世間知らずで、何が悪い。
「おはようございますー。」
だりぃー。スーツはパリッと糊付けされて気合が入っていたが、革靴を擦り付けながら歩くスティーブの顔からは、あからさまにやる気のなさが垣間見えていた。
「おはようございます。」
そんな自堕落なスティーブに気合いを入れるためか、上司のボルトは背中を軽くポンと叩き、バリス郊外の特殊部隊養成所に入った。
「いいところだな。」
ボルトは辺りを見回した。目の前は白い砂浜に海底が透けるほどのシークレットビーチが広がる。残念ながらビキニ姿の女性はここにはいなかった。
2人はもうすぐ募集の始まる、第36期の採用試験準備のため、バリスのど真ん中から出向中だった。
「お疲れ様です。」
養成所に入ってすぐに2人は会議室に通された。クーラーが程よく効いて、スーッとシャツに着いた汗が引いていった。そしておもてなしに、セノバのココナッツウォーターを頂いた。
「コレめっちゃうまい」
「しっ、静かに」
スティーブのさりげない一言を、ボルトは窘めた。
「今年はどうなんでしょうかね。ここ最近、入所者のトラブルが多くて。」
何だか出だしから幸先が悪い。
ボルトはははぁ、と苦笑いをした。
「トラブルとは、例えばどのようなものでしょう?」
スティーブは向かいに腰をかけ、2人を対応していた養成所職員、教育担当係長のユングに尋ねた。
「まぁ、軽いものだと口喧嘩やちょっとしたスリ。重いものだと放火とか。」
「刑務所と変わらないですもんですね。」
「ははぁ、言いますね。」
おい、ボルトは少し焦ったが、ユングはニコニコと笑っていた。
「でも、おっしゃる通りです。実際に受験生もギャングのボスやら格闘家やらが多いですから。一筋縄ではいかないのは重々承知の上です。何しろ、我々もそうでしたから。」
ここの職員はもちろん全員、殺し屋である。ユングも10年前の卒業生で、治安科で優秀な成績を修めていた。
「今年は紫色の手紙を受け取った方が2名、いるそうですね。事前面接の担当者も決まりましたよ。1名女性。」
「はい、こちらの2名です。」
ボルトはファイルから茶封筒を取り出した。
「2人とも若いですね。
おや、この女性、18歳ですね。顔合わせ中じゃないですか?多分住まいも実家ではないでしょう。相手に了解をとる必要がありますね。」
「取れています。署名も頂きました。」
ボルトは頷いた。
ふーん、顔合わせ中か。
よく相手もオッケーしたな。
スティーブは思った。
自分の彼女が殺し屋とか死んでも嫌なんだけど。
スティーブは快適な室内にいるためか、突然現れた眠気と戦い始めた。
ユングは2枚の募集願書を手にとって見比べていた。
「あ、こいつ...いや失礼。」
ユングは慌てて首を振った。
「?」
スティーブの目はユングの顔色の変化を捉えていた。間違いなく、糸で頬を斜め右上に引っ張られたような顔をしていた。
「ナチ・ハリトーノフ。治安課にいたときに、よく会いましたよ。あまり思い出したくはないですけどね。」
「すいません。」
なぜかスティーブは謝った。いい人、を題材として絵に描くとこうなるだろう。というくらい笑顔を絶やさないユングに嫌な顔をさせるのは申し訳なく思った。
「結構な荒くれ者なんですか?」
ボルトはユングに尋ねた。
「自分達が推薦しといて聞くのっておかしくないですか?」
「....」
スティーブは確かに最もなことを言った。だがそのせいで、会議室内の空気は一気に冷え切ってしまった。
「まぁまぁ、書面と実物は違いますからね。あはは。荒くれ者ですよ。色んな意味でね。」
ユングの計らいで、何とかその場を凌げたが、スティーブは横顔にボルトの鋭い視線を感じたのは言うまでもない。
