館と男と淫魔と夢魔と - 2
重厚ではあるものの生活感に乏しい、この洋館の主たる者の私室で、ウィルはメイトリアークとの一件をクレストともう一人の従者に話した。
「こりゃ確かにガキの教育には悪いな」
声には、若干の嫌味が込められていたかもしれない。
従者を弁明するように、クレストが言う。
「誤解しないで欲しいんだけど、メイトリアークは、フィリアの前でそうした面を表に出した事はない」
「あんたの前では?」
「……俺? なんで俺?」
「……いや、いい。何でもない」
こいつはこいつで別の問題があるなと思いながら、ウィルが報告を打ち切る。
しかし、クレストは尚もこの話を続けようとした。
世話になっている従者の汚名はそそいでおきたいのだろうが、既にどうでも良いという空気になっているのにあえてその話題に固執するあたり、やはり会話が下手糞だとウィルは思った。
「どうか気を悪くしないで……いや、そう言っても悪くなるものは悪くなるのかな……」
「なにブツブツ言ってんだ」
「あ、ごめん……ええとね、メイトリアークの事で気を悪くしたのなら、俺からも謝らせて欲しいんだ。彼女に、君の生命に危害を加えようという意思は無かった筈だから。
ただやはり、人間の君とは感覚が違う部分も多くて、しかもそれが淫魔である以上、ええと、多くの人間にとってはデリケートな性質の部分に……」
「あんた喋る前に一回頭の中で整理してから言葉にしろよ。
その件ならオレは気にしてない。淫魔に遭遇すんのは初めてだが、全く未知の存在って訳でもないしな。単なる食事だったってんだろ? お眼鏡に適ったのを、せいぜい男として喜んでおくさ」
「ありがとう、そう言ってもらえると助かるよ」
クレストは弱々しく笑った。
徹底して下手に出てくる。とてもではないが昨日、どうしても協力してもらうと腹を蹴りあげてきた相手と同じ奴だとは思えない。この場で容易く片手で捻り上げ、昨日の発言を撤回させられそうな気さえしてくる。こうして室内で向かい合っていると、あの敗北が夢だったとしか思えない貧弱さばかりが目に付く。全身を余裕のある黒いマントで包んでいても、その線の細さは明らかだった。傍に立つもうひとりの従者の方が、背は低くともまだ男として見られる体格をしている。
目が合うと、目だけで会釈してきた。体は全く動かしていないのに、不思議と礼をされたのが分かる。
そういえば、こいつについてはまだ聞いていなかったか。
ウィルが尋ねようと口を開きかけた時、見計らったようにクレストが話題を変えてきた。
「昨日は良く眠れたかい?」
「おかげさまでな。快適すぎて気持ち悪いぐらいの寝心地だった」
「それなら良かった。部屋を用意してくれたのは彼だ。
そうだ、ちゃんとした紹介もまだだったね。
彼はパトリアーク。この建物や庭の管理全般を引き受けてくれている」
「パトリアークと申します。改めまして、宜しくお願い致します。
同僚の働いたご無礼は、わたくしからもお詫びしたく」
「そりゃもういいって。
――で、やっぱお綺麗な顔のあんたも人間じゃなかったりするんだよな?」
「はい、わたくしはナイトメアです。夢魔と呼ぶ方が、人の世界では通りが良いかもしれません」
夢魔、と、耳慣れてはいても馴染みのない名をウィルは呟いた。
淫魔と同等に広く、そして古くから人の間でその名が語られる存在でありながら、こちらは現実味がぐっと薄れ、夢を喰らう、悪い夢を見せるといった言い伝えの中のみに生きている存在だった。人に危害を加えた報告例がほとんど見当たらず、観測例、遭遇例に至ってはゼロに近い為である。
考えてみれば分かる事だった。人と交わり精気を食う淫魔、そして人の血を啜る吸血鬼と異なり、夢魔の食料は夢である。仮に夢を食われたとて、寝ている人間にはそれが夢魔の仕業かどうかなど判別がつかない。伝承通り連日の悪夢にうなされでもすれば別だろうが、それとて本当に夢魔が原因かとなると断定は難しい。故に知名度こそあれど、どうしても危機感は薄れる。
こいつが、と、ウィルはついまじまじとパトリアークを見つめてしまった。
ぱっと見た雰囲気は例の淫魔と似ているが、それは多分に統一感ある服装によるもので、容姿はまるで別物である。そして、どちらもそうは見掛けられない美貌を除けば、人間の少年少女でしかなかった。
