予兆 - 8
相手は、かなり驚いているようだった。
反射的にびくっと後ろに身を引く動作は、まるきり素人のものだ。場所が場所でなければ、ハイキング中に水汲みに行って、頭が空っぽの所にいきなり他の人間と遭遇したような。
だがハイキングなんて言葉が似合う程、ここは健康的な遊び場ではない。
ついでに言えば、野外活動が似合うような風貌でもなかった。
どこが最も似合うかといえば、療養所だろう。
(ビックリした……ずいぶん早いな)
心情もまたそっくりそのまま素人丸出しであった事も、不意を討たれた男は知る由もない。
そう、クレストは侵入者との遭遇に、純粋に驚いていたのである。
遭遇する事自体は想定済みというかその為に出向いたのだが、実際にはもっと先で出会う予定だった。侵入者の森を抜ける速さが、こうまで迅速だとは考えていなかったのだ。
メイトリアークとパトリアークの結界を破った時点で、単体の実力が前の群れとは比較にならないのは明らかだった。それにしても、たいしたものだ。クレストは棒立ちで男を眺めたまま、純粋に感心していた。鍛えられている割に細身に見えるのは、背の高さと、戦闘者としての洗練された身ごなしによる効果だろう。一見しただけで頼もしく強そうだと判る。こんな状況だが、クレストは少しばかり羨ましく感じないでもなかった。
生気のない垂れ気味の目で、じっと自分を見てくる相手の全身に、男は素早く視線を走らせた。
――人型。
真っ先に浮かんだのはその単語だった。ヒトガタ。人間ではない。
迷い込んだ人間かという疑いは、浮かぶや即座に捨てた。
こいつは結界の奥から出てきたのだ、つまりは初めから結界の内側にいるのを許された身であるという事。険しい山の森林内を移動するのにまるで似つかわしくない黒尽くめの衣服からも、まともな相手ではない。
人型。人間を模した魔物。それも人間と区別がつかない程に完璧な姿を保った。
頼りなさげな相手に対する警戒ランクを、男は一気に引き上げる。
まず、こいつらは知能が高い。人間と同じ姿なので、手足も人並みに器用に使う。
それは、ただでさえ人より身体能力の高い魔物が、更に武器防具を利用してくる可能性があるという意味である。
要は、人の姿をしているだけで強敵だ。
どんな贔屓目を用いても強そうに見えない事など、一切当てにできない。
牙や爪を生やしたデカブツが強いのは当たり前だが、人型は外見の印象を強さの基準にするのが難しい。
男は、相手に気取られぬよう戦闘態勢を取る。露骨ではないが、ワンアクションで攻撃に転じられる脚と手。
「その……こんにちは」
クレストが口を開いた。
目の前の男の顔は、無表情に近い険しさだ。
挨拶と共に軽く頭なども下げてみたのだが、男の全身に一瞬の緊張を走らせただけだった。どうも、攻撃の予備動作か何かだと思われたらしい。そういうつもりじゃないんだけどなあ、と心中で頭を掻く。
従者の結界を壊す程の相手に、これで警戒を解いてもらえるとは、幾らクレストでも信じていなかった。
だが今回は、最終的には解いてくれなければ困るのだ。
黙っていても事態は悪い方へ向かうだけと判断し、とにかく会話を繋ぐ事を試みる。それはクレストにとってかなり苦手な分野なのだが、頑張ってみなければならない。
「こんにちは……」
「………………」
「あの……どういった要件かな?
