予兆 - 9
男は、規則正しく呼吸を行いながら走った。
いかなる状況でも、己のペースを乱す事は死に繋がる。それが極限であればある程に。ここは敵の腹の中だ。何があの木陰から飛び出してきてもおかしくはない。
森にはまだ、爆音の名残が響いているようだった。かなりの量を使った。あれで殺せたとは思えないが、追うのを諦めてくれる程度のダメージは与えられていれば良いのだが。
そんな期待が甘かった事を、男は足を止めると共に知る。
自分の進行方向に、つい先程戦ったばかりの相手が立っていた。
先回りされたか。どんな近道を使ったのかは知らないが、この森の主は奴らだ、不思議はない。
そして、回り込まれた事よりもっと厄介な問題がある。
男は思わず舌打ちをする。苛立ちや落胆を露わにするのは、あまり好ましくない。敵ではなく、自分の為に。
「無傷かよ」
「ううん、かなり燃やされたよ。
でも森の中で火はちょっと……火事になったらまずいから、消してきた」
「そう簡単に消せる火でもねえんだがな。中身が広がって延焼が続くように出来てるから」
「あ、そうだったんだ……知らなかった」
クレストの呟きを、男は聞き流した。
袋からおもむろに紙で巻かれた球体を取り出し、足元に叩き付ける。
球体はあっさり砕け、勢い良く吹き出してきた煙幕で、たちまち周囲は灰色の煙に覆い隠されてしまった。男は態勢を崩さない程度に下がり、短刀を構える。思った通り、厚い煙を割ってクレストが飛び出してきた。
びょうと長いマントが翻る。肩を狙った鋭い回し蹴りを、男は身を引くだけで避けた。手放した短刀が地面に落ちる。
後ろ飛びに、またも声が届く程度の距離だけを離れて止まる。
即座に逃亡に移るのはやめた。道具はまだストックしているが、一度効いていないのなら無駄遣いになりかねない。
見極めろ。冷静に。男は己に言い聞かせる。言葉にして思い浮かべるというのは、思っている以上に効果が大きい。
「あ、また避けたんだ……。
すごいね。君は本当に人間なんだよね?
結界も破ったっていうし……」
「あいつはお前のか」
「俺じゃなくて、俺の従者達が作ってくれたものだ」
「配下が破られちまったから、大将御自らお出ましって訳かい?」
「そういう訳じゃないんだが……」
相変わらず、どうも煮え切らない。
気勢が削がれる。臨終間近の老人を相手にしているようで、お前の好きにしなさいと言われているかと思えてくる。
こういった精神状態に持ち込む事が敵の特性なのだとしたら、甚だ面倒くさい。
あの炸裂弾3発から無傷で生還した相手でなければ、男とてそろそろ気を抜き始めた可能性もあったかもしれない。
苦々しい男を他所に、クレストはただその技量を称えている。
「大変だっただろう、これだけの技を人間が身につけるのは。
見た感じまだ若い子なのに」
「ヨボヨボジジイにこんな軽やかな身のこなしができるかよ。あとオレは努力家なんだ」
「うん……努力というのはいいものだよ、とても。その努力が意味を持っているというのは、特に。努力したって当人に何の意味もないなら、努力自体に意味がなくなる。それは時が止まったのと一緒だから。
だから……俺にでも努力できる事が生まれたなら、俺は努力をしていたいんだ」
「熱の入ったお話どうも。けどそろそろ時間だ」
男が言い終えた途端、クレストの足元から白い火柱が上がった。
風が巻き起こり、草を揺らす。男は手をかざし、光から目を庇う。
場所は、クレストが攻撃の為に踏み込んだ位置。つまり男が短刀を構えて立っていた位置。
一本だけ握った短刀を、男は蹴りを避けた際に取り落とした。あえて。
銀剣は、退魔用触媒としては高価だが優秀だ。燃料を燃やすだけの火とは異なる、こうした術を封じてもおける。まさか馬鹿正直に突っ立ったままでいるとは男も思っておらず、これは一種の保険だったが、クレストが全く怪しみもせずその場に立っていた為、最も有効な形で発動させる事ができた。これと同じ技を使い、かつて男はスプリガンの巨体を焼き尽くした事がある。
「そうだ、大切な事をすっかり話し忘れてた……」
熱を発しない、聖なる加護に満ちた炎の中から声が響く。
