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君のいる世界  作者: 田鰻
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予兆 - 6

若い男だった。顔立ちがというだけでなく、事実年齢は30に満たない。

高い身長を、鍛えられた筋肉がバランス良く覆っている。逞しい肉体は、動く為に自然と特化していったものだ。やや面長な顔に、太い眉。くすんだ緑の髪は乱暴にカットされ、ひどく雑な人間という印象を周囲に与える。

服は、薄金加工した特注の鎖帷子をまず着込み、その上から厚手の長袖とズボンを着ただけ。それでシンプルに見えないのは、膨らんだ大量のポケットと、体のあちらこちらに括り付けられた小袋類のせいだ。

覗いた手首には抉ったような白い傷がある。皮膚は固かった。それが一層、男の外見年齢を高く見せている。

大柄だというのに、踏み出す一歩一歩は恐ろしく静かだった。地を蹴れば、敵の喉を切り裂くまで三秒とかからない。


仕事に当たって、男はこの森について徹底的に調べた。

予想に反して、資料を見つけるのにはそれほど苦労しなかった。

おとぎ話の類、絵本の類を資料と呼べるのならばだが。

魔の森。

その言葉を男は笑わない。

魔物という存在が、世の表舞台から姿を消して久しい。

騎士道が奨励される傍ら、魔術を学ぶ手段は表向き隠され、胡散臭いイメージばかりが強調される。一般の市民にとって魔術とは既に、なんだかよくわからない人が使う、なんだかよくわからないもの。魔物とは既に、せいぜい子供の頃に、悪さをすると浚いにくるよと親から脅されるもの。どちらも、実物ではなく概念と成り果てている。実在するとは言われるが、その目で直に見た者など滅多にいない。

しかしそれも、保護された町に暮らし、パンを焼き、日用品を売り、服を仕立て、農作物を育てる……日々をそんな風にして送っている、まっとうな道で生きる表の人間達にとってはの話だ。

一歩裏の舞台へ踏み込めば、それらはいまだ公然と幅を利かせている。


男は学べるものは、およそ手当たり次第に何でも学んできた。

武術にも魔術にも通じる必要がある。それが男の信念だった。

どちらか片方だけを学ぶ事は、特に魔術に関してはまるで意味が無いと思っていた。自分がやろうとしているのは、研究ではなく実践だ。いかに生き延びる手段を、勝利の手札を増やせるかだ。単に学ぶだけでは駄目で、あらゆる状況に応じて、咄嗟に適したカードを切る事ができるか。

繰り返すイメージトレーニング、何度も痛い目に遭いながらの実践投入を経て、体に叩き込む。

オールマイティ。敬意と皮肉を込めて、男をそんな風に呼ぶ者もいた。

それは男の姿勢に正しく忠実であった。どっち付かずの中途半端な技は、極限の状態では役に立たず死を招く。だが、2つ学んだ2つともを最大値まで磨き上げれば、融和した技術は、1だけを磨いた人間では到底到達しきれない境地へと達する。

なにせ普通の人間なら、どんな剣の達人であろうと、不意に頭を炎に包まれれば反射的に庇うか大混乱に陥る。術はそれを可能にするのである。但し、斬られる前に発動できれば、だが。

困難な道だ。しかし男は泣き言を漏らさず着実に進んだ。

何かに取り憑かれたように、まるで強さだけが己を証明する手段だとでもいうかのように。

再び、男は位置を確認する。問題なし。全ては問題なし。

落書きのような地図と、数日かけて可能な範囲まで確認した森の外周輪郭とを照らし合わせ、男は自分が現在いる位置を鮮やかに脳内に描き出す事ができた。

地図はいつだって最重要だ、戦う為にも逃げる為にも。生き延びる為に必要なものを、男は一切手を抜かず学ぶ。


しかしその男をしても、森にまつわるお伽話は些かどうかしていると言わざるを得なかった。

世界を作った存在が、忘れられた魔の森の奥にひっそりと生きている?

