予兆 - 3
「プール?……って何だい」
「人間の用いる小規模な遊泳用施設です。
主に夏場、もしくはそれに準ずる気候の土地にて、涼を取る為に利用されます」
途端に、ひょこっとフィリアがマントから顔だけを出した。
前でマントの左右両側を合わせているので、まるでカーテンから顔を出す悪戯っ子のような光景だった。
「知ってるー!
あのね、あっためないお風呂だよ。手作りの池!」
「ああ、そのままですね」
「……うん、だいたいイメージできたかな」
「わたしの家にもあったよ。もう誰も使ってなかったけど」
そう語るフィリアは、少し残念そうにしていた。
境遇を考えれば、彼女の誕生するより先に、家はとっくにプール遊びどころではなくなっていたに違いない。当然、形ばかりを残し、雨降りの日に僅かな薄汚れた水が溜まる施設への思い出もない。
フィリアの言葉が、ぼうっとしていたクレストの心を揺らした。
以前の家にあった物で、一度も使えていないとしたら、用意してやれば喜ばせる事ができる。フィリアにとって、家は必ずしも楽しい思い出に満ちた場所ではなかったであろうが、本人の明るい表情を見ている限り、これが嫌な記憶を掘り返してしまう心配もなさそうだった。
だったら、プールを作ろう。
抽象的だった存在が、徐々にクレストの中で形を持ち始める。
が、先に確認しておかねばならない事がある。庭園の全てはパトリアークが管理しており、それはクレストの鈍い感覚からしても見事な仕事だと思えた。完璧な調和の元に管理された庭に、人工物を放り込むのは無粋と取られないだろうか。気を悪くしないだろうか。まずはそこを伺ってみなければと、クレストはフィリアごと身を起こし、パトリアークの姿を探した。
彼は、メイトリアークとは逆側に控えていた。主の視線に、黙礼で応じる。
「どうかな、パトリアーク」
クレストが聞くと、パトリアークは虚を突かれたようだった。
整った顔がきょとんとする様は、なかなかの見物である。
「何故、わたくしに尋ねられるのです?
ここは真祖の領土ですよ」
「え、いや、でも俺なんて何もしてないし、手間暇かけて庭を見てくれてるのは君じゃないか。これだけ整えられた庭に、いきなりプールなんて作ったら……その、悪いかな、ってさ……」
逆に聞き返されて、あなたの所有物だと念押しされた側がしどろもどろになっている。だが言わんとする所はパトリアークに伝わった。そういう事ですかと、ようやく主の発言に納得した顔になる。
それにしてもおかしな話である。パトリアークが驚くのも無理もなく、互いの立場を考えたら、クレストはただ決定して命令だけすれば良いのである。自分の庭を希望通りに作り変えるのに、いちいち従者に許可を求める主がどこにいるというのだ。パトリアークも、てっきりプールを作るよう命令が来るだろうと身構えていたのに、実際にきたのはプールを作っても宜しいでしょうかのお伺いだった為、咄嗟に反応できなかったのである。
慣れている従者でもこの有様なのだから、いかにクレストが主らしくない主であるかが判るというもの。もっとも、彼がああして欲しいこうして欲しいと、希望を述べる事自体がごくごく稀なのもあるが。
「細やかなお気遣い感謝致します、真祖。
プールを作ろうとすれば、確かに庭を一部壊す事になるでしょう。
ですがプールが完成したならば、それに調和する装飾がまた新たに生まれます。
絢爛豪華から退廃及び衰退まで、装飾に一切の不要な要素はありません」
「パトリアークとしては、むしろ喜ばしい決定であるかと。
あの顔は、早くもプールに合った光景について地上上空全角度から算段を巡らせ始めている顔です」
メイトリアークが補足する。パトリアークも頷いた。
となれば、クレストに異論はない。
「そうか……うん、じゃあ作ろうか。その、プール」
「やったあ、土木工事だね!」
相変わらずぴったり合わせたマントから顔だけ出したまま、フィリアが歓声をあげる。土木工事の何がそこまで嬉しいのかは不明だが、クレストはフィリアが喜んでくれた事しか頭になかった。
続けてフィリアが右手で挙手。ようやく、マントから顔以外の部分が出た。
「わたしも穴掘る!」
「では、フィリア様にもお手伝いをして頂きましょう。設計や調整はわたくしにお任せください。完璧なるプールを作り上げてご覧にいれます」
