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君のいる世界  作者: 田鰻
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予兆 - 13

止める間もあればこそ、ずかずかと遠慮のない大股でウィルはフィリアに歩み寄り、あろう事か、がしっと片手で頭を鷲掴みにする。

ぎゅう、とフィリアが蛙の潰れるような声を出した。

焦ったのはクレストである。


「ちょ、ちょっと! 乱暴に扱わないでくれ!」

「はーん?」


ウィルはクレストに胡乱な眼差しを向ける。

自分の体が切り刻まれている最中でさえ薄らぼんやりとしていた男が見せた露骨な動揺に、初めこそ怪訝そうにしたが、すぐにクレストの要求内容を思い出し、どうやら急所を掴んだ事にニヤリと唇を歪める。

ウィルはフィリアの頭を大きな手で掴んだまま、ぐりぐりとパン生地でも扱うように捏ね回した。頭がぐるんぐるん振られるのにつられて、全身が揺れる。その度に、にゅうとかにゃあといった短い声があがった。

クレストの狼狽ぶりといえば、哀れを通り越して面白くなってくる程であった。

目先の危機に気を取られるあまり、傍に控える従者にやめさせろと一言命令すれば済む事まで忘却の彼方である。


「なるほどなるほど、なァるほど。

シアワセにしてやりたいってお言葉に違わず、結構なご執心っぷりのようで?」

「ね、ねえ君、お願いだから、その子にはもっと優しく……。

たくさん辛い目に遭ってきた子なんだから……!」

「どうかねえ? 人のガキっつうのは、バケモンのお前さんが思ってるよかずっとタフに出来てるもんだぜ。なんせ不老不死が権力者の永遠の憧れになるくらい、年がら年中死に急いでる生き物なもんでね。

モタモタ落ち込んでたら、日が暮れる早さでおっ死んじまう。過保護にしねーで首根っこ掴んで水に放り込む程度でちょうどい――おぐおっ!!」


嬲るような会話を破り、唐突にウィルの濁った悲鳴があがった。

余所見の隙を突いて彼の股間を蹴り上げたフィリアが、手を振り払い、ささっとパトリアークの背後に隠れる。


「て、てめえ、このクソガキ……」

「危ないと思ったら、全力でそこをけっとばせってメイが言ってた」


涙目で前屈みになるウィルと、難を逃れたフィリア。

どちらへ近寄ろうか暫し迷った末に、クレストは近場で蹲るウィルにおずおずと声をかけた。


「なんかほんとごめん……。

ええとね、とにかくその子が無事に人間の社会に戻れるよう、方法を探して欲しいんだ」

「心底協力したくねえぞ……」


立ち上がらない、というか立ち上がれないまま、ウィルがクレストを睨んで呻く。

どうやら思った以上にダメージが深刻だったらしい。となればこの呪詛は紛れもなく本音であろう。

そんなこと言わないで、と、クレストとしては弱々しく宥めるのが精一杯である。


「すごいでしょ」


安全が確保されたと見るや、フィリアはクレストの前まで駆けてきて胸を張った。明らかに賞賛を求めている。

なかなかの頼もしさだが、すぐ横で背を丸めて呻いているウィルの状態は完全に無視である。

素直にすごいと答えるのが果たして許されるものだろうか、これは。


「あ、あのねフィリア、君もあんまり乱暴はよくない……」

「真祖。フィリアは僕とパトリアークの技を初手とはいえ回避しきった強敵を、一撃の元に沈めたのです。

その功績及び実力、迷いのない判断力は大いに讃えられるべきであるかと」

「えっへん」

「ああ、そうだね。フィリアはすごいよ」

「クレストの事もほめてあげるね。ちゃんと約束どおり、帰ってきてくれたクレストはえらい!」

「あ、ありがとう……」


軽く背中を押されただけであっさり前言を翻して、クレストはフィリアの勇気ある行いを称える事にした。

つい今しがたまでウィルを心配していた事などもう忘れて、求められるままに高い背を屈め、だらしなく頬を緩ませてフィリアに頭を撫でられている姿は、堂々と世間に出して良い光景ではない。


「てめーら……」

「あ、ご、ごめん忘れていたよ。

とにかく、まずは中で傷の手当をしよう。といっても整った設備や薬はないんだけど……」

「いい、治療キットなら持ってる。どっか多めに水が使える場所はあるか」

「でしたら浴場が宜しいでしょう。

ついでに、その頬から顎にかけて満遍なく付着した汚れも洗い流す事をお勧め致します」

「これは髭が伸びてんだよっ!」


パトリアークを怒鳴りつけながら、ようやくウィルは立ち上がった。

血迷ってクレストの口車に乗せられた事を早くも後悔しつつ、当面の拠点となる屋敷を改めて見上げる。

時の流れに忘れ去られた魔の森に、威容を構える古の洋館。そこに棲まうは不死身の吸血鬼と、吸血鬼に付き従う従者が2人。指一本でこちらを殺せる相手に頭を下げて助力を請われ、そうまでして何をしたいのかと思えば、頼まれたのは人間の子供1人に平穏な人生を与えてやりたい、ときた。

手に入る情報全てが滅茶苦茶でちぐはぐでその場凌ぎで、いかにこの吸血鬼が考えなしに、目先の事だけに必死になっていたのかが丸分かりだった。波乱という言葉すら生温い。よくもまあ引き受けたものだと、自分にまだ残っていたお人好しさに呆れ返る。

だが、まあいいさとも思う。

あの子には、君のような悲惨な人生を歩ませたくない。

殺してやりたいほど失礼極まりない要求が、技を破られ、疲弊しきった自分の心に、強く響いた。あまりにも馬鹿正直で、交渉と呼ぶにはあまりにも馬鹿な心情の吐露は、裏表を使い分ける世界に生きてきた、そうしなければ今日まで生き抜いてこられなかった男の心を、悔しさと共に確かに打った。

たとえ奇跡的な確率だろうと、叩きのめされてからの脅迫に近かろうと、心を打たれたのは本当だったのだから。


――ま、当面は死にたくないからやむなく従ったって事にしとくが。


その方が、ここで過ごす上で色々と有利に事を運べそうだ。ウィルはニッと笑う。

敗北しようと裏切り者になろうと、培われた雑草根性は健在であった。


「どうぞこちらへ。浴室へご案内を致します」


そう告げるメイトリアークに、ウィルは素直に頷いて歩き出す。

先導されて玄関へと向かう途中で工事中のプールが視界に入り、思わず、なんだありゃと呟いた。


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