従者パトリアーク - 3
「クレストー」
すっかり聞き慣れた声と、ノックの音が聞こえたので、クレストは立ち上がって扉を開けた。
子犬が転がり込むという表現がぴったりの動きで、フィリアが部屋に入ってくる。この少女の身長では、まだ自分で扉を開けるのが大変である為、自然、開閉作業は館の主に委ねられる事となる。あまり続くのでいっそドアノブ自体外してしまおうかと言った事もあったが、それは従者に止められた。
「おはよう、クレスト」
「おはよう。早いね」
「えへへー」
「?」
朝から浮かれた調子のフィリアが、フードをぐっと前に引いて被る。
室内なのに、と、まずクレストはそう思った。しかし考えてみれば従者達も大きな帽子を頭に乗せているのだから、特に不思議がる事でもないのかと、次に思う。
何にせよ、機嫌が良いのは良い事だ。足元にくっ付いて見上げてくるフィリアを、クレストは無言のまま見下ろす。
「真祖」
「パトリアーク。おはよう」
「お早う御座います。ですがわたくしなどへの挨拶よりも、なさるべき事がお有りでしょう。
いけませんね、レディが髪型と服装を変えた時には、一言あって然るべきです」
「服……だったら、いつも取り替えてるじゃないか」
全く言いたい事が伝わっていない主に、新しく作りました、と仕方なくパトリアークが補足する。
「ああ、そうなんだ……」
「似合う?」
「うん、とても良く似合ってるよ」
「へへー、かわいい?」
「うん、かわいいかわいい」
膝を屈めて良く見ようとして、脇からの視線にクレストははっとした。
「あの、パトリアーク、これはね……」
「真祖にもお喜び頂き、光栄の至りです」
慇懃にパトリアークが頭を下げる。それで言い訳を封じられた。言い訳と思われていない事を願う。
フード越しに頭を軽く撫でるだけしてから、クレストは立ち上がった。
その際パトリアークから、勝手ながら夢の処置をさせて頂きましたと、聞こえるか聞こえないかの声で囁かれて、ようやく彼にも完全に状況が飲み込めた。暗い夢に沈んでいたフィリアの気分を盛り上げる為、新しい服を作ってくれたのだろう。
目線で感謝を告げる。無論、従者の機転を咎める理由など一切ない。
逆に、こうした行為に対して報酬らしい報酬が全く出せない事を、申し訳ないとさえ思う。
気にしなくていいと、口にする度にそう返されてきたが。
「ね、クレスト。みんなは、ちがう服に着替えたりしないの?」
上着の裾を広げてくるくると回っていたフィリアだったが、ふとステップを止めて聞いてきた。
問われたクレストとパトリアークが、揃って顔を見合わせる。半ば着せ替え人形に使われているフィリアと異なり、彼らの衣服は毎日変わらない。フィリアが首を傾げるのはもっともな話だった。
パトリアークの事を言えば、まずこれは従者として決めた制服のような物だから、特に変える必要がない。
何より厳密に言えば服であって服ではない、この仮初の世界の物体ではないので、庭園や屋敷に比べると今ひとつやる気が落ちるというだけである。せいぜいシルクハットの位置を変えたり、小物でアクセントを付ける日がある程度だった。クレストについては言わずもがなである。
「メイとパトのは明るくっておしゃれでかっこいいけど、クレストなんていつも真っ黒だもん」
「そ、そう……」
心なしかしょげたように、クレストの猫背がより丸くなる。
子供の評価には容赦というものがない。
「ね、ね、クレストもおしゃれしようよ、パトに手伝ってもらって!」
マントを引っ張りながらのこれには、反応に乏しいクレストもぎょっとして身を引いた。
話を振られたパトリアークがまじまじと、フィリアとクレストを交互に見やる。
「……真祖を飾り付けるという発想は、不覚ながらわたくしにはありませんでした」
子供とは、評価に容赦がないうえに恐ろしい事をさらりと口にする。
手伝えと言われても、どう飾ればいいのかが判らない。凝縮された世界を装飾するのは彼の手に余る。
「じゃあ、わたしがやってあげる!」
「じゃ、じゃあって何が?
その、俺はそういうのはいいよ、必要があるとも似合うとも思えないし……」
「いーから、ここ! 座って!
わたしだって髪ぐらい編めるよ。家でやってたの」
身辺が落ち着きだしてから顕著になったが、どうも一旦勢い付くとこの少女は止まらない癖がある。編む必要がある長さの髪でもないだろうという現実を置き去りにして、編みたい弄りたいという希望が優先する。
マントを引っ張られるまま為す術なくソファの方へ引き摺られていくクレストに、パトリアークが言った。
「宜しければ真祖、フィリア様のご希望に沿う品々を、こちらまでお持ち致しますが」
「……そうだね、よろしく頼むよ」
とうに抵抗を諦めていたクレストは、窓から差し込む眩しい朝の光と正反対の情けない顔で、そう従者に任せた。
泣く子と何とかには勝てない。加えてクレストの場合は徹底してフィリアに甘く、むしろ泣かれるのを待っているようなところが若干ある。かといって、この展開を彼が歓迎しているとは考え難いが。
ともあれ、我侭も程度と内容によっては愛嬌になるのだろう。
メイトリアークほど感情の性質に詳しい訳ではないパトリアークにも、簡単な事なら察しがつく。
主の命運を祈りつつ、彼は幾つもの小箱をクレストの部屋に運び込んだ。
服は一着もなく、各種の装飾品のみである。丸ごと着替えさせたかったらしいフィリアはやや不満顔だったが、判っていて意図的に持って来なかったのだ。目の前で真祖が剥かれ始めたらさすがに止めなければならず、第一あの黒服の下に肉体が存在しているのかどうかが疑わしい。
危ないものには触れない、触れさせないのが最善なのである。かつての自分は、それで手痛い目に遭った。
「メイとおそろいー!」
「………………」
両手の指全部に指輪を嵌められたと思ったら、短いが量はある黒髪を、メイトリアークと同じ形に縛られている。
さっそくオモチャにされている光景を見るに、あまり真面目にお洒落とやらをさせる気があるようには思えないが、途中で目的がずれるのはままある事だと、パトリアークは深く考えなかった。
フィリアに手鏡を渡され、そこに映る自分の顔への反応を求められて困惑しているクレストを見ながら、初めて、主と会った日の事を彼は思う。
夢に踏み込んだ彼が見たのは、底無しの泥沼だった。
大地はある。だが踏み締められない。踏み出せない。入り込んだが最後、足を取られ、藻掻くまま只飲まれるのみ。広がる無限の泥沼。足掻けども叫べども音は虚空に消え、恐ろしく静かな世界に、生まれて初めて恐怖を感じた。
異変に気付いたクレストが目覚めていなければ、為す術なくあのまま夢に取り込まれていた筈である。
夢を喰らう夢魔が、夢に喰われかけて夢を恐れるとは、ひどいお笑い種だ。
夢とは心を映すもの。
この少女の心が、いずれ主の心に食い込み、変異を及ぼすのであれば。
あるいはあの底知れぬ沼にも、この四肢と蹄にて踏み締められる大地が築かれる日が来るのかもしれない。
その時、そこに芽吹いた草原の色は、果たして何色をしているのだろうか。