思ったよりも、平気じゃない。
ただ、サトシ、一つ注意して欲しいことがあるんだ。
レイは寝室を出て、そっとドアを閉じた。
ミモザは気を失った。数時間経つが、ミモザは目を覚まさない。足音を立てないように気をつけながらレイはリビングに向かった。
「まだ寝てる。」
「そうか...」
ソファーに腰をかけていたのは、ジェフからレイの力で瞬間移動したマスタングだった。
今のマスタングには、殺し屋としての威厳はなかった。ガックリとその分厚い肩を落として涙目になっていた。こんな寂しげなマスタングを見たのは、レイも初めてだった。
「サトシ、すまなかった。」
マスタングは隣に腰を下ろしたレイに、蚊の鳴くような声をかけた。
「....ちょっとこれはヤバいぞ」
そう言いつつも、本当にヤバいと思っているのかわからないほど、レイは無表情だった。そのままレイは左手を伸ばし、ガラステーブルの上に乗ったグラスを持った。
「俺が時間を止めなきゃ、あの会場の人間を皆殺しにするところだった。」
レイはグラスに口をつけ、アイスティーを飲んだ。
「お前ならあの子の気持ちがわかると思った。なのに、とんだ迷惑をかけちまったな。」
マスタングはふふふ、と小さい声で笑った。笑ったのではなく、口から空気と一緒に声を漏らしたといった方が正確なのかもしれない。
「いや別に、迷惑ではない。」
レイはグラスをテーブルに戻し、フーッと長く息を吐いた。
「確かに、エスパーに会ったのは初めてだ。でも」
「でも?」
マスタングはようやく顔を上げ、レイの横顔を眺めた。
「何がでも、なんだ?」
「俺には止められるのかわからない」
レイのこの発言の後、マスタングはかっと目を見開き、
「だが実際に止めたじゃないか。」
マスタングはすぐ言葉を投げ返した。
口調は荒くなった。娘を何とかしたい、との気持ちが滲み出たのがレイにはわかった。
「止めたには止めたけど、厄介なのが本人は力をまるでコントロール出来ていないってことさ。そして何より、本人が自分の力を認めていない。この時点で治しようがない。」
「.....」
マスタングは口をつぐんで、ゆっくりと真後ろを振り返った。バリスに少しずつ朝日が顔を出し始めた、午前4時。外からは物音がした。街は完全に寝静まることはないようだ。
「だけど、何なんだ、その訳のわからないイベントは。人を檻に投げ入れて殺すなんて。動物でもやらないぞ。」
マスタングは胸糞が悪くなり舌打ちをした。
「試験に受からない殺し屋崩れ達が憂さ晴らしでもしているんだろ。」
レイは冷静だった。
「あぁやって皆で弱い者イジメ、だからいつまで経っても受からないんだ。」
「確かに」
フッとマスタングはレイの一言に反応した。大きな肩が少しだけ揺れた。
「受からないほうがいいのかもしれない。殺し屋なんてならない方が幸せさ。」
「そうだな。」
レイは頷いて苦笑いをした。
「それなのに、サトシ。」
「?」
マスタングはハーフパンツのポケットに手を突っ込んだ。何やらゴソゴソと物を取り出そうとしていた。
「サトシ、これを見て欲しい。見覚えがあるだろう?俺もパッと見た瞬間、ゾッとしたよ。」
「これ」
レイはマスタングから手紙を受け取った。マスタングが持っていたのは紫色の封筒だった。紫色はこの国では葬式を意味する、縁起の良くない色だった。
「特殊部隊推薦状じゃねーか!」
レイはマスタングから受け取った封筒をガムがべったりと貼り付いた、靴裏を見るような目で見た。
話の舞台は一週間前に戻る。
ここはバリスの中心部、サンストリート広場から徒歩3分のところにある新バリス駅のそば。ここにセノバ警察当局の事務所があった。
警察当局の特殊部隊採用委員会の職員達は例年通り特殊部隊の入学試験の準備に取り掛かっていた。
特殊部隊とは軍隊ではなく、国が認めた殺し屋の通称である。試験は筆記と実技を行い、晴れて合格した者は養成所に通うことができる。そこで座学や実科などの訓練に耐えた者は最終試験を受け、独自のコードネームを付与されて晴れて?殺し屋となることができるのだ。
「ジェフにエスパーがいるぞ。」
採用委員会の話は、特殊部隊2人目のエスパーの話で持ちきりだった。
「エスパーだと!?10年前の東洋人以来か。」
職員は揃って顔をしかめた。
「なんだ?地震を起こすのか?火をつけるのか?何れにせよ、この小さな島国にそんなのが2人もいるなんて、末恐ろしいな。」
事務所内には緊迫した空気が流れた。