これは伝説ではない、神話の類だ。

とはいえこれだけ材料が揃えば、あながち笑ってもいられなくなる。

敵の存在自体が前任の妄言である可能性は、森に入って即座に捨てた。

今こそ臆病さを発揮する場であると直感したのだ。世界はともかく、ここに何かがいる事はもはや疑いようがない。


(次ッ!)


声は発さない。

休む間もなく、木々の隙間を浮遊する青白い結晶の群れが襲ってきた。

体温感知型自律結界か。あれも補足用だろう。さっきの霧だけで済ませる気はなかったらしい。念入りな事でと無感動な賞賛を送りつつ、男は飛び交う結晶を次々と避けていく。

だが、反応して向かってきている時点で、位置探知を防いだ事にはなるまい。

こちらの存在は感知されてしまったと見るのが自然だ。男が結晶を避けているのは、おそらくあれが対象に触れる事で、第二の術が発動する仕組みになっているからだ。

全ての結晶を振り切り、森の奥へと逃げる。常人なら回避しきれなくとも、男からすれば結晶の動きは鈍かった。

キィンと、頭の奥に甲高い音が響く。

新手か。敵探知を発動条件とする術がお出でなすったらしい。

一瞬男の脚がふらつき、不自然な眠気が押し寄せる。

多重結界。精神汚染。


(小賢しいんだよ!)


想定通りに、男は右手に力を込めた。袖の内側に施した針が飛び出し、皮膚を刺して微弱な電撃を走らせる。

瞬時に意識が覚醒した。男が腹から息を吐き出すと、ガラスが弾ける音が脳を揺らす。崩れかけた脚を、すんでで踏み直す。クラクラする。が、眠気は跡形もなく消えている。

破壊に成功した。この類の術は、一旦破ってしまえば脆い。

しかも今のは、精度は高いようだが耐性が足りなかった。言うなれば優等生による作品だ。荒々しく砕かれるのには弱いだろう。男は傷跡に素早く薬を塗り、用済みとなった針を慎重に外した。

魔物絡みと明らかになった時点で、精神汚染への備えはしてきた。

物がお伽話であろうとも、現実に死人が出ている以上、男は決して情報を軽んじる事はしない。馬鹿げたひとつの噂話が、土壇場で命を繋ぐ。綱渡りで生きる世界では、そんな事がままあると知っている。


男は、ふうと息を吐く。

抵抗の最中に進路を外していないかを確認。位置、大幅な変化なし。問題なし。

立て続けの連戦に、さしもの男も軽い疲労を覚えた。

休憩を求める体を押して移動する。この場で休むのはまずい。位置が割れている以上、結界を施した者が現れる可能性が高い。破壊現場にそのまま留まるなど愚の骨頂だ。

再び歩きながら、男は考える。

結界。

そう、今しがたの襲撃が起こる前は、どこまで考えていたのだったか。

この森には確実に何かがいるという話で、そして結界は先の男が去った後で張られたという話だった。

生き残りの男が何かを見ている事。そして奴が明らかに嘘をついている事。

では、何がいて、何の為に奴の仲間を殺して、あえて奴を逃して、奴の口止めをして、森に術を仕掛けたのか。

順に片付けていこう。

森には何かがいる。何かはまだ判らない。仮にこれを「獣」と呼ぶ。

捜索隊の奴らは、商品の痕跡を探しに森に入った。敵――獣は、それを殺した。

何の為に。単に縄張りの森に侵入されたから?

それとも――奴らが商品を探していたから?

なぜ男を逃したか。全滅させては、より大掛かりな次が来る。それを防ぐ為に、嘘の証言をさせる為に。

口止めをしたのはなぜ。当然、喋られてはまずい事があったから。

では、喋られてはまずい事とは何だ。自分……獣の存在をか。いや、それならお伽話とはいえ知られている。

そもそも、奴らの目的は何だったのか。振り出しに戻る。そうだ、商品の痕跡を探しに森に入ったのだ。

そんな連中がもう来ないように、皆殺しという脅しを種に奴を口止めし、念入りに森に結界まで施した。

男の両目が、先程もやを見た時のように細くなる。

一貫したひとつの意思が、浮かび上がりつつある。獣は、こいつは守ろうとしている。何かを。では何を。


商品を、だ。


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