従者パトリアーク - 2
昼と夜だけは、外界から隔絶されたようなこの洋館にも変わらず訪れる。
パトリアークは真鍮製のカンテラを手に、深夜の屋敷内を見回りの為に歩いていた。不思議なもので、生物の気配に極めて乏しいこの洋館内でさえ、昼よりも夜の方が静けさが増す印象を受ける。
魔である彼をしても、である。
だからこそ夜とは夜であり、その静寂に惹きつけられる者も、そこに生命を授かる者も現れる。
彼は立ち止まり、火力を調整する。明かりが無くとも暗闇を行くのに支障はないが、こういう小物は大切なのである。カンテラ自体も多種に渡りストックしてある。大きな物、簡易な物、素材に凝った物、装飾を工夫した物。それでこその遊びだ。
廊下には等間隔で燭台が据え付けられているが、それでも暗かった。フィリアが来てからは少し数を増やしたとはいえ、まだ少し人間の目には暗いかもしれない。しかし過剰に明るくしてしまうと雰囲気が壊れるから、加減が難しい。
気分転換で一度くらいは、真昼のように明るくしてみても面白いと思っている。無論、単に明るくするだけでは芸がないから、何かしらの催しと組み合わせて考える必要があるだろう。
洋館には魔が住まう。だが光に悩む魔はここにはいない。飾り付けに制限が課せられない事にも、彼は満足していた。
見回りも終わろうかという時、最後に立ち寄った区画でパトリアークは足を止めた。
そこは誰であろうフィリアの部屋がある区画で、まさにその扉の隙間から細く明かりが廊下に漏れ出ている。彼は素早く現在の時刻に当たりを付ける。認識は誤っていない。とうに眠っているべき刻限だった。
扉の前まで行き、内部の気配を窺う。間違いない、起きている。灯りの消し忘れではない。
驚かせないよう、ノックを二度、ゆっくりめにかつ大きく打つ。
「フィリア様」
名を呼び、慎重にもう一度、同じ動作を繰り返す。
一度目はこちらを向く気配があっただけだったが、今度は返事があった。失礼しますと告げてから、扉を開ける。
フィリアは、ベッドの上で身体を起こしていた。大きな両の瞳は、どことなく虚ろに見える。
「パト……」
フィリアは、パトリアークの名を縮めてパトと呼ぶ。もうひとりの従者は、メイと呼ばれている。愛称もひとつの立派な装飾である。故にそう呼ばれる事を、彼は好ましく思っていた。よもや装飾する側の自分が装飾される日が来ようとは。これだから仮初の世界は予想がつかず、そして好きなのだ。
「お召し物が少々乱れておいでです、フィリア様」
一礼をしてから、パトリアークはカンテラを消し去り、フィリアの元へと歩み寄る。
寝相が原因ではない。眠ろうとして一旦はベッドに潜ったが、寝付けず、起きたままでいたといったところだろう。
では、少女に安らかなる睡眠を許さなかったその原因とは何か。
考えるまでもない。それは彼が、何度もこうした事態を経験済みであるからだ。
「また、怖い夢を見たのですか?」
「ん……まだ、見てないよ。
見てないけど、見そうだなって時は、なんとなくわかるの」
「それで、怖くなって眠れずにいたと?」
パトリアークは夢魔であるが、四六時中夢を見張っている訳ではない。特に、こちらの世界にいる間は、見慣れた夢などよりも興味を引くものが多すぎる。故郷から大きな街に出てきて、目移りしているようなものだ。余程の巨大な変異でもあれば即座に気取るが、少女の夢は、言ってしまえば人間の子供ひとりが見る範囲の、ごく些細な波動に過ぎない。
また、夢を見るのは何も人に限らない。草木も、森も、石も、そこに暮らす雑多な生物達も、意識しないままに、心を持たないままに、だが確かに夢を見ている。そこには穏やかに月光に照らされる夢もあれば、天敵に襲われ今まさに食われゆく苦痛に満ちた夢もある。常にそれらに囲まれているのだから、尚更、自然に発生する悪夢を自発的に悟る機会は少なくなる。
とはいえ知ってしまった以上、このままにしておく事はできまい。