「それもあの超有名な殺し屋のコードネーム・マウンテンゴリラの娘だとさ!」
「ひぃぃぃ!!絶対結婚できないよ、それ!」
真夏の採用委員会の事務室は、まるで怪談話でもしているかのように、ひんやりとした空気が立ち込めた。おばけなんかよりも遥かに怖い人間が特殊部隊には腐る程いることを、彼らはよくわかっていたからだった。
そんな中、まるっきり空気の読めない人物が爆弾投下した。
「東洋人?誰それ?」
「はぁぁぁーん!?」
爆弾投下犯は、この春に採用委員会に異動になった新人のスティーブだった。
「お前、そんなのも知らないでここにいるのか!?最も有名な殺し屋、コードネーム・新橋のサラリーマンだぞ!?」
職員達は、書類の山からにょっこりと顔を出して、スティーブを見つめた。
「だって仕方ないじゃないですか。10年前って俺まだ高校生ですよ?」
「あのなぁ....」
けろっとした表情のスティーブを見て、幹部のボルトは思わず舌を巻いた。
「これだよ、これ。えーっと...あ、いた。」
ボルトは一枚の名簿を取り出し、スティーブに渡した。
そこにいたのはスーツ姿に、鉄板の入ったビジネスバッグ、黒縁メガネのよく似合うザ・日本人だった。
「あ、この日本人、近所の花屋だ。彼女がよくここのアレンジメント教室に行くんすよ。」
「........」
どうやらセノバでも、ゆとり世代の威力は強烈のようだった。
話は再び一週間後のレイの家に戻る。
殺し屋、けれどもその道は非常に険しい。
特殊部隊の最終試験。それは、
「同期との生き残りをかけたバトルロイヤル、懐かしいだろ?」
マスタングはレイに声をかけた。
特殊部隊養成所にはいくつかの科に分かれる。殺し屋といえども、それぞれの専門分野があるのだ。
まずはマスタングが出た安楽科。重い病を抱えた者が本人と医療機関の同意を得て、処刑される。マスタングは依頼人を処刑後、そのまま葬儀を担当し生計を得ていた。
次に治安科。卒業後警察に入局し、警備と災害防止のため凶悪犯の撲滅に努める。
そしてレイが出た総合科。フリーランスの殺し屋に多く、1番人気である。だが過度な破壊行為等は処罰されてしまう。
また、一般入試とは別に、特殊部隊養成所には特例の推薦入試がある。推薦入試を受ける資格がある者には、本人には連絡がないまま、推薦状が届く。要するに受け取ったら最後、半ば強制的に殺し屋へのフリーパスを受け取ってしまうのである。
「なるほど。」
レイは推薦状を手に取り、久々に眺めた。
「でも特殊部隊に女はいたか?」
「ミモザが史上初だ。入試に女はいるが、試験に受かったケースはない。しかも推薦状自体何年振りだ?」
「さぁわからん。」
レイはスッパリと答えた。
「俺自身、卒業してから養成所と関わりないからな。」
「俺は講師で顔を出すが、今の養成所は時化たもんだぞ。とてもじゃないが子どもを入れたくない。キチガイばかりだ。」
「ははは。あのなぁ、殺し屋になりたい時点でキチガイだ。」
レイは腹を抱えて笑った。
「ん?」
軽い金属がぶつかり合って、離れ離れになる音が家の奥でした。
リビングにミモザが歩いて来た。
「ミモザ!!」
マスタングはすっくとソファーから立ち上がり、慌てて娘の元へ駆けつけた。
「父さん、どうしてここに...」
マスタングはぐっと強くミモザを抱きしめた。
「心配したからに決まってるだろ!!」
「....」
レイは親子の再会を黙って見守っていた。そして、手に持っていた不幸の手紙をそっと、ジャージのポケットに突っ込んで隠した。
「サトシにお礼を言いなさい。いいね。」
マスタングはミモザの耳元でつぶやいたが、
「サトシってだれ?」
と最もな答えを返した。
「俺だよ。」
レイは元気そうなミモザを見て、ホッと胸を撫で下ろした。
「サトシって言うんだ....」
ミモザはマスタングの腕に捕まり、レイの様子を覗いた。ミモザはまだ眠たそうだった。涙目になり必死であくびを堪えている。
「もうちょっと休んだ方がいいんじゃないの?」
レイはミモザを横目で見ながらつぶやいた。
「サトシ、ありがとう。」
「......」
サトシって呼ぶな。照れるだろう。レイは込もった。若くて可愛い女の子の笑顔を見て、男のレイはついつい、はにかんでしまった。 マスタングはミモザを連れて寝室へ向かった。ソファーに一人きりになったレイは、はぁぁっと長い長いため息を漏らした。サトシ、か。最後に女にそう呼ばれたのはいつだろう?覚えてねーな...