一応、最初に聞いておきたいんだけど……」
「………………」
前回の侵入者に対する問いかけよりは、だいぶ控え目になっている。
男は口を開かない。クレストの真横に回り込もうとするように、じりじりと摺り足を進めている。
逃げられないようクレストが体ごとそちらを向くと、またも男の動きが止まった。
警戒されている、これ以上ないくらいに。
「ええと……答えて……くれない、かな。駄目?」
「一応って前置きしたって事は、聞くまでもなくお見通しなんじゃないのか?」
やっと男の声が聞けた。
迷うところのない、はっきりした喋り方だった。
自分と比較して、クレストはまたも気が沈んだ。これでは何をしに出てきたのか分からない。
「うん……大凡の予想はついてる」
「ならそれは聞きたいってか、確認したい、だな。そうだろ?」
「……うん、そうかもね……」
「あんた、この森の支配者の臣下か?」
「いや、どっちかというと俺がその支配者……になるのかな」
「そうか、ならオレの敵って訳だ」
「敵かどうかは、まだ分からないよ。それを確かめる為にも、君がここに来た目的を教えて欲しいんだ」
そう言いながらも、これは九割九分衝突は避けられないとクレストは予感していた。男の佇まいからは、前回の男達とは違った意味で、言葉のみでの説得が無意味である空気が伝わってくる。
その男はといえば、受け答えを続けながら、油断なくクレストの観察を続けていた。
痩せているせいでひょろ長く見える手足、猫背からは虚弱さしか伝わってこない、そんな体型。強そうに見えない事は、前述の通りに意味がない。
この距離からの目算で自分と同じくらいの長身だが、肩から下のほぼ全身を、黒い外套ですっぽり包んでいる。むしろあれはマントと呼ぶべきだろう。森をうろつくのにも、この暑さの下で着るにも不釣り合いだ。武器らしき物は所持していない。よって伏兵を最も警戒すべきはあのマントの内部である。脇腹、背中、腰、見え難い箇所に何を仕込んでいるか判ったものではない。
武器を使わないとしたら、得物はそのまま奴自身の手足。己の肉体を武器とする格闘型は、単純だがそれだけに高い力を頼んだタイプが多く、正攻法で挑むのは厄介だ。
黒マントが、また弱々しく微笑んだ。主と名乗る割に、この妙な自信のなさは何なのか。
「ええと……そんなに警戒しないで。
怪しい者じゃないから」
「立場上その弁明が必要なのはオレの方だな」
「あ……そうだね」
「………………」
「………………」
「お前さん、ひょっとしてヒトと喋るの下手か」
「うん……」
「………………」
「………………どうも、君からは話したくないみたいだから、俺から言うよ。
君は女の子を探しに来たんじゃないかな? 人間の貴族の家柄で、人買いに買われた――」
「フィリア・ソローネ。ボードレール商会のお手付きだ。商品ランクSS。既に買い手も決まっている」
「ああ、やっぱり全部知っているんだね……。
偶然迷いこんだ線は消していいのかな?」
「オレの前にも来た連中がいた筈だ。何か知らないか?」
「……話はしてみたけど、全然聞いてくれなかったから……」
「皆殺しか」
「……もしかして、あの中に君の友達や家族がいたのかい? だとしたら……」
「いーや、赤の他人だ」
それは良かったと喜ぶ訳にもいかず、またしても黙りこくるクレストを、男はここに来てはっきり敵と見做す。
こいつが”獣”だ、間違いない。
第一陣を壊滅させ、生き残らせた一人を脅して、匿った少女の存在を闇に葬ろうとした、その本人だ。この如何にもひ弱そうな男に、ゴロツキに毛が生えた程度とはいえ、人ひとりをああも震え上がらせる力がある。
気楽な調子で会話に応じながら、男の警戒はいまや匂わせる範囲を超え始め、敵意へと変わりつつある。
「あらかじめ君に言っておくと、俺はあの子を守りたいと思ってる」
「オレはその子を連れ戻したいと思ってる」
「……それは、あの子を不幸にするだけだ」
「だろうな」
「だろうなって……」
「もう既にそいつ絡みで、オレを雇う金なんかの何十倍何百倍の大金が動いてるんだ。今更じゃあしょうがないですねで、手ぶらで帰れる状況じゃないんだよ」
「前にも聞いたなぁ、その言葉……。
そんなに、フィリアに付けられた金銭的価値は高いのか」
「オレみたいな庶民が一生遊び呆けて暮らせる金を、一時の遊びの為にポンと出せる。それが真の悪趣味って奴だ。オレが来たのが運の尽きだったな、あんた」
「いや、君が来てくれて俺は運が良かったよ」
良く分からない事を、黒ずくめが言った。