本来ならば先に主に許可を求めるのが正規の手順だが、何でも手続きを踏めば正しいという訳ではないと、彼は心得ていた。直ちに優先順位を切り替え、フィリアを安心させるよう、彼は端正な顔に優しい笑みを浮かべる。
「フィリア様。宜しければ、わたくしにお任せを」
「……うん、お願い。ごめんねパト」
「とんでもありません」
こうした対処をするのは初めてではないだけあって、申し出はスムーズに運んだ。
実績が信頼を生むのだと、メイトリアークなどは度々口にする。
ではこれはフィリアから自分への信頼という事になるのだろうか。そう考えれば、なかなかに珍しい。
恭しく礼をすると、パトリアークはおもむろに右手を掲げ、フィリアの顔へと近付けた。フィリアが目を閉じる。その指先が額に触れた瞬間、彼の姿はさっと室内から掻き消えてしまった。
夢の領界に、パトリアークはいた。
剪定の対象が完全に目覚めている場合、そこには上下左右、何もない空間が広がっているだけだ。しかし僅かなりとも夢が形成されかけている場合は、踏み締められる大地が足元に広がる。
彼は優美な四肢でそこに降り立った。ぼうと燐光を帯びた眼を光らせ、周囲を見渡す。
これが、フィリアの夢。
思った通りだった、濁った黒い大地に、赤い草が芽吹きつつある。
半覚醒状態とあってまだ育ちきっていないが、夢魔である彼の眼には、明確にその属性が読み取れていた。
恐怖。時に肉体に痛みすらも与える不安の形。普段心の奥底に押し込められている感情が、土を割って出てきている。
彼は短く嘶くと、おもむろに首を下げ、赤い草を噛み千切り始めた。
喰らうに値しない小さな芽を、堅い蹄が踏み潰し、すり潰す。
夢魔ナイトメア。吸血鬼クレストが従者パトリアーク。
本来の姿である漆黒の馬となった彼は、蒼炎纏う鬣と尾を揺らめかせ、黙々と悪夢の芽を刈り取っていった。
もう結構ですよと告げられ、フィリアは目を開ける。
そこには、いつもと変わらぬ格好でベッドサイドに立つパトリアークがいた。
「終わりました、もう心配はいりません」
「ほんとう? あ、でもすっきりした感じ。
パトは嘘つかないもんね」
「はい、勿論です。どうしてわたくしがフィリア様に嘘などつきましょう。
これで今晩は、良く眠れますよ」
根まで喰らっておいたから、悪夢の芽生える余地はない。
確信は自然と声にも態度にも滲む。パトリアークが告げた保証に、フィリアの顔にほっとしたものが広がった。余程、怖かったのだと分かる。快活な面ばかりが目立つ少女だが、相当無理をしている面も多々あるのだろう。
悪夢を消し、見ないようにはできる。だが、悪夢を見た、見かけていた記憶まで消した訳ではない。そういう夢を見そうだと予期してしまった時点で、嫌でも忌まわしい記憶は蘇る。残る。寝て起きれば幾らかは薄れるとしても、翌日の気分は普段より少し重くなる。
それも単純に気の毒であるし、この少女が落ち込んでいると主の精神状態にも関わりかねない為、何か手を打ってあげたいところであった。殊にその残った僅かな不安を、これ以上心配はさせたくないと、表に出さない振りをしているような者に対しては。
「おやすみ、パト」
「おやすみなさいませ。
ああそうですフィリア様、朝を楽しみにしていてください」
「えっ、なに? 朝、何かあるの?」
「秘密です」
それだけ言うと、きょとんとしているフィリアを置いて、パトリアークは部屋を出た。
主の客を持て成す態度としてはどうかと思うが、不安に押し勝つには期待を持たせるのが非常に有効な手段だ。その為には、答えは不明瞭なくらいが適している。きっと真祖も許してくださるだろう。
再びカンテラは取り出さず、彼は急ぎ足で支度に取り掛かった。
音も立てず、空気すら動かさず、吐息すら漏らさず。
並の人間などより遥かに人がましい彼もまた、間違いなく魔に属するものであるのだ。
さてその結果、何が起きたのかというと。
「……ふう、思わず徹夜をしてしまいました」
朝になり目覚めたフィリアは、壁という壁にパトリアーク新作の服がずらりと掛かっているのを見て、目を丸くした。