従者メイトリアーク - 1
これまで全く例の無かった新しい気配が居住地に増えるというのは、案外慣れ難い事であると判った。
屋敷の主である吸血鬼クレストにより、人買いから救った人間の少女を正式に預かるという決定が下されてから、早くも10日以上が過ぎたものの、気を緩めた拍子に飛び込んでくるその気配にいまだハッと身構える事が多い。
その直後にあぁあの子かと警戒を解くのだが、こうした反射的な緊張まで失くなるのには、まだ当分時間が必要だろう。長らく主の惰性を見守りながら自分もまた相当の惰性に浸っていたのではないかと自覚させられるようで、彼女は密かに襟元を引き締めるのであった。
淫魔サキュバス。吸血鬼クレストが従者の片刃、メイトリアーク。
今日もまた長い廊下を駆け寄ってくる少女の足音に、彼女は姿勢を整えた。
厚手の青の燕尾服には皺ひとつ見当たらず、ついでにお揃いの色をした山高帽の位置も直す。従者というよりは舞台に上がる手品師の如き出で立ちだが、なに、やる事に然程の違いは無いと彼女は思っている。
あとは残された猶予で、頭の左右で束ねた髪のバランスを整えて。
「あー、いたいた。メイ!」
淡く青みがかった髪の少女が、予想通りのタイミングで曲がり角に現れる。
世話を任されて早々に、フィリアはメイトリアークをメイと呼ぶようになった。愛称で呼ばれるなど初めての経験で、だいぶ面食らったものだったが、悪い気分ではない。二音で済む分、この方が効率的でもある。
彼女と対を成す、もうひとりの従者である夢魔パトリアークは、パトと呼ばれていた。庭園の手入れや洋館内の設備管理及び装飾が彼の担当であり、料理や掃除といった部分の担当がメイトリアークだ。
どの仕事も、やる必要がないといえばない。
しかしこういう事態になると、何でもやっておいて正解だったと思えてくる。
酔狂に過ぎなかった厨房や浴場、ドレスルームはフィリアの為に大いに役立ち、庭の果樹からは季節の果物が採れる。少々土地を耕せば畑も作れるだろう。空きスペースの方が広かった貯蔵庫に食料も集め始めているが、あまりしょっちゅう人里に姿を現すのは好ましくないという事で、こちらのペースは緩やかであった。
屋敷に住まう三者のうち、最も人間との関わりが深く社会構造についても詳しいのがメイトリアークだが、それとて相当偏りのある知識である。加えてただでさえ彼女の容姿は目立ち、変装の類も得意ではないときていた。一度ボロを出せば、今後の活動がやり辛くなる。
「遊んでいたのですか、フィリア」
「お部屋見てるんだ。広いね、ここ。わたしの家よりずっと広いよ」
「そうですね、その広さが有効に使われた試しが無いというのが虚しいところです」
「おそうじ、一人で大変じゃない? わたしもお手伝いするよ」
「ご心配なく、意味があってないような行為ですから。どうぞ存分に行動範囲を汚してください。その方が僕も却って張り合いが出ます」
真面目に答えたつもりだったが、目をぱちぱちさせているフィリアに、しまった、とメイトリアークは思う。人間相手に魔物の感覚で話してはズレが生じる。三者中誰よりそれを理解しながら、習慣というのはつい出てしまうものだ。この手の解答をする者は、人間の世界ではいわゆる変人に該当する。
ところが、面食らってこそいたものの、フィリアに引き下がろうとする気配はなかった。まだ九つの子供という事を差し引いても、順応が早い。この適応力の高さも、主の関心を引いた理由なのかもしれない。
「お手伝いがしたい……のでしょうか?」
問うメイトリアークに、フィリアはこくりと頷く。
「みんなよくしてくれるから、お返しがしたいの」
「お気になさらずとも結構ですよ。礼や見返りを求めての行動ではありませんから」
「ひとに何かをしてもらったら、こっちも何かを返すものなんだよ」
「なるほど、それがあなたの主義なのですね」
「?」
正しくは貴族の、いや、この少女の生家の、だろう。首を傾げたのは、いちいち主義だの主張だのと考えるまでもなく、それが当たり前の習慣として染み付いてしまっているからだ。
メイトリアークはフィリアを見つめた。そう背丈はない彼女でも、フィリアが相手なら見下ろす形になる。世が世なら貴族の令嬢としての自覚が植え付けられる頃合いだろうに、それが自ら掃除の手伝いを申し出てくるとは。
清掃は下働きの、使用人の仕事だ。人間の貴族社会における使用人など家具と同じ道具扱いが普通であり、露骨に見下す者とて珍しくはない。それが自ら掃除というのだから、少女が売られる間際の困窮ぶりが推し量れる。
あるいは、何か仕事をしている事でしか苦しみを忘れられなかったか。
メイトリアークは、少しだけ考えた。
要求されるままを提示する前に、他の選択肢を探すべきかもしれない。
例えば、パトリアークと遊んできてはいかがでしょう。
例えば、真祖の元を訪れてみては。
フィリアは主の客である。仕事をやらせるのは、許される許されないの問題ではなく、従者としてどうか、と思う。
が、客の強い意向を柔軟に尊重するというのも、また従者の裁量であろう。
彼女は結論を出した。
「ではフィリア、料理をなさった事はありますか?」
「したことないけど、教えてもらったら、できる!」
自信満々に挙手までしながら、フィリアは即答する。
未経験だと言っているのに、その自信はいったいどこから来るのか。これが若さというものなのかもしれない。
「お夕食?」
「夕食にはまだ早いので、軽く食べられるお菓子を作りましょう。
そうですね、完成したら真祖にお出ししては?」
「おー、そうしよー。メイのお菓子おいしいもんね!」
どうやら提案は受け入れられたようだった。意味があるのかないのかといえば大部分が無い掃除よりは、この方が余程有意義であろう。それに、この少女には現状もう少し多めに食べさせた方がいい。屋敷に来た当初よりは良化してきたとはいえ、いまだもって成長期にしては痩せすぎである。
ともあれ方針は決まった。では行きましょうと告げ、メイトリアークはフィリアの前に立って厨房へと歩き出す。
「クレスト、喜んでくれるかなあ」
「ええ、きっとお喜びになりますよ」
それについては、彼女も自信をもって断言できた。
なるべくなら率直に喜ぶ姿を見せて欲しいものだ。喜ぶには喜んだが同じくらいに動揺しながらという可能性が、残念ながら大いに考えられるのである。子供相手にそういった複雑な喜びの表現は、なかなか通用し難かろう。