普通に受け取れば実力を侮られているという事になるが、ひとまず男は、それについては考えるのをやめる。
「ガキはどこにいる?」
「俺の家にいる。ここからもっと奥にあるよ」
「やけにベラベラ喋るな。罠かよ?」
「いや、全部本当なんだけど……」
黒ずくめが少し首を傾げた。眩しそうに目を瞬くが、それにしては日光を恐れている様子はない。
目的の商品を奪還するには、こいつを倒すしかない。
だが、肝心の標的の居場所を確認する前に殺してしまっては元も子もない。探索は段違いに困難となる。拷問も視野に入れて、まずは騙されるのを前提で直接聞いてみたのだが、敵の口からはこれ以上ないというくらい分かり易い居場所が出てきた。森の奥にある自宅に匿っています、ときた。
罠か。違うとしたら阿呆か。
実際、会話は通じているが今ひとつ要領を得ない。だが、それだけで頭が弱いと決め付けるのは早計だろう。
このノラリクラリ加減が、あえて狙ったものだと仮定するならば。
それはまるで要点に触れるのを極力避け、何とかして会話時間を引き伸ばそうとしているようだ。
では、会話を引き伸ばして、相手にもたらされる利点とは。
そこで男はハッとした。
囮が時間を稼いでいる間に本隊を逃がす。ありがちだが有効な策である。
急いだ方がいいな。視線を前方へ向け一気に駆け出そうとした時、黒ずくめがザッと音を立てて横に踏み出した。
たったの一歩だが、進路を阻む意思を示すには充分な距離。
「すまないけど、いま君を通す訳にはいかない」
「今まさにとんずらこいてる獲物を、みすみすつっ立って見送れってか?」
「とんずら?……あ、待ってくれ、君は誤解してるよ。
俺は囮じゃないから。フィリアは今もちゃんと屋敷で待っている。俺が帰るのを待ってくれている……」
クレストが頬を緩める。緊迫した戦場というには、似つかわしくない雰囲気が流れた。
なんだ、こいつは。一方の男は、クレストの様子にきつく眉を寄せる。
敵に緊張感が皆無なのは登場時からだが、この、全くこちらを見ていないような目は何なのだろうか。
どんな性格をしている奴でも、殺し合うとなれば最低限、相手を見る。
そいつはこれから自分が殺し、あるいは殺されるかもしれない奴だからだ。
だがこいつは、まるで自分が殺される事など初めから想定していないというようだった。余程自信があるのか――違う。こいつは本気で、目の前の相手には殺されない事を露程も疑っていないのだ。
「ノロケはその辺にしときな。
どのみちお喋りで金貰うつもりはねーんでね、金持ちご婦人相手のツバメでもあるまいし。あんたが邪魔するってんなら、無理にでも通してもらうぜ」
「そうか……まあ一回はこうなるしかないのかな。
先に言っておくと、君に勝ち目はないよ」
「は、よーやく化け物らしくなってきたじゃねえか」
「……怯まないね、無謀というよりも場慣れしている。
君は、こういう仕事をずっとやっているの?」
「人浚い専業じゃねえが、マァ長いな」
「専業じゃないって事は、他の仕事もやるんだろう?」
「薄汚いドブ掃除や表沙汰にできない刃傷沙汰や、巷に溢れる危ない事なら大概な。例えば、人様のモンを横取りする化け物退治とかよ!」
男が駆ける。追ってくるクレストへ、すぐさま体を反転させて向き直る。
クレストは動きを止めなかった。そのまま男へと突っ込み、右腕で襟首に掴みかかる。
(思った通り接近戦か!)
敵の姿勢から腕の機動を予測、早々と首を傾けるや、回避しきる前から予備動作に移る。
指先が首の脇を掠める。踏み込んだ。身を沈め、全力で両腕を突き出す。
ど、ど、どどど
立て続けに、クレストの胸と腹に衝撃が走った。
一撃でも成人の骨を砕くのに足りる打撃が、ほぼ同時に5発、教会の洗礼を施した短刀と共に撃ち込まれる。
クレストが後方へ吹き飛んだ。地面を跳ね、木の幹に叩き付けられて止まった彼は、短い息を吐く。手を付いて倒れた体を起こし、僅かに俯いた顔を上げた時、男の姿はそこになかった。
枝が僅かに揺れ、樹上から次々と鉤爪が飛ぶ。反応する間さえなく、捕縛具はクレストの腕に、脚に、胴に絡まり、幹へ固定していった。不確かな視界、不安定な足場からだというのに、狙いは信じられない程に正確で、細い鉄の糸を何重にも撚り合わせて作った縄は、扱いが難しい分そう容易くは千切れない。
最後の一本がクレストの胸を締め上げると同時に、足元で複数の硬い音が響く。
クレストが視線を下げるのと、ばら撒かれた炸裂弾の瓶達が爆炎を吹き上げるのとは、ほぼ同時だった。




