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君のいる世界  作者: 田鰻
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予兆 - 4

照りつける日差しが数日置きに強さを増していく中、プール作りは滞りなく進められていた。青空に明るい太陽、白い雲、深緑の森の組み合わせが、目にも鮮やかなコントラストを描いている。

ここにプールが加わった光景を、クレストは思い浮かべてみた。いまだ彼にはその全容が見えてこないものの、ほぼ完成した基礎部分を眺めて、なんとなく想像する事はできる。

……あそこで泳がされる事だけは、なんとしても回避しなければと思うが。

穴掘りを、引かれた線に沿ってフィリアが一生懸命に手伝っていたのが数日前まで。今は水漏れがしないように、穴の内側を固める作業に移っている。全体を取り仕切るのはパトリアークであり、無論あの凝り性の従者の事だから、仕上げの美しさまでをも念頭に置いた工程となっているのだろう。


「パト、すごいねー」

「うん、すごいね」


今日も相変わらずチェアに寝そべったクレストは、横に立っているフィリアと呑気な会話をかわす。腰掛けはすぐ横にフィリアの物も用意してあるのだが、待望のプールが着々と目の前で完成しつつあるとあっては、なかなか一箇所に座って待つのが難しいようだった。

とはいえ作業がここまで進むと、フィリアに手伝える事はほとんど無い。

帽子も被らず日差しに晒されているフィリアに、クレストは倒れないようにねとだけ注意する。

彼とは違って、人間の子供は暑さが続く事にも弱いのだ。

クレストの声はいつもと変わらぬ、穏やかな調子だった。発したクレスト自身も、そのつもりだったろう。

が、フィリアは何かを感じ取ったらしい。そっとクレストから離れて、プールサイド予定地に立つパトリアークの元へ近付く。何か?と問うてくるパトリアークに、小声で耳打ちした。


「ね、クレスト変じゃない?」

「と申しますと?」

「この頃ね、元気ないと思う。前より。気のせいかと思ったけど、やっぱり変だよ。何かあるとぼーっとしてる。病気かも」

「ご心配はいりませんよ、フィリア様。あれは断じて体調不良ではありませんから」

「そうかなあ……」


呟く声は、それでもまだ心配そうにクレストを向いていた。

子供特有の直感力といおうか、フィリアがこうも短期間でクレストに対する理解を深めている事に、パトリアークは内心舌を巻いていた。

確かに、主の考え込む頻度と時間が弥増しに増している。内容は聞くまでもなく明らかなのだが、それを教えれば尚更フィリアに気遣わせてしまうだろうと、あえてパトリアークは微笑するだけに留めておいた。

原因が自分にあると知れば、萎縮させてしまいかねない。


プールサイドで囁き交わす2人を、クレストはチェアの上からぼんやり眺めていた。

両者が声を潜めていても、クレストが耳を澄ませば丸聞こえになる。

しかしフィリアの指摘通り、ちょっとした暇があれば考えに沈んでしまうクレストに、話は聞こえていなかった。

思考を占める内容もまた、パトリアークの想定通りのもの。

どうすればいいだろう。

どうすれば、フィリアを人間の世界に帰してやれるだろう。

考えてはやめて、思いついては否定しての、ただ繰り返し。

蔵書の中で、人間社会に関する物をもう一度読み返しもしてみたが、それらは数世代以上も昔の物ばかりだ。

定期的に人の世界へ行かせているメイトリアーク達から、そのたび話を聞き、相談もしているが、有効な解決策は一向に見えてきてくれない。

ただ帰せば良いというのではないから、難しい。

傷の問題がある。住居の問題がある。追手から身を隠す問題がある。身の回りの世話の問題がある。

それらに対して、強大な能力を有する魔物はあまりに無力だった。


「あー、メイ!」


甲高い歓声が思考を打ち破る。


「お疲れ様です、真祖。フィリアとパトリアークも、休憩にしましょう」


搾りたてのフレッシュジュースを携えて現れたメイトリアークを見て、大喜びでフィリアが駆け戻ってくる。

といっても実際に労働らしき事をしているのはパトリアークのみであり、お疲れ様の労いが必要な相手は飲み物など必要としないのだから、これはフィリア専用である。受け取ったグラスに早速口を付けたフィリアを横目に、メイトリアークが無表情でクレストに告げた。


「ところで真祖、森に侵入者が現れました。

おそらくは人間で、付け加えるなら我々のトラップからこれまで全て逃げ切っています。ひとつは破壊されました」

「先に言ってくれよ!」


一気に目が覚めて、クレストはがばっと身を起こす。

彼にしては大仰な動作に、フィリアがジュース片手になになにと近寄ってくる。

大声にうろたえる様子も見せず、あくまで冷静に山高帽を直しながら、メイトリアークが更に言う。


「申し訳ありません、侵入者の情報などよりも、真祖はフィリアと甘ったるく過ごすひとときの方を優先されるかと思いまして」

「パトリアークは!」


いつもの揶揄する物言いに構わず、クレストがもう一人を呼ぶ。

唇に握り拳を当てて、ぶつぶつと呟きながらプールに思いを巡らせていたパトリアークが振り向く。集中力では全員の中でも群を抜いている彼だが、クレストの呼び掛けを無視するという事はないようだった。