「僕の出番は一息つく時ですね。休憩時間のお茶とお菓子は、作業の疲れなど軽々と吹き飛んでいってしまう極上の品を」
「ええと……俺はどうしたら……」
「真祖は監督です」
「監督……」
「作業の全体を見守る役目です」
「要するに役に立たないから何もするなと……」
「大きなシャベルを抱えてプール作りに奮闘するフィリアを、じっくりと鑑賞可能な立ち位置です」
「……いや無理して言い換えなくていいから……それって慰めになってるの?」
「クレスト、がっかりしないでね」
「うん……」
そう言ってくれるのは嬉しいが、できれば、そんな事はないの一言が欲しかった気もする。
「クレストには、いいとこいっぱいあるよ!」
「フィリア……ありがとう……」
「すずしいもん!」
「…………」
「温度面」
「わざとやっていませんか? フィリア」
「なにが?」
今度はフィリアがきょとんとする番だった。
わざとでないとしたら尚更残酷だという事を、まだ幼すぎる少女は知る由もない。
すっかり曲がる所まで背中の曲がってしまったクレストと対照的に、フィリアは上機嫌そのもの。マントを手繰る手にも力が篭り、おかげでクレストの首と両肩は下にぐいぐい引っ張られていた。
「楽しみだなー、プール初めてだよ!」
「よかったね……」
「プールができたら、クレストも泳ごうね!」
大喜びのフィリアに、落ち込みから立ち直りかけていたクレストが硬直した。
丸まっていた背中がビシッと伸びる。聞き間違いかと見下ろせば、見上げてくるフィリアの顔は、至って真面目に言っている様子である。
「脱ぐのですか、真祖」
「脱ぐのですか、真祖」
「なんで二人一緒に言うの! 脱がないよ!」
「えっ、ぬがないでプール入るの?」
「そうじゃなくて、そもそも俺はプールに入らない……。
あとね、俺が泳げるほど大きなプールにはできないよ。フィリアの水浴び用だからね」
「できないの? パト」
「余裕で可能です」
「だって!」
「パトリアーク……」
腹芸が通じないのか、空気が読めないのか、馬鹿正直なだけなのか。澄まし顔を見ていると、結託して自分を陥れようとしているようにしか思えなくなってくる。
泳げと言われても、クレストは泳いだ事などなかった。泳げるのか泳げないのかも判らない。とりあえず、溺死だけは有り得ないだろうが。
しかしこの場合問題なのは、水泳の上手い下手ではなく、泳ぐという行為自体にある。己という存在と一切無縁な事をいきなりやれと求められれば、クレストに限らず誰でも驚くし混乱する。水泳だから大した事なく思えるだけで、物事の本質は、一般人がナイフを渡されて人を殺せと言われたのと同じだ。ましてや命じてきたのは、こういう事にかけては言い出したら譲らない面のあるフィリアである。
当然、何とかして回避する方向へ持っていかねばと、クレストは頭を絞る。
「そ、そうだよ、吸血鬼は水が苦手なんだ。確かそうだった。そうだっけ?」
「だっけと申されましても、僕に聞かないでください。あれは流水ではありませんでしたか?
外界に生息する吸血鬼がそうだとしても、真祖にまで弱点が適用されるのかは甚だ疑問ですね。弱点が存在するのなら、御身はそこまで生きる事に苦労していないでしょう」
「ねー、泳ごうよ、クレスト! きっと冷たくて気持ちいいよ!」
「俺は暑いのは平気だからさ……とにかく水に入る習慣はないんだよ、ごめんね」
「お風呂がお水になっただけだよ、怖くないよ。水には入らなくても、お風呂には入るでしょ」
「いや、風呂にも入らない……」
「えっ」
クレストにしてみれば、それはプールから逃れようとする中で何気なく口にした事実であった。だがフィリアは、えっと短く呟いたきり、あれ程しつこく泳ごうと言っていたのが嘘のように黙る。
様子がおかしい事に気付き、クレストもまた黙った。
しかし沈黙の理由が判らない。今の一連の会話で、特に不自然な事を話した覚えがないだけに。
ややあって、フィリアが再び同じ事を聞いてくる。彼の返す内容もまた同じである。事実なのだから、同じにしかなりようがない。
「入るでしょ?」
「入らないよ……その、外の吸血鬼は入るの?」
「さあ、やはり入らないかと。真祖とは違って本当に水に弱そうですから」
「うそだあ、全然入らないの? ちょっとぐらい入るでしょ?」
「全然入らない……」
「ずっと?」
「ずっと……」
「どのぐらい入ってないの!?」
