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君のいる世界  作者: 田鰻
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従者パトリアーク - 4

仕事があると告げてパトリアークが退席し、部屋にはクレストとフィリアだけが残った。

お洒落という名の飾り付けは大部分を外してもらったものの、まだ幾らかはそのままになっている。フィリアの気が済むまでこのままだとしたら、彼自身は構わないが、従者からは一言二言ありそうだった。

しかし、あんなに髪を弄られるとは思わなかった。それならもっと長くしておいた方が、よりフィリアも楽しめたかもしれないと思ってしまう辺り、彼も相当おかしな方向に甘い。

本気で伸ばそうと思えばその場で伸ばせた気もするのだが、それは控えておいた。

嵐の過ぎ去った自室で、新調されたソファに、クレストは背を丸めて座っている。

隣にはフィリアもいて、使い切れなかった指輪やアンクレット、リボン類を弄り回していた。女の子なんだなぁと、ぼんやりクレストは思う。


「あのね、クレスト」

「なんだい」


無邪気にアクセサリー弄りに興じていたフィリアの顔が曇った。何かまずい事をしたのかと、クレストは焦る。

だが聞いてみればそういう訳でもなく、例の、昨夜パトリアークが怖い夢を消してくれたのだという話であった。本人の口から語られた事で、ようやくその話題に触れるのを許されたような気になる。許す許さないの問題ではなく、昨日悪い夢を見たんだって?というのは、雑談の題材として適切とは言えまい。


「それは良かった。俺には、そういう事はできないからね」

「……楽しいからかな、って思っちゃうんだ」

「え?……どういう事?」

「メイがお料理作ってくれたり、パトがお洋服着せてくれたり、クレストが遊んでくれたり。わたし、とっても楽しいよ。でも、家のみんなは死んじゃったり、今だって大変なのに。

……なのに、わたしひとり楽しいから、その罰でね、こわい夢をみるのかも」


フィリアは浮かない顔をしている。

楽しかった時間が終わった事で、静けさの中、不意に現実が蘇ってきたのだろう。

怖い夢。この屋敷に来た当初はよく見ていたのだという。その度にパトリアークが処理をしてくれていた。近頃では落ち着きを見せていたと思っていたのだが、やはりそう短期間で拭い去れるような傷ではなかったらしい。

考えるまでもなく、当たり前の事だった。貧困と蔑みに苦しめられ、親しい人達を次々に奪われ、遂には自分までも売られ、その身体に一生消えぬ傷を刻まれた。たかがひと月やそこらで癒える訳がない。

その事に、傷付くという概念と切り離された存在であるクレストは実感が持てない。だから、つい忘れがちになる。後からそれを悔やんだとて、長すぎる時間が沁み込ませた習性は、これまた容易には覆せない。

少しずつ意識を変えていかなければ、いつか必ず、フィリアを決定的に傷付けるだろうという確信が彼にはあった。安らげる場所を与えてやりたいと望んだ少女に、これ以上の傷を与えるなど、幾ら彼が無気力であろうが御免だった。


「そんな風に考えたらいけないよ。

君みたいな子供が、楽しくて幸せな事が悪いだなんて、誰が思うものか」


これまでずっと辛い思いをしてきたのだから、取り返すくらいの気持ちで安らぎに浸っていい筈だ。自分はこんな事をしていていいのかと、9歳の子供が悩むような事があってはならない。


「まわりの人を忘れて、自分がよければいいって人は、神さまの罰をうけるんだって」

「神様はいないから、大丈夫だよ」

「もークレスト、だめだよそんなこと言ったら。怒られるよ?」

「ご、ごめん……」


怒られるよというか、怒られた。

本当なんだけどな、と、心の中だけで付け足す。


「……でもねフィリア。君がこうやって穏やかに暮らしているのを怒るような神様がいたら、それは悪い神様じゃないかって……俺は……思う…………んだけど……」


相変わらずフィリアが、めっと叱るような目で見上げてくるので、だんだんクレストの声が小さくなっていく。人間の作り出した宗教観に縁の無い彼には、事実とそれに基づく話しかできない。


「も、もしもね。もしもの話だよ、もしもの。

もし、フィリアのいう良い神様とは別に、そんな悪い神様がいて、楽しく暮らしてるフィリアを怒りにくるようなら、ええと……そうだ、俺がやっつけてあげるから」

「……やっつけるの?」

「……追い払うでもいいけど。

俺はパトリアークみたいに、怖い夢を見せなくしてあげたりはできないからね。

せめて、そのくらいはしてあげる。だから……その、楽しいのは悪い事だとか、そんな風に思っちゃ、駄目だ」

「……ありがと、クレスト。でも無理しないでね」


これでうまく励ませているのかと不安がりつつ喋っていたら、案の定、逆に心配される始末だった。

それでも、隣でじっと見上げてくるフィリアに弱々しく微笑んでみれば、笑顔が返ってくる。頼りなかろうとその場凌ぎであろうと、安堵が与えられたのならそれでいい。そうクレストは思った。フィリアもまた、小箱に装飾品を並べ直す作業に戻っている。次に使う気なのだろう。