「はい、気が付いておりました。壊されたのはわたくしの構成した防衛結界の方です。悲しいですね。小細工なりに細部は工夫を凝らしたというのに、ああも野蛮に砕かれては」


パトリアークはパトリアークで燕尾服の胸元をぐっと引き締めながら、本当に悲しそうに言った。彼にとっては、結界も作品の一部であったのか。その丁寧さと繊細さが仇になり、破壊されたとも考えられる。


「……また、誰か来たの?」


心細げなフィリアの声に、メイトリアークは黙って視線だけやってから、クレストを見る。


「少々、驚きです。前座程度とはいえ僕らの術を突破してみせるとは。知らない所で人の技術も向上しているのですね」

「敵はそれなりの手練を雇ったようです。あくまでも、それなりに過ぎませんが」


パトリアークも、クレストの元へ戻ってきた。

ふたりして現状を嘆き驚きながら、その声にも表情にも焦りは欠片も浮かんでいない。

パトリアークは小細工と呼んだ。メイトリアークは前座と呼んだ。

その言葉に嘘偽りはなく、種族のうちでも相当の強者であるふたりにとって、初めの術は小手調べ程度だからだ。とはいえ人間の手で破るのはまず無理だろうと踏んでいただけに、相手の実力を過小評価する訳にはいかない。

最初にメイトリアークが、続いてパトリアークが、眉間を寄せるクレストに向けて優雅に一礼した。


「それでは、雑務を片付けて参ります」

「真祖はこちらでお待ちを」

「待ってくれ」


珍しく強い語調で、クレストがふたりを引き止めた。


「俺が行くよ」


早口気味にそう告げた彼の瞳が、いつになく輝きが強いのに、また従者達は驚く。

怒っている訳ではない。怒りは感じられない。興奮が声にそのまま現れてしまったというのが正しいか。

だが、その興奮とは一体何に対して。


「ですが真祖」

「俺が行く」

「…………」

「俺は庭を整えられないし、料理も作れない。身の回りの世話ひとつ焼いてやれない。だから、俺にできるのはこのくらいしかないんだ」


それはひとつの理由であるが、全てではなかった。

従者達にも話さない理由が、もうひとつだけある。

守りを突破されたと聞いた時、電撃のように脳裏に閃いたひとつの思い付き。

何度得ようとしても得られなかった、喉元まで来ていた、掴みかけるたび散り散りになってしまっていた答え。

答えと呼ぶのもおこがましい、まさに思い付きに過ぎない、荒唐無稽な発想に過ぎない。

しかし考えてみれば、自分の存在そのものが、この世のどんなものより荒唐無稽なのだ。

だったら試しに、思い付きに賭けてみて悪い事はあるまい。


「――それに、少し話してみたい事があるんだ」


クレストは最後に少しだけ、手の内を明かす。

それは自分のような者にも忠実に付き従う従者達への、罪悪感が生んだ行動だったのかもしれない。だが付き合いの長い従者達だ、この隠し事も、クレストが伏せたなりに悟っているだろう。

主は侵入者に対し、何かをしでかす気だ、と。


「それでしたら、真祖御自らでなくては」

「どうかご無事で……と申し上げる必要はございませんね」


それ以上は、パトリアークとメイトリアークも止めようとしなかった。


「フィリア、退いてくれるかい?」


クレストが言うと、フィリアは素直にチェアの横から移動した。

長い脚が翻って、地面を踏む。緩慢な動作を、真の意味で制止できる者は世界のどこにも存在しない。


「クレスト……」


心配そうに、フィリアがクレストを見上げる。

その不死性を目の当たりにしても、尚。


「すぐに戻るから、待っていてね」

「……大丈夫?」

「何も心配いらないよ、俺は強いから。

侵入者に負けたりなんてしない」

「そうじゃなくて、ちゃんと帰ってこれる?」

「……そこまで心配しないでくれるかな……」


初対面の時に、ちゃんと案内して屋敷まで来ただろうに。

御世辞にも頼れる存在だとは自分でも思っていないが、一人で風呂に入れないのか疑われた件といい、どこまで見くびられているのかと思うと、彼もやや落ち込まないでもない。

フィリアが首を横に振った。


「ちがう、間違えた」

「え?」

「……クレスト、ちゃんと帰ってくる?」


帰ってこれると、帰ってくる。

僅かな違いでも、そこに込められた想いは大いに異なる。

クレストは微笑んだ。行ってくるよと言い残し、あとは振り返らずに、庭園の境界線たる森へと向かう。

その胸は温かく、足取りは軽い。


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