従者メイトリアーク - 4
「やはり、味は判りませんか?」
「うん」
苦笑いしつつもどことなくしょげた様子のクレストに、本当に甘いですねと溜息をつきながら、実際のところはメイトリアークも、これら食物についての味覚は判然としない。ずっと昔に皆で比較してみた時の経験によると、主よりは強く感じ取れるのではないかと思っているが、当時は人間という正確な判断基準無しで行ったのだから、それも怪しいものだった。
クレストが唯一はっきりと味わえるのが血液であるように、メイトリアークにとって唯一味の優劣を意識できるのは、人間の精気のみである。男であれば尚良い。
魔性のものの味覚は人のそれとは異なり、こうした一点のみに特化している事も珍しくはなかった。
「血のソースでもお作り致しましょうか」
「いや、いいよ。香りは分かるし、せっかくあの子が作ってくれたものを汚すみたいじゃないか」
「相手を持ち上げるあまり、自分の食物を汚れていると言い出すようになったら終わりですよ、真祖」
その香りとて血液以外のものを快いと感じる事はないのでしょう、とメイトリアークは付け足す。
「いずれ、フィリアも本当の事を知ります。
今は疑問に感じずとも、成長していくうち嫌でも気が付きますよ、おかしいと」
「……それでも、頑張って作ってくれた物を、味が判らないんだなんて言ってがっかりさせたくはないよ」
「そうですね、それで正解です。僕も、そう判断して事前に教えなかった訳ですから。フィリアもとても喜んでいましたしね、好きとまで言われて」
ぐむ、とクレストは飲み込みかけていたケーキを詰まらせた。
つっかえた喉を、紅茶で洗い流す。
ケーキを食べる、喉に詰まらせる、息が出来なくなる、茶を飲む。どれも彼にとっては意味を持たない行為だ。
「真剣に動揺なさらないでください」
「君の言い方……声音がいちいち妙な方に持っていこうとするからだろう……」
「良いではありませんか、真祖もあの子の事は好きなのでしょう。両想いですよ、おめでとうございます。これだけ長くお仕えしながら、真祖がここまで何かに執着するのを初めて目の当たりにしました」
「執着って……そりゃかわいいとは思ってるけど、俺は守ってやりたいだけだって何度言えば分かってくれるんだ」
ティーカップを置いて、クレストが情けない声で反論する。
それには答えず、メイトリアークは食べかけのケーキにちらと視線をやった。
「血のソース……フィリアの血であれば、汚れたとは仰いませんか?」
「馬鹿な事を考えないでくれ」
クレストの声から弱々しさが消えた。
といっても慣れていなければ聞き逃してしまう程、ほんの僅かにだが。
「ですがご想像はなさいましたね、刹那で。
それが出されたところから、それを口にし、舌に広がる味わいまでも。
変わりましたよ、眼の色。瞬時に打ち消されたようですが」
「………………」
「真祖、やはり貴方は吸血鬼でいらっしゃいます。安心しましたよ、何せ吸血鬼らしい所を初めて見たもので。僕もいいかげん血が主食なだけの病人かと疑いかけておりました、これで60回目程は」
「……もう一度言っておくけど。というか、もう二度とは言わないよ。
俺は、あの子が負った心の傷を少しでも癒せる場所を与えてやりたい。笑えるようにしてやりたい。そしていつかは人の世界で、人として幸せに暮らしていける居場所を見付けてやりたい。それだけなんだよ」
決して荒げられない声にも、冴えない表情にも、どこまでも迫力というものが欠如している。
だが目はメイトリアークを見据え、口調は断定的であった。もう二度とは言わない、ある意味で最後通告とも受け取れるそれを告げるクレストの姿勢は、普段の俯き加減の喋り方とは違っている。
この程度の明瞭な意思でさえ、彼が従者に対して示す事は珍しい。
「真祖のお言葉に嘘があるとは思いません。フィリアから真祖への感情も身内に対するそれでしょう、今は。必ずしも、いつまでもそれで済まされるとは限りませんが」
「だから……何が言いたいの」
「今は真実幼く純粋無垢であっても、一歩進めて一皮剥けば、あれも女だという事です」
「どうしてそう言い方がいちいち生々しくなるかな……」
あの無邪気な少女と、一種淫猥な響きをも伴う、女。あまりに結びつかない言葉だ。さすがにげんなりしてきたクレストを前に、メイトリアークは山高帽を手前に引いた。
「重ね重ね失礼を。以前にも申し上げましたが、悪気はないのです。
僕は淫魔であり、糧となる人間に対しては、そういう面についてばかり敏感になってしまう習性ですから」
「それは知ってるし妨げようとは思わないよ。でも、何もあんな小さい子にまでさ……」