反射的に目を剥いた男の前に、ざ、と土を踏んでクレストは現れた。
「どんなに攻撃しても、俺には効かない。俺は死なないから。
……そんな大切な事でも、ないのかな……俺の事なんて……いや、やっぱり大切だよな、この場合は」
似合わない腕組みをして、ぶつぶつと言っている。
焼け爛れたクレストの顔が、上から刷毛でペンキを塗りたくったように元の形を取り戻す。融解し、半ば千切れて皮一枚で繋がっていた腕も、抉られた脇腹の穴も、みるみる塞がっていく。
一瞬後、そこには元通りの頼りなさげな黒マント姿が立っていた。
男は動けなかった。驚愕が、踏んできた場数と経験を束の間押し潰している。
人でない様々なものとも戦ってきたが、どのような強敵とて、身体の一部や器官を破壊されれば苦しんでみせる。
「マジかよ……」
いまだ片足を聖炎に焼かれながら、クレストがこくんと頷いた。
腿まで包む火を消そうともしない。燃える物がなくなれば消える、そして消えれば再生すると思っているのだろう。
「どうなってんだ、テメェの体は」
「あいにくと根っからの不老不死でさ……。
ね、君。もう一回だけ聞かせてくれ、君はいつもこんな仕事をしているのか?」
「ガキの頃からな」
「誰に仕えてだい」
「軍隊や犯罪者や悪趣味な物好きにだよ」
「じゃあ、色々な事に詳しいんだね。そういう……ええと、人の世で言う非合法な世界の事に」
「ああ、専門だ。綺麗な仕事は綺麗な連中に全部回っちまう。表向きは綺麗な顔をしてる連中に、な。オレらみたいなのは、そういう連中が触りたがらない食い残しを漁るしかないのさ」
話しながら、クレストの態度が明らかに変わっているのを男は訝しんだ。
短い会話の回数を重ねるごとに、その生気に乏しい顔に、だが確かな喜色が満ちていくような気がする。
話のどこを見渡しても、誰かを喜ばせるような要素はない。先が読めないぶん不気味だった。
「……他の生き方を探そうとは?」
「選ぶなんて贅沢があったと思うのか?
生き延びたければ強く、ずる賢くなるしかなかった。
手に取れる物は何でも使い、学べるものは何でも学ぶしかなかったんだよ」
そう警戒しながら、どうして自分が話し続けてしまうのかが男には判らない。
自白に対する耐性は幾通りか積んでいる。かといって、目の前の不健康そうな男が何かしたとも思えないのだが。
不自然に饒舌な己を意識して、男は一度あえて口を噤んだ。
あれっという顔に、クレストがなる。
「……ちったあ話下手は解消されたか?」
指先で弾いた礫が、クレストの眼前で弾ける。
派手なのは音だけで、威力は皆無。目線でクレストの注意が逸れたのを見、男は地面すれすれに捕縛鉤を投げる。
手首を二度、返し、腕ごと右に大きく引く。それだけで両足首が絡め取られ、固く引き結ばれた。不老不死などと馬鹿げた事をほざいたが、現に傷が治っているのは確かだ、この目で見ているのだから。
ずば抜けた再生力はまるでトロール……いや、痛みさえ感じないのはアンデッドの類に近い。倒すとしたら、一撃の元に全身を消し去るか。半端なダメージを与える意味が無いのなら、動きを封じるしかない。
持ち手の側に付いた鉤爪を手近な木に突き刺し、男は脱兎の如く逃げ出した。
無論本当に逃げたのではない。この間に、標的まで近付けるだけ近付いておくのだ。そして森に紛れて敵を撒く。
男は全速力で駆けた。初めて訪れる場所で、しかも先に新手が待ち構えていると判明している中で、後先考えず全力を出すのは本来避けた方がいい。体力と精神力の消耗が激しすぎる。
だが今は、そんな悠長な理屈を唱えていられる状況ではない。
ざざ、ざざざざざざ!
海岸に打ち寄せる波のような音が、背後から迫ってくる。
あれは波ではない。草を蹴散らして走る音だ。
男は後ろを見てしまった。馬鹿馬鹿しい程に走法を無視したモーションで、飛ぶように駆けてきたクレストが、あっという間に男の横に並ぶ。
足首には引き裂かれた鉄縄の断片が、まだくっ付いたままになっていた。
そこで男は理解する。最初に追い付かれたのは、何も秘密の抜け道を通った訳じゃない。普通に追い越されたのだと。
(眩ませる!)