「どのぐらいって…………どのぐらいだろう……?」
これは一体どうした事だ。自分はもしや、とんでもなくまずい事を喋っている最中なのではないか。
クレストはオロオロと、パトリアークとメイトリアークを交互に見る。
しかし、従者達とて風呂などに入らないのは彼と同じなので助け舟の出しようがなく、そもそもクレストが入浴していない期間を彼らは知らない。
屋敷には大浴場こそあっても、本格的に使われたのはフィリアが招き入れられてから。あとはせいぜいパトリアークが趣味で使った程度で、それとて日常的ではない。指で数えられる回数である。この中で最も風呂に馴染みがあるのはメイトリアークだが、この淫魔の場合は捕食時という状況が特殊すぎる。
ともかく、クレストの事だ。
彼は必死で考える。思い出せないだけで、あるいは一度くらい入っているのかもしれない。そう思い、もはや広大な白紙に穿たれた飛び飛びの点としてしか残っていない古代の記憶にまで遡って探してみたが、自分が風呂に入っている光景はその中には見当たらなかった。仮にあったとしても、古代な時点で論外である。
そうして出た結論。少なくとも、パトリアークとメイトリアークより遥かに長いのは確実に言える。カウントの単位は千年万年単位。そして非常に高確率で、彼の風呂に入っていない歴は世界誕生の歴史に等しい。
うんうん唸っていると、不意に体が軽くなる。
えっと思った時には、既にフィリアは彼のマントから抜け出して離れていた。
「フィ、フィリア……」
「ダメだよ、きたないよそれ!」
言葉が杭と化して、ものすごい勢いで胸に突き刺さった。
世にあるどのような罵倒文句よりも傷付く気がする。汚い、って。
心臓に杭を打たれて死ぬ時の、一般的な吸血鬼の痛みと気持ちが図らずもクレストには心から理解できた。
さすがに逃げ出すまではしないものの、さしずめ今のフィリアは毛を丸く逆立てた猫。これ以上の容赦無い一撃が繰り出される前に、そうなって立ち直れなくなる前に、彼は大慌てで弁解する。
「汚くない、汚くないから!
俺には君達みたいな代謝が無いんだ。正確には無いんじゃなくて、あるんだけど仕組みが違うというか……。
ええと、とにかく俺は汚れたりしないし、できない。決して汚かったりなんて……」
「クレスト、今からお風呂入ろう!
服もお洗濯してあげる!」
「え、えええ!!」
クレストはもう絶叫するよりなかった。
プールを避けたら風呂がきた。しかもプールもきっと避けられていない。
ちゃっかり未入浴の糾弾を免れたメイトリアークとパトリアークが、側で目を光らせる。
「これは思いがけない展開となりましたね、真祖。フィリアに背中を流してもらうのですか?」
「クレストが一人でプールにもお風呂にも入れないなら、そうするよ!」
「……俺は何なんだよ……ちょ、ちょっと引っ張らないでくれ、フィリア!」
「だーめ! ちゃんとお風呂に入らなくちゃ、みんなに嫌がられちゃうよ。
身だしなみは大切だよ!」
「だ、だからねフィリア、俺は汚れないんだってば!
ほら、服も靴も良く見てみてくれ。肌に垢が溜まったりもしてないだろ?
変な匂いだってしないよ、嗅いでみればわかるから、ほら!」
「真祖、フィリアへのその発言及び要求の方向性は若干救い難いかと」
「覚悟を決めて行ってらっしゃいませ、いろいろと大切なものを失う旅路へ」
「ごー!」
「救い難いって何が……ああやめてくれ、引っ張らないでくれー!」
叫べども、むんずと掴まれたマントの端は決して離される事はない。目的を達成するその時までは。いっそ水に入ったら死ぬ方が、クレストにとっては救われていたかもしれなかった。
屋敷へとずるずる引き摺られていく主を見送ってから、メイトリアークはタオルその他の準備をすべく去り、早速パトリアークはプール設置箇所の検討に移った。庭園との調和だけでなく、屋敷の窓、特に真祖の部屋から見下ろした際のロケーションも重要な点となってくる。となるとある程度場所も限定されてくる為、意外と設置までに時間はかからなそうであった。
そうでなくてはならない。暑さを凌ぐ為の施設が、暑さが和らいだ頃に完成するような無様は許されない。
忙しく頭を働かせ始めたパトリアークは、幸せそうに微笑すると、シルクハットのつばを摘み、クイと手前に引いた。
目の前で剥かれなければ問題はない。




