従者メイトリアーク - 2
洋館西部にある厨房は、規模も備品も立派なものであった。
どうせ主は屋敷内の設備などに口出しはしないからと、かなり好き勝手にやらせてもらっている。
こうした仕事はパトリアークが全て受け持っているのだが、厨房のようにメイトリアークの担当にも関わる部分では、彼女が意見を求められたり、担当する事もままある。
「どんなのを作るの?」
初めて足を踏み入れた聖域に緊張気味ながら、整然と並べられた調理器具を、興味津々でフィリアは眺める。大量の器具はどれも錆ひとつ無く手入れが行き届いており、いつでも出撃できるよう準備を整えていた。
無論、メイトリアークはそれら全部の位置と用途を把握している。
とはいえ対象はクレスト1人。個々が活躍できる機会はこれまで滅多に訪れなかったのだが、フィリアが来てからは料理をする回数が増えた事もあり、世間並みに使ってもらえる器具も多くなっていた。
そう思ってみれば、冷たい鋼鉄の肌にも心なしか張りが出てきたように感じる。
幾ら磨き抜こうと、使われない為に傷む道具も多いのだ。
「初めてですから、簡単に作れる物にしておきましょう。
庭園で採れたリンゴを使ったケーキです」
説明しながら、メイトリアークはてきぱきと必要な品物を調理台に並べていく。
途中で、フィリアの身長では見えない事に気が付き、足場となりそうな箱を探してきた。
「リンゴの皮剥きは僕がやりますから、フィリアには生地をお願いします。
この粉に、この卵と、そこのカップでミルクをここまで汲んで入れて、このヘラを使って良く捏ねてください」
ふむふむと聞き入っていたフィリアは、自分の前にずらりと並べられた器具を見て、にわかに引き締まった顔付きになる。では頑張ってくださいと告げ、籠に積まれたリンゴの方へ向かったメイトリアークに、やたら力強く任せてと答え、フィリアはさっそく与えられた作業に取り掛かった。
子供1人でも可能なだけあって、極めて単純な作業である。やや白身を外にこぼしながらも卵を割り入れ、言われた通りの位置までカップでミルクを汲み、材料が全部入ったらヘラで掻き回し始める。粉を中央に寄せるようにしていき、ある程度溜まったら底からひっくり返すようにし……と、暫し無言で作業に熱中していたフィリアだったが、ふとその手が止まった。
どうもおかしい。全体に生地がパサパサ乾いたままで、一向にまとまってくれないのである。
明らかに、水の量が足りていないように思えた。ちらりとメイトリアークの方を伺えば、こちらに背を向けてリンゴを向いている。それは子供の目にも細かい作業で、邪魔をするのは憚られた。
ミルク、もうちょっと入れた方がいいんじゃないかなあと、ここでフィリアは初心者がやりがちな失敗に陥った。
ひとつ、料理中に疑問が生じても何故か聞かない。
ふたつ、分からない部分に何故か独自のアレンジを加える。
フィリアはカップを取ると、ミルクを最初の半分程の量すくって投入した。
再び混ぜる、が――。
(あ、あれっ?)
どうしてなのか、今度は逆にベシャベシャとしてきた。
どうしてもこうしても起こるべくして起こった結果なのであるが、それはそれとしてとりあえず、焦る。
フィリアは周囲を見回した。幸いにもというか不幸にもというか、ボウルに取り分ける前の粉もすぐそこにあった。ミルクをちょっと入れすぎてしまったみたいだから、粉をちょっと入れれば戻るだろう。
少女の中では理路整然とした手順に基き、またしても新たな悲劇は投入された。
今度こそうまくいった筈だと、はじめより2割ほどカサの増した生地を、混ぜる、混ぜる、混ぜる。すると不思議な事に、生地は明らかに水分が足りていない様子で、バサバサと粉を舞わせて崩れ始めるのであった。
フィリアは手を止めて少考する。何か、今まで感じた事があるのとは明らかに違ったタイプの冷や汗が背筋を伝っていく気がした。どう見ても水が多すぎる。だったら、とフィリアは粉の袋に手を伸ばし――。
「どうです、できまし――」
自分の作業を終えて振り向いたメイトリアークは、言葉を失った。
そこにあったのは、ボウルからはみ出すゴワゴワした生地の塊と、それを前にあうあうと右往左往している少女。
「ごごご、ごめんなさあい!」
途中から引っ込みがつかなくなっていたというか、既に助けを求めようにも求められない心境だったのだろう。
フィリアの慌てぶりに、メイトリアークは我を取り戻す。
「……いえ、事情を聞かずとも何が起きたのかは理解しました。
ありがちな失敗ですよ。僕もよくやったものです」
静かにそう言うと、一応、フィリアは安心したようだった。