新橋のサラリーマンを辞めて、海を渡ってから、レイこと浅間怜は早くも一回り年を取ろうとしていた。日本でのことはもう、あんまり覚えていない。京浜東北線?京急線?どっちだっけ。あ、新橋は京浜東北線か。懐かしいな。アイスティーを飲みつつ、レイは明けてゆく夜空を眺めながら、昔を懐かしんだ。
レイがぼんやり明けの明星を眺めていると、いつの間にかソファーの真横に大きな岩がどっしりと座っていた。
「おぉっと、いつの間に。」
「そんなんじゃ殺られるぞ。」
マスタングはレイの肩をポンポン叩いた。
「すまん。何だか今日は疲れてる。」
さすがに眠くなってきたレイは、目をゴシゴシと擦った。
「謝るのは俺の方だ」
マスタングは顔を引きつらせた。
「レイ、これを見て欲しいんだ。」
「今度は何だ?」
レイはマスタングが取り出した写真を覗いた。
「これ、生きてるのか?」
「辛うじて。」
写っていたのは、人間かどうかもわからない、切り傷だらけの肉の塊だった。服は切り刻まれ、血だまりができている。赤くて長い髪を見る限りでは、セノバ人の女性だろう。
「ミモザの母だ。」
「....」
レイは黙って、首を縦に振った。
「一命は取り留めたものの、まだ入院中だ。そこからだ。あの子は精神病院に入れられて、何度も自殺未遂をした。だが大きくなるにつれ、どんどんミモザの力が強くなっていってる。」
マスタングの手はぶるぶると震えていた。
本当は娘に怯えているんだろ。だから俺に預けたのだろう。
レイは察した。
「余命半年っていうのはどういうことだ?詳しくはわからんが、見る限りあの子は至って健康だが?」
「この能力が暴走するとあの子の身が持たないんだ。半年は能力が爆発するだろうという見込みだ。ミモザが子どもの頃から特別な何かを持っていることは、本当は薄々感づいていた。でも俺はあの子を庇うしかできなかった。」
マスタングは野球のグローブのような手で長い顔を覆った。そして声を籠らせながら話を続けた。
「どうすればいいのかわからなかった。あの子はこのまま、自分の能力に苦しみながら生きるしかないのか?」
「それはお前が決めることじゃねーだろ、マスタング。」
レイちびちびとアイスティーを飲みながらつぶやいた。
「ミモザの人生だ、それはミモザが決めることさ。ま、俺は他人の家庭に首を突っ込むなんてまねはしたくはないが、エスパーのことはエスパーにしかわからないからな。」
「......」
相変わらずクールな男だ。レイの答えはマスタングの思った通りだった。
「能力を誤魔化すのはもう無理だ。その結果がこれだ、お前が一番わかっているだろう?マスタング。
だったら使いこなすしかない。あと半年か。特殊部隊養成所に入るとしても半年以上先だろう?でも。」
「でも?」
マスタングは顔を上げた。
「ミモザにそんな気力があるか、そこが一番の問題だ。ただあいつは最強の殺し屋になるぞ。新橋のサラリーマンの名にかけて、俺があいつを弟子にしようじゃないか。」
レイは笑った。