始まりの吸血鬼 - 3
うららかな陽射しの降り注ぐ昼下がり、庭園のチェアにだらんと身体を伸ばしていた彼は、もう相当の時間そうしていた空を見上げる姿勢のまま、ぽつりと呟いた。
「何処かへ行ってみようかな……」
思いつきは即座に否定される。
「御身分をお考えください、真祖」
「またそれだ。俺の身分なんて、ただそこにあるだけのものでしかないよ」
彼は手の甲で、腹の上に開いて伏せておいた絵本の表紙をぱんと叩いた。
むかしむかし、どこまでも平らだったこの世界に、5人の始まりの吸血鬼がいました。
平らな世界には、まるいかたちをした生き物たちがいるだけで、他には何もありませんでした。
5人の吸血鬼は、この世界を、もっとたくさんの者たちが暮らせるカタチにしようと決めました。
一人が横たわると、たちまちその体は広い大地に変わりました。
もう一人は大地を流れる水に。
別の一人はその上を吹く風に。
残った一人は多くの命を育てる木々に。
こうしてそれぞれが姿を変えてしまうと、最後に残っていた一人に、自分の体の一部を渡しました。
大地になった吸血鬼の肋骨は、決して朽ちない体に。
水になった吸血鬼の涙は、決して尽きない血に。
風になった吸血鬼の吐息は、決して壊れない心に。
木々になった吸血鬼の爪は、決して負けない力に。
こうして作られた世界には、やがてたくさんの新しいいきものが生まれていきました。
ひとり残った最後の吸血鬼は、今でも深い暗闇の森に住み、仲間の作ったこの世界を見守っているのです。
「これが正解だから困る」
彼は再び、絵本を手の甲で叩いた。先程のよりも弱々しい。
カラフルな表紙には「はじまりの吸血鬼」と書いてある。
ごくごく稀に従者が手に入れてきてくれる本に、紛れていたものだ。
「みんなさっさと自分だけどうするか決めてしまって、俺の事なんて考えようともしてなかった。
いや考えてはいた、貧乏くじの当選者を誰にするかは。押し付けられたんだ」
「取り残された、の間違いでしょう」
「……何か違うの? それ」
さあ、と流され、彼は暗い溜息をついた。
とにもかくにも、子供向けのお伽話は全て真実。
世界の基盤となった始まりの吸血鬼のうち、唯一残った一人が彼だ。
名はクレスト。世の伝説では、真祖と称されている。
御大層な二つ名だが、だからといって別に、世界中の生命の上に君臨する訳でもない。そもそも、名目上は眷族である、今を生きる他の吸血鬼に会った事さえないのだ。
無論、血縁など無い。吸血鬼とは言っても、全く違う生き物なのである。
「好きでなったんじゃないよ、不老不死なんて。
俺が世界と等価だなんて間違ってるんだ」
ありきたりすぎる今更もいいところな愚痴が、ほんの思い付きさえ止められた事で、ついぽろりと出てしまった。無反応でいる従者に、愚痴もそれ以上は続かず、ごにょごにょと情けなく口内で言葉を濁して終わる。
これではどちらが主だか分からないが、彼は物事の初めから万事大凡こんな感じだった。どうにも流され易く、懐が広いというよりは諦めが早く、押されればすぐに負ける。加えて散々繰り返しているように、全体に暗い。
自分が世界に等しい存在だなんて間違っているという今の言葉が、謙遜でも何でもない事実だという事は、彼自身が誰より良く承知している。かといって、他者に譲れるような代物でもない。
彼は両目を閉じ、チェアに沈み込んだ。
ふう、と漏らす吐息は、無限の命の持ち主とは思えない程に、か細い。
真祖、と呼ぶ声が聞こえたが、答える気にはなれなかった。
ただ一人残った始まりの吸血鬼として、世界の移り変わりを見守るなどというつもりはない。周りに流された結果、自分はここにいる。そうなった以上、そういうものだと思っている。諦めている。
不死の怪物が無闇に世界をうろつけば、要らぬ混乱を撒き散らすだけだ。
そうなればまた、流されて負けて押し付けられる事が増える。
そんな会話を交わしたのは、さて、いつの昔であっただろうか。