フィリアを慰める為に出任せを口にした訳ではなく、過去本当にやらかしたのである。メイトリアークは生地に指で触れて固さを確かめ、多すぎる分を別のボウルに移してから、残った物にミルクを足す。結果、更に量は増したが、固さは丁度いい具合になった。忘れるところであった卵も追加しておく。
修正は無事に済んだというのに、フィリアはがっかりしたままであった。無理もない。作業台の上にぺたんと上半身をうつ伏せて、あーあと呟く。
真祖みたいだからやめた方がいいですよとは、さすがに彼女も口に出せない。
「わたしも、メイみたいにうまくできたらなー……」
「万能とは特権なのです、フィリア。
どんな事でも初めから上手に出来る者など、滅多におりません」
フィリアが上半身を起こした。
「メイもはじめは、お料理ができなかったの?」
「はい。真祖にお仕えする前は、料理は全くの未経験でした。
お仕えするようになってからも、長い間、料理という行為など考え付きもしませんでしたから、いざやろうと決めた当初は失敗ばかりで、非常に苦労したものです」
「そうなんだ。ここに来る前は何をしてたの?」
「…………それは、まぁ……」
メイトリアークは言葉を濁した。
率直に言えば、淫魔をしていましたという事になる。過去の話ではなく、今もしている。
この件に関しては自分の判断を超えているので、教えて良いものかどうかは真祖の判断を仰いでからにしようと彼女は決めた。しかし限りなくゼロに近い確率で許可が下りたとしても、意味が通じるかどうかは甚だ疑問である。ひとまず今は、生地に混ぜるリンゴをすり下ろしてもらう方が健全というものだろう。
次なる作業にせっせと勤しんでいるフィリアを横目で見つつ、彼女は焼き上げの準備に移る。
器具を並べるのと同時に、できたよと報告があった。すりおろしたリンゴを更に生地に混ぜる。これの為に、全体に固めの仕上げにしておいたのだ。
おろしリンゴの投入でやや緩さの出た生地を、並べた金属の容器に流し込んでいく。これはフィリアが行った。大さじで少しずつ移していく姿が微笑ましい。
「できましたね。
あとはこの台の上に並べて、決められた時間通りに焼けば完成です」
「石でできてるんだね、これ」
ちょいちょいと、小さな指で台を撫でているフィリアは、見るもの全てが珍しくてならないようだった。
魔物の特権として、一瞬で適した具合に火を起こした巨大オーブンに、容器を並べた台を差し込み、鉄の蓋を閉じる。これはフィリアは見ているだけだったが、蓋がガシャリと閉じられた時、大仕事を終えたようにふうと息を吐いた。
しかし気が抜けた事でひとつ思い出したらしく、フィリアの袖を引きながら言う。
「ねえ、メイ。
クレストって吸血鬼だよね。このケーキ食べられるの?」
「そこに気付くとは慧眼です、フィリア。
事前に気が付けば完璧でしたが、全てが終わっても気付かない者も多い中、たとえ遅れてでも気付いたという事が重要なのです」
「えと……それって食べられないっていうこと?」
「いいえ、一切問題ありません。
真祖は吸血鬼でありながら、並大抵の吸血鬼とは異なる存在ですので、ケーキであろうとサラダであろうと食べられますよ」
「そっかー、良かった!
お腹こわしたりしたら、どうしようかと思っちゃった」
腹を壊した真祖か。絵面としては良く似合いそうだが、と、不謹慎な事をメイトリアークは思った。少なくとも朗らかで健康的な真祖よりは想像しやすい。普段から、どこかしら病んでいる顔付きばかりだから。
「焼きあがるまでの間に、他の支度を整えておきましょう。
こういうのは雰囲気も大切なのですよ。それと、飲み物も合うものを探さなければなりません。
今日作ったのは、焼き上がりの密度は幾分固め、果物の香りは弱めに出ますから、それを妨げないよう、葉の個性もおとなしめの物を選びましょう」
「うん、わかった。やりかた教えてね!」
かくして多少のトラブルこそあったものの、メイトリアークの仕切りにより、作業は順調に進行していき……。
「真祖」
クレストは彼女の方を向いた。
普通に顔を横に向けたのである。俯いた顔を上げてくる事が、この頃、幾らか少なくなってきていた。
メイトリアークは扉の前で直立したまま、要件を告げる。
「食堂へどうぞ。支度が整っておりますので」
「あれ、夕食の時間にはまだ早いよ」
クレストは窓の外を見る。
食事の時刻は、日によって前後する事はあるが朝昼夜と大体決まっており、現在の太陽はその位置にいない。
「夕食の時間ではありません」
「え?」
「おやつの時間です」
そう告げられた時の、クレストの表情こそ見ものだった。