「あ、このミモザ・アサマさんの顔合わせ相手の同意書を頂いてもよろしいでしょうか?」
「はい、こちらです。」
ボルトは書類をユングに渡した。
その数日後の夜のことである。
「テメェら、見習いの分際で休めると思ってんのか?あーん?」
「てか、師匠、俺らよりミモザさんを休ませてあげて下さいよ。」
とうの昔に太陽は沈んでいた。花屋コラゾンもそろそろお眠りの時間を迎えた。
閉店作業中、ペテロとパウロは、レイを説得していた。
「ミモザさん、ずっと休まずにひたすら働いているじゃないですか。」
だが、当の本人のミモザは外で作業中だった。
「いや、休んでもいいんだけどさー。あいつが休むって言わねーんだもん。」
レイは床を履きながらいつもの低くて小さな声でぼやいた。
「言わなくたって休ませてあげて下さいって...労務管理もクソもないじゃないですか...」
ペテロとパウロは目を合わせて苦笑いをした。
そういえば。
ずっと一緒にいるな。
レイは客のいなくなった店の入口に顔を向けた。
あの日ユングから連絡があってから、ここしばらく、レイはあんなに愛していた独りの気ままさを忘れていたことを思い出した。
それも、独りの気ままさを愛していたことすら忘れていた。
「お前、遂に結婚か!?」
特殊部隊の第11期、同期のユングから、突然の連絡があったのは夜も更けていた遅い時間だった。
「あーん?」
「あーん、じゃなくて。しかも嫁を養成所に入れるらしいな」
つーかこいつ誰だっけ?
レイはソファーに薄っぺらい体をポスターのように貼り付け、この国の壊れやすい携帯電話を耳の近くに転がしていた。
極度の面倒くさがり屋のレイはまず、ろくに画面を見もしないで電話をとった。そして然程離れていない受話器の向こう側を思い出すように脳内の整理整頓を開始した。
「何でお前、まずそのことを知ってるの?」
ま、思い出さなくていっか。
レイは考えることすら辞めた。
「すまんな。いや、あまりにもびっくりしちゃって。俺今、養成所で働いているんだ。」
ん。
俺の同期で養成所。
ってことは、治安科のやつか?
「お前、ユング?」
ようやくレイの記憶のほっそーーーい糸は繋がった。
「だからユングって言ってるだろ。それはいいとして、何考えているんだ?まず結婚にびっくりなんだが、しかも女を殺し屋にって」
「なにもかんがえておりませーん。」
レイは適当にユングの忠告を聞き流した。
おいおい...
呆れてものが言えん。
ユングは返す言葉を粟を掴むように探った。
「考えろよ。俺見たぞ。お前の同意書。あんなの若いねーちゃんが行くところじゃないだろ。」
ユングはボルトから受け取った同意書のへったくそなスペイン語をしかと見た。
「行くところじゃないと言われても紫色の手紙届いちゃったし。」
レイはテレビを見ながらつぶやいた。
「そうだけどさ...」
ユングは受話器の向こうでため息をついた。
もう何も言えん。
レイ。
お前に常識なんて、最初っから求めていないけどね。
ユングは目を細めて、世間を舐め腐った二重まぶたの黒い瞳を思い出していた。
「お前の嫁になるんじゃ、それぐらいの女じゃないと駄目なのかもな。」
やれやれ、本当に相変わらずだな、レイ。ユングは昔を懐かしんで笑った。
「え、てかさ」
「どうした、レイ」
「顔合わせしたら結婚すんの?」
「いやお前、したから。」
「結婚?俺が?」
レイは首を傾げた。傾げたところでユングにその姿は見えないが。
「はぁぁぁぁ!?」
何だこいつ。
自分が結婚したことも知らないのか?
ユングはここ最近、自分の目の前にゴキブリが通ったときの次に大きな叫び声をあげた。
「お前何言ってんの!?ミモザちゃんの添付書類の戸籍登録、見てみろよ!!」
何だよ大声で...