「ですがその習性故に、餌である人の、性の面については誰よりも良く知っています。真祖、貴方が餌である人の、血の事を誰よりも良く知るように。
逆に言えば、僕は人の持つ性の面しか知りません。真祖、貴方もまた、肉の間を流れる血の事しか知らないように。
どんなに小さな人間にも血は流れています。どんなに小さな人間でも夢は見ます。
そしてどんなに小さな人間であろうと、男か女なのですよ」
クレスト、パトリアーク、メイトリアーク。
吸血鬼と夢魔と淫魔。屋敷に住まう三者の魔物それぞれに準えて、メイトリアークが語る。
「フィリアの世話をしているのは僕とパトリアークですが、純粋に慈しんでいるという点では、遥かに真祖の方が上でしょうね。僕は、人間という生き物の性愛方面の生理を知り過ぎていて、そちらから見るのが癖になってしまっている。
真祖がお持ちであられる、倫理観からの否定も僕にはありません。まさかあの子が、などと驚く事もありません。そんな事は世のどこででも腐るほど起きていて、腐るほど起こり得る事だと知っていますから。
まあ僕も血など飲もうとは思いませんので、この習性についてはお互い様でしょう」
「俺にそんなつもりは無い」
「ですから今の話ではなく、未来の話をしております。
そして真祖、貴方のお話ではなく、フィリアの話をしております」
「………………」
「あれは物でも愛玩動物でもありません、紛れもない人間ですよ」
図星を突かれたように、クレストは黙り込んだ。
散々自ら、フィリアは人間だから、人間としての居場所を、と口にしていた者が、黙ってしまったのだ。
それは何を意味しているのか。人間。それを言葉としては口にできても、理解できていたのは、誰より人と直に深く関わってきた魔であるメイトリアークだけだったのではないか。
「こちらが神聖視していても、人は勝手に成長していくものです。
そうなる前に手放すか、手折るか喰らうかご決断を。
ゆめ、いつまでも子供のままでいてくれるなどと思い込まれませんように。
その時がきて狼狽し、幻滅するのは真祖であり、傷ついた挙句に、居場所を見つけてもらえるどころか、もういいやと捨てられるのはフィリアですよ」
「俺はあの子を捨てたりしない。……たとえ俺はこんなでも、預かると決めたからには最後まで責務を果たすよ」
「血の味は人を壊しません。唯見る夢が人を壊す事もありません。
ですが情愛と性愛は、己が内にての扱い方を誤れば、容易に人を壊し尽くすもの。
故にそこを生きる僕は、嫌でも敏感にならざるを得ないのです、真祖。
――貴方にもフィリアにも、不幸な結末など辿って欲しくはありませんので」
もうわかったよ、ぐらい言ってくるかと思ったが、とうとうそれもなくなった。
喋る気力も失せたのか、クレストはもそもそとケーキを食べ続けている。
その無言と無視がせめてもの反抗心という訳か。
まあ仕方がないとメイトリアークは思った。自分が淫魔だからこそ、こういう考え方に行き着いてしまうだけで、主にもパトリアークにも共感するのは難しい感覚であろう。
だが、現実だ。
こと人間という生物の各成長段階における肉体と精神の変化に関して、自分達淫魔は誰よりも熟知しているという自負がある。それは肉体しか糧としないクレストにも、精神しか糧としないパトリアークにも到達し得ぬ、天性の勘に近いものだ。
今はいい。お互いに、死んだ心と傷付いた心を通わせて癒し合っていればいい。
だが数年先からの事を考えると頭が痛い。この頃とみに感じる、胃に穴が開きそうという感覚はこれに違いなかった。
理想としては、それまでに外の世界で受け入れ先が見付かる事だが、さて。
(僕が頑張るしかないのかな、どういう方面に転んでも対処ができるように。
取り越し苦労に終わってくれるのが一番なんだけど)
メイトリアークはクレストを見た。
うまくもなさそうに、とうとう5つ目のケーキを皿に乗せている。幾つ食う気だよと彼女は思った。幾つ食べようと腹に溜まりはしないとはいえ、この分だと夕食時までに本当に全部食べ終えてしまいそうである。
それはそれでフィリアは喜ぶだろう。その時に、少しは真祖の気分も持ち直してくれればいいのだが。下まで落としたのは彼女自身だとはいえ、主と人間の少女を案じる気持ちは決して偽物ではないのだ。
コトリという音に、彼女は我に返った。ほんの僅か考えに沈んでいた丁度その合間に、主がフォークを置いたらしい。殺されても不思議のない無礼を述べた従者を、別段気色ばむでもなく、いつもの垂れ気味なくたびれた目で見ている。
「……俺も初めて、君の淫魔らしい所を見たよ」
そうでしたかと彼女は答える。
言われてみれば、そんな気もした。