「夢魔について学ぶ機会は少ねえ。あんたの事は淫魔より分からねえな」
「そうでしょうね、我々は人の営みの裏に潜めども、人と直に関わる事はまず無いですから。わたくしのこの姿も仮初のもの。実態は貴殿ら人の世界でいうところの馬です。そう捉えて頂ければ」
「馬ねぇ……」
高度な魔物が、偽装の為、あるいは理解できない他の理由で人間の姿をとる事はままあるらしい。淫魔などは食性の都合上、元から人と変わらない姿をしているが、それとて捕食器官である長い尾を隠しているのだ。
しかしこの端正な顔立ちの従者と、草原でのんびり草を食む馬とを結び付けるのは、想像力を働かせても困難だった。
パトリアークが、シルクハットを少し手前に引いた。
そんな事を考えていたせいか、毛繕い、などという単語をウィルは反射的に思い浮かべてしまう。
「昨晩はなにぶん事が唐突で準備に時間が足りず、満足いくお部屋にご案内できませんでした。本日こそは貴殿に相応しい部屋をご用意致しますので、どうぞご期待くださいませ」
「部屋ならもう借りてるが」
「あれは、あくまでも一夜限りの仮の休憩所でございます。
本日こそは、貴殿用に、相応しく、整えた部屋を、ご用意させて頂きます」
「……そいつはありがたいが、なんで区切って強調する。
わざわざ他のを用意されなくても、今の部屋でオレは充分満足してるぜ?」
「いけません」
即座にパトリアークは首を振った。
「部屋は人を選びます」
「いや意味わかんねえ」
「ありあわせの部屋にお通ししたままでいるなど、わたくしの誇りが許さないという事です。館の主たる真祖の顔を立てるという意味でも、どうぞ申し出をお受けください」
「あんた関係あるのか」
「……ないけど、せっかくパトリアークもこう言ってくれてる事だし、嫌じゃなければそっちを使ったらどうだろう」
「……少しは部下に対して強気に出ても損しないと思うぜ……。
まあ、部屋を移るぐらいオレは構わねえよ」
「ありがとうございます。お召し物の方も数通り用意させて頂きました」
面倒になってきたウィルが頷くや、更なる爆弾がパトリアークから投下された。
さすがにこれは聞き返すしかない。
「はア?」
「服です」
「それは分かるって。なんでオレに服……いや着替えを用意してくれるのはいい。助かる。でも数通りってのは何なんだ」
「実際に着せてみないと、どれが最も似合うか判らず、細部の微調整も行えない為です」
パトリアークは至って真剣な顔であった。
そういえば疲労で半分聞き流した形になっていたが、到着時にも似た事を言われていたのをウィルは思い出す。装飾品だの着替えさせるだの同意を得るだのと。しかしこれが連中の言う同意を得る方法だというなら、迫る目的が異なるだけで、根本は淫魔と何も変わっていないではないか。
ウィルは若干たじろぎながら、凝視してくるパトリアークに言う。
「似合う似合わない関係ないだろ、着れりゃそれでいい」
「大いにあります。
それから服飾に最も敏感な生物である人間が、着れりゃいいなどと堕落した事を仰らないでください。嘆かわしい」
「なんで説教されてんだよ……。あとお前着せてみないとっつったよな。あれか? オレを着せ替え人形と勘違いしてねーか? どうせ着飾らせるんなら、もっと見栄えのする奴にしてくれ」
「ご自分で考えている程、貴殿は悪い素材ではありません。メイトリアークが目を付けた事からもお判りでしょう。同じ人間でも、フィリア様とは正反対のタイプです。わたくしも手腕の発揮し甲斐があります」
「あのガキとオレが同じタイプだったら怖いだろーが!
とにかく服はいい! あれこれ取っ替え引っ替えされるなんて真っ平だ! 冗談じゃない!」
それから暫く、ひたすら似合いそうな服や装飾品を列挙するパトリアークと、頑なに拒むウィルとの攻防となった。
その間クレストは所在無さげな棒立ちで、時たま何か言いかけては口を噤むのを繰り返していた。力尽きたウィルが折れた頃、ようやく「じゃあ……」とクレストがおずおず口を挟む。挟んだ割に、先が続かない。
何がじゃあなんだよと思う所であるが、ここまでくると気の毒で言えなかった。




