横倒しになり半壊した馬車だ。もしかしたら、生き残りがいるのかもしれない。
破れた幌をよいしょと捲り上げて剥がし、ひょいと顔を差し込んだ彼は、思わぬものと出会った。
子供だった。おそらく8歳か9歳か、その程度だと思われる人間の女の子が、手足を投げ出して倒れている。
ぴくりとも動かない。彼は邪魔な幌を完全に捲ってしまうと、片足ずつ中に入り込み、倒れた少女に呼びかけた。
「君、大丈夫かい?」
これが大丈夫な訳がない。
横転の衝撃か完全に失神しており、衣服や肌は流れ込んだ血液で赤く染まっている。だが、生きているのは判った。更によく見れば、血は全て食い殺された男達のもので、少女にはほとんど怪我もない。
気を失って、下手に動かずにいたのが幸いしたのだろう。ダイアウルフはまず周囲に散らばる死体に取り掛かり、そこへ彼が到着した。少女に意識があり、叫んだり逃げたりしていれば一巻の終わりだった筈である。
乗員の死体が全員大人の男だという中、この少女ひとりが幼い。
何かが異常だった。
彼は馬車から顔を出し、もう一度周囲を見、念の為に呼びかけてもみたが、やはり全員が事切れていた。
一体、どうなっているのだろう。首を傾げた時、小さな呻き声がした。
今の声で、少女が目を覚ましたようだ。慌てて彼は頭を引っ込めて、再び少女の前に屈む。
「ん……」
驚くくらいに、か細い声だった。
この年齢の子供の声というのは、みんなこんなものなのか。
瞼が持ち上がり、瞳が覗く。なかなか焦点の定まらない大きな目と、彼の目が合った。
「………………」
「………………」
「え……と……」
「……だれ? ……何があったの?」
「その……いいかい、落ち着いて聞いてくれ。
君の乗っていた馬車は、ダイアウルフっていう獣の群れに襲われたんだ」
「………………」
「………………」
「……そう……」
「うん……そう」
「……急に……走ってたら馬車が揺れて……」
少女は口を噤んだ。
大変だったね。彼には、それしか掛ける言葉がない。
状況が飲み込めていないのか呆然自失にあるのか、少女は泣き喚いたり痛がったりもせず、崩壊しかけた馬車の中から、ぼんやりした目で辺りを見渡している。
辺り――そう、転がる、食い荒らされた死体は、この場所からでも見えていた。
まずかったなあ、と彼は思った。
子供にとって良くない光景である事は、彼でも分かる。
やがて、少女の視線が一箇所で止まった。他に比べれば比較的まともな状態の男が、目を見開いて死んでいる。喉の肉を大きく噛み取られた無残な死体から、じっと目を離さずにいる少女に、彼はおずおずと聞く。
「……もしかして親かい?
なんというか……気の毒な事になって……」
「ううん、人買い」
「え?」
子供の口から出るには不釣合いに過ぎる単語に、彼は聞き返していた。
「……この人たちはみんな人買いで、あの人は、この中でいちばんえらい人、なのかな。
お金のお話とか、そういうのしてたの、あの人だった。
わたしはこの人達に買われて、馬車で、ほかの町まで行くとちゅうだったの」
話すという行為で自分を取り戻しつつあるのか、幾分少女の口調がしっかりとしてきた。
その内容が、とんでもなかったとしても。
人買い。そういった生業の者がいるとは聞いている。様々な目的の為に、生きた人間の売買に携わる組織。無論、まともな職などではない。どの国だろうと表沙汰には到底できない、社会の暗部である。まさか本物に遭遇するとは考えてもいなかった。取り扱う側にも、取り扱われる側にも。
同時に、こんな場所を通ったのにも合点がいった。規模に関わらず非合法か、非合法ギリギリの商売となれば、人目の多い街道などは避けたいだろう。賄賂の額も馬鹿にできないし、中には賄賂の効かない馬鹿もいる。
その目論見はうまくいっていたようだ。もしかしたら、今までにも数度この経路を利用していた可能性も高い。
誤算だったのは、今回に限りダイアウルフが来ていた事だ。長くても10日程度で本来の生息地に戻る、その10日にぶつかってしまったのは不運としか言いようがない。人の概念を借りれば、天罰という事になるだろうか。
不意に少女が咳込んだ。むせ返る臓腑の匂いに参ったのか、あるいは、倒れた際に胸か背中を打ったのかもしれない。
「どうしようか……」
彼は途方に暮れて、よりによって少女に聞いていた。
子供一人で山道を降りるなど不可能だ。放っておけば近いうちに死ぬ。
また、彼を見ている以上可能性は低いが、ダイアウルフが戻ってこないとも限らない。
奇跡的に山を降りられたところで、言を信じるなら少女は人買いに買われた身分なのである。
降りて、何処へ行けというのか。
「……おじさん、このあたりの人?」
「ん? そうだよ」
いきなり現れた男が何者なのか、それは当然の疑問であっただろうが、何気なく答えた瞬間、ようやく彼は閃いた。
簡単な事だった。紛れもなく「この辺りの人」であるからには、自分は休ませられる場所を持っている。
「その……このままじゃあんまりだから、ひとまず一回うちに来ないかい?
泥とか、服とかも、さ。怪我してるかもしれないし……」
「……つれてってくれるの?」
「うん。広いし、世話をしてくれる人もいるよ」
「………………」
「………………」
「……じゃあ、行ってもいい?」
「もちろんだ」
拒否されたらどうしようと思っていただけに、救う側の彼の方が胸を撫で下ろした。
馬車からは抱きかかえて出した。軽い、とまず思う。
登れそうな場所から森の入口まで戻ると、おろして、と少女が言った。自分で歩くつもりらしい。
まともに人馴れしている大人なら、まあまあ、と適当に宥めつつ抱えていったのだろうが、あいにく彼はそうでないのと、このような事態を迎えてしまった事に少なからず動揺していたので、言われるまま少女を下ろしてしまった。
あまり迷惑はかけたくないという事なのか、見知らぬ男に抱きかかえられているのが嫌なのか。
少女は地面に下りると、腕を伸ばして彼の手を握ってきたのだから、嫌がっているという訳ではなさそうだが。
「大丈夫かい? 歩ける?」
「うん」
少女はこくりと頷いた。足はしっかりしているようだ。
彼は考えを巡らせる。それなりに距離はあるが入り組んだ森ではないし、ゆっくり行けば子供でも大丈夫だろう。いよいよ歩けなくなったら抱えるなりしていけばいいのだと思うと、やや気持ちが楽になった。
大小ふたつの人影が、森に入る。数歩も進まぬうち、血臭は深い草木に遮断され、ぼやけたものになっていった。