館と男と淫魔と夢魔と - 1
波乱の日が過ぎ、迎えた翌朝。
ウィルはあてがわれた部屋を早々に抜け出し、屋敷内を散策していた。
当然、単なる早朝の散歩などではない。廊下の長さ、部屋の数、扉から扉までの距離といった構造を、眺めながら頭に叩き込んでいる。
あまり意味があるとは思えなかったが、音を殺した歩法は既に癖になっていた。
昨日は押し寄せる極度の肉体及び精神的疲労に負け、浴場で体を洗い、部屋に案内されるや、そのまま倒れ込むように寝てしまった。普段の彼ならば決してそんな無防備な真似はしないが、あのような出来事に見舞われた当日で、殺すなら好きにしろという破れかぶれの気持ちが心を占めていたのが大きい。
結局、一晩明けても殺されてはおらず、これまた癖になった建物の構造把握を行える程度の体力気力は回復した。
部屋を出る事は、誰にも告げていない。
無断で何かを行う事に対して気が咎めるようでは、この仕事をやっていけない。
無断での行為が命取りになる例も多々あるとはいえ、それは実行を決断するか否かとはまた別の問題である。行うべきか、行わざるべきか、それを見極める嗅覚こそ、一流になれるか否かの違いというものだ。
彼は依頼を引き受けた。
ならばここは敵地ではなく、自陣という事になる。
しかし彼の中では、いまだ敵情視察という意識が抜け切らずにいた。
昨日の今日であるのとはまた別に、警戒心は足音や気配の遮断と同じく習性として染み付いている。
薄手の絨毯を踏む、あるかなしかの足音。
そこに、別の足音が混ざった。
ウィルは足を止める。ややあって、さん、にい、いち、とカウント。
正しくゼロになるのと同時に、曲がり角から、燕尾服に身を包み頭に山高帽を乗せた少女が、すっと姿を現す。
相手が口を開く前に、ウィルの方から声を掛けた。
「よ、おはようさん」
「おはよう御座います」
立ち止まり、両手を脇で揃え、丁寧な口調で礼を返してくる従者。
「ですが、それで誤魔化せるとは思わない事です」
「はは、ばれたか」
「当然です。しかし貴殿の行動を咎めはしません。
屋敷内の探索に関しても一切の制限はございません。どうぞご自由に、お気の済むまで」
「隠すもんは無いってか。
けどそれなら、誤魔化せねーよなんて言う必要あったか?」
「それは貴殿の行動自体を指してのもの。意図は隠せなかったという指摘に過ぎません。ですから、誤魔化せたとは思わない事ですとは言わず、誤魔化せるとは思わない事ですと申し上げました」
どうでもいい雑談にも、いちいち真面目に答えをくれる。
ウィルは肩を竦めた。そうしながら、この年若い、16歳程の少女でしかない従者の全体像を確認している。
昨日、浴場や部屋に彼を案内してくれたのは、二人いるうちこちらの従者だった。格好にも態度にも殊更昨日と変わった所は見えないが、主であるあの男から経緯の詳細な説明を受けた後だろうに、それでもなお変化が見られないというのは、却って徹底された教育を伺わせて不気味に映る。みっともなく取り乱すのは、ある意味で人間らしさの象徴でもあるからだ。
「しかし僕の見立て通りです。貴殿はなかなか油断がならない」
「お褒めに預かり光栄だ、ってな。
お灸すえとくつもりならお手柔らかに頼むぜ、一応まだ怪我人だしな」
「どうでしょう。お手柔らかにした隙を突いて、貴殿は目を潰し、喉を切り裂いてくるタイプに見えます」
「そこまで物騒でもねーよ」
「そうですか」
「ターゲットじゃない限りはな」
「……なるほど」
メイトリアークの目が細くなる。
怒りや殺意は伴っていないとはいえ、無表情に近い美貌がこういう具合に変化すると、それだけで迫力が滲み出る。
やりすぎたかとウィルは思った。まさかこの場で戦闘開始とはならないにしても、いたずらに関係を悪化させる事は得策ではない。
「やはり油断は禁物のようだ。
貴殿の鋭さは、敵に対しても味方に対しても刃となりかねません」
「ガキの頃から、そういう世界でしか生きられなかったもんでね。ま、機嫌損ねちまったんなら謝るよ。あと、その貴殿ってのはやめてくれ。ウィルでいい。オレはそんな大層な存在じゃない」
相変わらずメイトリアークから落ち着かなくなる視線を向けられながら、ウィルは軽さを装ってそう告げた。
貴殿呼びはやめて欲しいというのは、完全に本音であったが。
しかしその見せかけの気楽さも、次の瞬間に凍り付く事になる。
「僕と寝ませんか?」
耳を疑った。というより、何を言われているのか咄嗟には判断できなかった。
それ程に、メイトリアークの今の発言には脈絡がない。
「…………は? な、なに? 何だって?」
「僕と寝ませんかと申し上げました。
これからでも、すぐに。貴殿の部屋でも、僕に用意されている私室でも構いません」
至って真面目に、それこそ挨拶を交わした時と同じ表情と口調で、だがどう考えてもこの先で交わすのは言葉だけでは済みそうにない。こういう言い方をするからには、ふたり仲良く並んで二度寝というつもりではないだろう。