レイはようやくナマケモノのように体を起こし、カタツムリの這うごとく携帯電話を拾い上げてソファーから体を剥がした。
そのままテレビの隣のプラスチックの棚の引き出しをガッと引っ張った。
「紙が挟まってて引き出しあかねー。」
「知るか。」
ユングは当然の返事をした。
「んーと。あ、あった。」
レイは引き出しの隙間に手を入れ、ノロノロと動かした。
あった、これか。
「?最近、あいつの住所を変えに市役所には行ったけど。あ。そっか。」
レイは市役所から貰った書類を漁り出した。
「何これ。浅間ミモザになってるわ。」
「それだ!!」
「...」
レイは手にしていた証明書をじっと眺めた。スペイン語はもう自由に読み書きはできるくらいになっていた。
俺窓口間違えたんだった。
ミモザ・アサマ...ふーん。
もう誰とも一緒に住むことはないだろうと思っていたけど。
意外と楽しいな。
悪くない。
そう思ってレイは、ボカンと力強く紙切れにハンコを押した。
そして、その横でミモザは笑っていた。
「じゃ、結婚したから。ご祝儀よろしくー。」
「あっ!」
レイはぷっつりと電話を切った。
「師匠、話聞いてるんですか!?」
「へ?」
ペテロとパウロに呼ばれて、レイは記憶の森から現実世界へ引っ張り出された。
「ほーら聞いてない。」
「あー聞いてる。ミモザを休ませるわ。おーい」
レイは大きな声でミモザを呼びながら、店の外に出た。ミモザは店の外に並べられていた花の入ったカラフルなバケツを店の入口に運んでいた。昼間よりは大分冷えてはいたが、それでも肌にぶつかるバリスの風はぬるま湯そのものだった。
「お前明日休みだからなー。」
「って」
店の外から中にまで響くレイの大きな声を耳にして、ペテロとパウロは苦笑いをした。
「計画性なさすぎるでしょうな...」
2人は顔を見合わせ、クスクス笑った。
そんなかんなで急遽、ミモザは休みになってしまった。
「いいの?」
仕事が終わって、ミモザとレイは家でのんびり夕食をとっていた。少しだけ開いた窓からは空き巣のように南風が流れている。潮の香りがした。
ジェフの夜景がミモザの脳裏に過る。ジェフにはこんなに建物がない。
結構いい家賃するんだろうな、ここ。
バリスの都会の夜景は何度見ても、ミモザが見慣れることはなかった。
夜中までお祭り騒ぎのバリスとは違ってジェフの長閑な気質の人々は日の出とともに起き、沈むと眠りにつく、シンプルな生活を営んでいた。
「ペテロとパウロがお前邪魔だから来るなだってさ」
レイは豚汁をがっとかき込んだ。
「...本当に口悪いよね...」
もはやミモザは口答えをする気も失せていた。
「無理です治りません。浅間病といいます。」
ミモザはスプーンで筑前煮を食べていた。日本人はよく器用に2本の棒で食べ物を摘めるよなー。といつも思っていた。
「やめてよ。あたしまで病気みたい」
「んぐっ」
レイは思わず喉にご飯を詰まらせた。
「何でお前結婚したことを知ってんの!?」
あれ、忘れていたの俺だけ?
レイは自分が途轍もないほどの地雷を踏んでしまったことを刹那に感じた。
「はぁぁぁぁ!!?」
ミモザは手のひらで、テーブルを叩いた。手が腫れるんじゃねーの?この無神経極まりない男が心配してしまうほど、その威力は激しいものだった。
「あんたが手続きしたじゃん!!」
「まじで?まぁいいけど。」
ムキになるミモザとは正反対に、レイは淡々とご飯を食べ始めた。
ん。
待てよ。
結婚したということは...
むふふ。
レイはある不謹慎な考えを頭に過ぎらせた。こういうときばかり頭の回転は45rpmで回る。
「じゃあ一緒にベッドで寝るか。」
「嫌よ。あんた臭いもん」
ミモザはレイをまとわりつく小蝿を払うように手でしっ、しっ、と払う。
「じゃあ一緒に風呂入ろ。」
「嫌よ。」
ミモザはゴミ箱の蓋の中身を見るような目つきでレイを見る。
「...やっぱり明日出勤しろ...」
何だこれ。
何なんだ俺たち。
「もう約束しちゃったもん。あたし、ジェフに行くから。」
....あっそ。....
その晩、レイが涙目になったことは言うまでもない。