男はベルトから照明弾を外し、投げ付けた。
クレストのマントが広がる。端がまるで手のような動きをして弾を掴み、ぐるんと包み込む。
ぼん、と、握り拳大の丸まりが小さく揺れた。それで終わった。
「そっちへ行かせる訳にはいかないんだ、まだ!」
「くそっ!」
倒すのは不可能だ。ならば移動の要である足を狙うしかない、既に二度しくじっていようとも。
縛るのが無駄なら、斬り落とす。そして再生する前に可能な限り遠くへ逃げる。
だが、果たして斬り落とせるものか。
敵の反応は鈍いどころではない、自分でも付いていくのがやっとな程に機敏だ。
傷付くのに無頓着でいたのは、避けられなかったのではなく、単に避けようとしていなかっただけだった。
あれだけの再生力を誇る肉体なら、負傷を避ける意味が無いから。
だがまさにその時、クレストの足が動いた。
ダン!ダン!ダン!と、石畳を金槌で打つような音を立てて靴底が地を叩き、一息に男との距離を詰める。
(はやい!!)
初手と同じ抜き手。だが速度は数段上。
交わしきれなくはない。最小限の動作で回避すれば、カウンターをかけて片腕は切断できる。
喉を狙って伸びてきた腕を、膝をやや曲げ、身を捻って避けて――
腕が伸びた。
関節ひとつ分程、腕が伸びたように見える、土壇場での更なる加速だった。
したたかに喉を打たれ、男は背中から地面に倒れた。
咄嗟に反り返って威力を殺さなければ、暫くは喋るどころか息をする事さえできなかった筈である。
「……反則、だぜ……腕が伸びるなんて……」
「ああ、まあ……え? 腕なんて伸びたっけ……?」
言われたクレストが自分の腕をしげしげと眺めている間に、男はじりじりと後退った。
喉は痛く、息は苦しいが、動けなくはない。
もう少しだけ時間を稼げば、支障なく走れるまでに回復するだろう。
「ええと、勝ち目がないって判ってくれた……かな?」
「どうかね、生まれつき物分かりが悪くて」
「……君の狙っている子が、君の手に入り、買った人間の元に戻る事はない。
俺がそうはさせない。あの子はもう辛い目には遭わせないって決めたんだ。
人間の世界で、人間の友達を作って、人間の家族を得て、人間として幸せな生き方をしなくちゃいけない」
買った人間と口にする時だけ、クレストは些か嫌な顔をした。
その内容に男は苛立つ。それが、自分の境遇とは真逆の話だったからだ。
沸いてきた血混じりの唾と共に、吐き捨てる。
「はっ、ガキの心配たぁつくづく余裕だな」
「余裕は見せてない。
余裕というのは、相手との実力差が一定範囲内にある時に示せる態度だ。
かけ離れすぎている時に見せるのは余裕とは言わない、無関心だよ。
小指の爪に噛み付いてくる蟻に、余裕ぶったりしないだろう。君だって」
彼にとっては当たり前の事を告げるように告げてから、自分を睨みつける目に気が付く。
「……あっ、あれ? ひょっとして俺は今かなり失礼な事を言ったんだろうか?」
「……だいぶな。その調子じゃ、知らねえうちにあの子とやらにも失礼な事言ってそうだな」
「………………」
「………………」
「ええと、続けても?」
「……続けろ」
男が喉を撫でる。もう少し。
「ごめんね、しつこいと思うだろうけど、もう一回。
人買いの仕組みについては、どのくらい知っている?」
「ひと通りは」
「それらを引き受けるという、商会についてもかい?」
「んなもんまず全部覚えとかなきゃ仕事にならねーよ。
あと商会商会ってあんたは言ってるが、商会はひとつだけじゃねえ。その大小全部、だ」
「そうか。つまり君は何だってできるんだね」
「最初っからそう言ってるだろうが。オレは何でも屋だよ。オールマイティの呼び名は飾りじゃねえ」
しつこく溜まる唾を、男は横を向いてぺっと吐いた。
視線を戻すと、黒ずくめの姿がマントの端をはためかせて、ずかずかと向かってくる。ただの早足とは何かが違う、どこか感極まった気配を滲ませる大股の歩み。無感動無気力の極地にいるような風貌で、こんな動きをやられると不似合い極まりない。
思わずびくっと肩が跳ねた男の前で、クレストはぴたりと立ち止まって告げた。
「俺には君が必要だ」
「……………………」
なんだ、こいつは。
しかし、ひとつだけ確かに言える事がある。
「……そうか、ちょっと屈め」
「? こうかい?」
隙だらけだ。