だが、半分ほどまで詰め終えた頃になると、その手付きが覚束なくなり始めた。

小物を掴む動作が遅れ出す。掴もうとした物の数個隣に手をやっている。そして、緩慢さの合間に挟まれる欠伸。

幾らクレストが周囲の変化に鈍かろうと、こうも分かり易ければ気が付く。

もしかして眠い?と聞けば、目を擦りながらフィリアは頷いた。

悪夢を見かけていたという話だったから、それで寝付くのが遅れたせいと、パトリアークの言葉により、朝が楽しみで早起きをしたのとが重なってしまったせいか。


「昼前に、もう一眠りしたらどうかな。

ええと、メイトリアークを呼ぼうか?」

「……ううん、いい。ここで寝る」

「ええ? こ、ここで?」

「だめ?……ねむい」


子供の欲求は素直なうえ、傾き出すと早い。既にうとうと舟を漕ぎ始めているとあっては、断るのは無理だった。大概の大人であれば、そこをなだめすかして部屋まで戻らせるなり運ばせるなりの方法を心得ているものだが、クレストは、そうした最低限の器用さすらいまだ持ち合わせていない。オロオロしながら、何か上に掛けられるものをと探している間に、フィリアはこてんとソファに横たわってしまった。

どうしよう。

子供に目の前で寝られたという大層な事態に、彼は途方に暮れて立ち尽くした。

人間の子供が病気になるような気温ではないだろうが、それでも掛けるものがあった方がいいのでは。それよりもやはり説得して部屋に戻らせるべきだったのでは。しかしこの状態から揺り起こすというのも気の毒だ。

困っていると、ばさりと背後で音がした。振り返った彼の前に、椅子に被さったブランケットがある。


『どうぞお使いください、真祖。差し出がましい真似を、どうぞお許しください』


何処かからか、パトリアークの語りかける声が聞こえてくる。

おそらくは彼ら夢魔ナイトメアがその身を置く、夢の領界を介してであろう。

差し出がましい真似って何だと引っ掛かりつつも、ブランケットは助かるので受け取り、おそるおそるフィリアに掛ける。

ソファの上に丸まったフィリアはすっかり瞼を下ろしており、やがて微かな寝息まで立て始めた。確実に寝ている。

吸血鬼の前で無防備に眠りこけるとは、あまりそうした自覚が無いながら、クレストもやや複雑になった。とはいえ、こうまで心を許してくれているのが嬉しいのも確かで、結果としてやはりどうしていいか判らず、ぽつねんと所在なげにその場に突っ立ったまま、昏々と眠る少女を見守っていた。


『現在、フィリア様がどのような夢を見ようとしているのか、お伝え致しましょうか?』

「いや、いいよ……」


パトリアークの意図不明な申し出をクレストは断った。それを知って一体どうしろというのだ。

わざわざ伝えてくるという事は、その夢の内容が、クレストにとって何らかの反応を引き起こすものなのだろう。誰が聞いてやるものかと、半ば珍しい意地を発揮して、彼は拒んだ。知らされた内容とそれに対する反応によっては、まだ従者達から一言二言ありかねない。

この辺りで、いつまで棒立ちでいても仕方ないのに気付き、起こさないようそろそろとフィリアの隣に腰を下ろした。

自然に目覚めるまでは、こうしていようと思う。いろいろと忙しい従者達と異なり、彼にはやる事がある訳でもない。目が覚めた時に誰も傍にいなくなっていたのでは、この少女が可哀想だから。

自分には、不安や恐怖を拭い去る事はできない。フィリアにとって、この穏やかな時よ続けと、その眠りよ安らかなれと願う事しかできない。だからこそ、新たな不安や恐怖、寂しさを与える事はしたくなかった。


「……忘れてしまえとは言わない。忘れたくない事も、忘れてはいけない事も、人間にはあるんだろうからね。

でも、怖がるのはもうやめなよ。君を傷付ける者は、ここにはいないから……」


むにゃむにゃと兎が草を食むように、フィリアの小さな口が動いた。

誰かの名を呼んだ気もしたが、彼は聞き逃した振りをしていた。


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