始まりの吸血鬼 - 2
10年が過ぎても、100年が過ぎても、この屋敷と庭園は何も変わらない。
それを囲む黒い森も、森の陰鬱さなど知らぬ顔で気ままな表情を見せる、屋敷の上のぽっかりとあいた空も。
あまりに変化に乏しい為、自分達の存在などとうの昔に忘れ去られているんじゃないかという気が、男にはしてくる。世間が覚えていてくれたからといって、働きかけが無い以上、どうなるという物でもないのだが。
魔の山に広がる、吸血鬼が棲む呪いの森。
あぁあれね、と答えてくれる人間が、いまやどれだけ人間の世界にいるものか。
現実も、時が過ぎれば伝承になる。伝承も、いずれは噂話と変わらぬ位置まで落ちていく。
今日は、自室の掃除をした。
全身黒マントのひょろ高い男が、布を手に窓枠や椅子の足をせっせと拭いている光景は、滑稽なものだった。
吸血鬼という肩書きが似合っていなければ、屈んで拭き掃除をする姿も似合っていない。何がよく似合うかといえば、暗い顔をして無気力に机に突っ伏している姿だろう。
男の髪は程良い短さで切られていた。いつかの日以来、伸ばしていない。伸びるなと思ったら伸びなくなった。
「何をなさっておられるのです、真祖」
音もなく――という事はなく、普通に扉の開く音と共に、室内に一人の少女が入ってきた。
姿は、やはり16、7歳といった所か。青の燕尾服に身を包み、外見年齢にそぐわぬ取り澄ました態度、滲む職務への忠実さは、はっとする程もう一人の少年と共通していた。
しかし、よくよく見ればまるで違う。
まず、当然だが燕尾服の下の体の線は、女性そのものである。
髪の色は薄紫と、少年そっくりだが、こちらはロングヘアで、毛量の多いそれを頭の左右で縛ってある。また頭に乗っているのはシルクハットでなく、高さのない山高帽だった。色は青い。
カツカツと靴音を響かせて近寄ってくる少女に、男は立ち上がった。掃除中にも関わらず、握った布は綺麗だった。
「ああ、メイトリアーク。
部屋が汚れてるから……いや全然汚れてもいないんだけど、掃除を」
「それは清掃夫の仕事です」
「うちに清掃夫なんていないじゃないか」
「僕が」
メイトリアークと呼ばれた少女が、恭しく胸に手を当てる。
ふと、いつだったかもこんな会話をした事があったなと、彼は首を捻った。残念ながら思い出せない。
「それよりも、お食事の支度ができております」
「ありがとう、行くよ」
彼は素直に頷いた。
空腹感はない。食べたいという欲求も起こらない。食べなかったからといって死にはしない、というか死ねない。食事をしなければ生命を維持できない普通の生物とは、いや普通の吸血鬼とも彼は異なるのである。
彼は、これを儀式だと思っている。こうした日常的な些事まで省いてしまうと、本当にここには何もなくなる。
メイトリアークを背後に従えて、彼は一人で使うには広すぎる食堂に入った。
吸血鬼の食事といえば血である。巷に溢れる吸血鬼物語では、彼らが血を吸うシーンは、いわゆる最高の見せ場だ。故にこの食堂においても、てっきり人里から攫ってきた美女が怯えた表情で逃げ惑うのかと思いきや。
「……今日のこれは何?」
浅いスープ皿に、冷やされた血液が注がれていた。どう処理をしてあるのか、固まっていない。
中央には、ミントの葉が2枚ばかりあしらってある。これは飾りだ。
「ポタージュ風にしてみました」
「ふうん」
生返事をして、彼はスプーンを取ると啜った。若干どろりとくる舌触りがあるから、何か混ぜ物をしてあるのだろう。
特に気にせず、彼はてきぱきと片付けていく。不純物を摂取したからといって、どうこうなるような体ではない。唯一美味と思える血の味がまずはっきりと舌に走り、あとは何となくぼやけた感覚があるだけだ。
スープ皿一枚の食事は、あっという間に終わった。
「ごちそうさま」
「いいえ」
「これ、鶏の血が3割に牛の血が7割かな。鶏は生後2ヶ月、牛は1歳前後」
「御明察恐れ入ります。そこまでお判り頂けると、僕もお作りした甲斐があるというもの」
内容の割には熱意のない口調で、淡々とメイトリアークが頭を下げた。
彼は染みひとつないナプキンで口元を軽く拭い、席を立つ。
「……動物の血を吸う事を、屈辱だと思う吸血鬼も多いんだって?
気分が変わっていいと思うんだけどなあ、混ぜ方で味も変わるし。いい料理人がいないのかな、彼らには」
彼は一人で首を捻っていた。味云々ではなく、魔物のうちでも上位の部類に入る吸血鬼が、下等と見下している獣の血を吸うなど耐えられないという矜持の問題だという考えに、至る事はなかった。
試しに話を聞いてみようにも、吸血鬼の知り合いなど彼にはとっくにいない。
片付けに移るメイトリアークを置いて、彼は食堂を出た。
そういえば、鶏の肉はどうしたんだろう。
はたと足が止まった。
牛は交代で血を貰っているから死なないとして、鶏は耐えられず死んでしまっただろう。ここには肉を食べる者もいないし、やっぱり埋めたのかなあ、と考える。あとで聞いてみようか。
そんなどうでも良い事でも、つらつらと考えてみるのは気が紛れる。
まず新しい事を思いつくというのが、そうそう無い事なのだ。
昼前にのっそりと起きてきてみると、テーブルに本が一冊置いてあった。
「これは?」
「昨年の冬に出たばかりの冒険物語です。期待の新人だそうですよ」
「そうかあ。手に入れるの大変だったよね、ありがとう」
森に囲まれたこの土地では、人間の社会で流通している品を手に入れるのも結構な大事になる。
彼は椅子に腰掛けると、本当に久しぶりに手に取る本を大切そうに捲り始めた。
夜になって部屋に戻ってみると、テーブルに本が一冊置いてあった。
「これは?」
「春に出た評判の冒険物語です。
覚えておりませんか? 以前にデビュー作をお届け致しました。
大作家最後の作品、だそうです」
「そうか。もうそんなに時間が経っていたんだね」
彼は椅子に腰掛け本を手に取ると、暫くはページを捲ろうとせず、表紙をじっと眺めていた。
前の本はどこにしまっただろう。これの後で、久しぶりに読み返してみようか。
ああ、そうだ。そういえば久しぶりだったんだ。久しぶりという感覚を、ずいぶん長い間忘れていた気がする。