意図は把握した。しかし意味は不明だ。ここはストリートでもなければ、その類の店でもない。見事な仕立ての燕尾服姿の、職務に忠実そうな従者から、朝の挨拶ついでに出てきていいような発言ではない。
結果、ウィルは昨日とは性質の違う途方に暮れる感覚を味わいつつ、初心な少年のように言葉を濁すしかなかった。大概の人間にとっては、この流れならそうなる。
「いやぁ……ちょっとそれはなぁ……」
「貴殿という人間の真意を知りたい。僕は一度寝れば、だいたい相手の事は分かります」
「……あー……お前みたいなこと言う奴いっぱいいるな。どっちかっつーと男の側にだけどよ」
「人の社会におけるたかが見栄と、淫魔のそれとは違います」
今更ながら、昨日当たりをつけておいたこの従者の正体を思い出し、ウィルは己の迂闊さを呪った。気楽そうな態度を装っておいたつもりで、どうやら本気で寝ぼけていたようだ。昨日の一戦の影響か、など言い訳にもならない。これでは間抜けをやらかして死んでいった連中を笑えない。
サキュバス。俗に淫魔と呼ばれるもの。
その存在は古くから一般にも知られ、被害報告例、討伐令も、この類の魔の中では段違いに多い。
理由は、その捕食形態にある。淫魔という名の通り、彼女らは人間の淫気を刺激する際に発生する生命エネルギー、即ち精気を糧として生きている。その捕食対象は性別年齢を問わず、また淫気を刺激する方法がどのようなものであるかは、あえて言うまでもないだろう。直接人間を殺す事はまず無いとされるものの、吸精された人間は著しく体力を消耗するので、当人の体調等によっては結果的に死亡してしまう事もままある。
しかしそれよりも恐ろしいのは、サキュバスの吸精によって引き起こされる、付随的な影響の方である。
魅了されてしまうのだ。淫魔の名に恥じない、その魔性の快楽に。
被害者が淫魔の技量の虜となり、家庭も生活も崩壊。殊に上位のサキュバスでは廃人化の危険さえある為に、これを含めて、魔に関わる者達の間では第一級の危険生物と認定されている。本人のみならず、周囲を巻き込む。色恋沙汰の恐ろしさは、いつの時代も変わりはしない。
「勿論僕も、ただ貴殿の事を知りたいというだけではないのですが」
ずるり、と、粘つく音を立てて、メイトリアークから尻尾が伸びた。
咄嗟に身構えるウィルの前で、それこそ伝承の悪魔の尻尾そのままの黒光りする尾が、生きた蛇のようにうねる。良く見れば、長く細い尾は全体が黒い毛で覆われていた。光っているのは、表面を伝って滴り落ちる粘液のせいだ。
メイトリアークは顔の横まで持ってきた尾の先端に手を添えると、そこへ小さく舌を這わせた。誘うような行為に反して瞳は妖しく蕩けてもおらず、僅かに瞼を伏せているだけ。淫靡というよりは清廉が勝る、そのずれが逆に恐ろしい。
「いかがでしょう。悪いようには致しません」
それはそうだろう。彼女が正真正銘の淫魔だとしたら、身を任せて悪いようにされる筈がない。
が、ウィルは首を振った。
「……いいや、折角だけど遠慮しとくわ」
「どうしてです、この世ならざる法悦境はお嫌いですか。
身の安全でしたらご心配には及びません。真祖の客人たる貴殿に、生命や精神に及ぶ危害など決して加えません。
後腐れなく、一回きりの……です。少々、疲れは残るかもしれませんが」
「実に魅力的なお誘いだけどね、やっぱいい。
オレはガキは好みじゃねーんだ。せめてあと5つ6つは足してくれねえと燃えねえな」
「なんと勿体ない。外見で淫魔を選り好みするだなんて、これほど無意味な区別もありませんよ」
冷静な言葉とは裏腹に、そこで初めて本当に惜しそうに、メイトリアークは尾を引っ込めた。
魔の兆候は消え、表情も完全に元の堅物そうな少女従者のそれに戻る。
淫魔による被害例を知っていただけに、食い下がってくるかとウィルは緊張を解かなかったが、それきりこの話題が持ち出される事はなく、メイトリアークはやや崩していた居住まいを正して、はきはきと言った。
「朝食の支度が整いましたら、お招きにあがります。
それまではご自由にお過ごしください」
「……どうも」
「苦手な食材、料理法を、今のうちにお伺いしておきたく。
昨日は確認できずじまいでしたので」
「特にない。期待して待っとくよ」
「ありがとうございます。それでは」
現れた時と同じように、かつかつと靴音を響かせてメイトリアークは去っていった。朝食という事は、昨晩疲労と痛みで寝てしまい逃した分も含め、食事はあの従者が作っているのだろうか。
昨日からまともに物を胃袋に入れていないのと、体が回復しつつある事もあり、腹は減っている。だがあんな話の後だけに、何か妙な物でも入れられてはいないかと疑いたくなってくる。
探索の続きをする気にもなれず、無人となった廊下にウィルはひとり立ち尽くす。朝っぱらからこれかとじっとり湿った疲労が沸き起こり、自主的に陣地視察など始めた自分を僅かばかり悔いた。




