そういうこともある。
「たでーまー。」
「おかえり。」
レイよりも先に、リビングでミモザが帰宅して洗濯物を取り込んでいた。
「ご飯、ちょっと待ってて。もうちょっと煮る。」
ミモザは畳んだ洗濯物を持って、すっとその場に立ち上がる。
「いいか?日本人の嫁はな、旦那さんが帰ってきたときに必ず言う決まり文句があんだぞ?」
レイはミモザの向かいに立って、何やら気持ち悪い笑顔を浮かべていた。どーせろくでもないことだろうと察したミモザは、ジロッとレイの不気味な顔を見た。
「何よ。」
レイはミモザを指差した。
「ご飯にする?お風呂にする?それともあた....」
「はーい!!仕舞ってきまーす!!」
ミモザは洗濯物を持って、スタスタとレイの前を通り過ぎて、家の奥に向かって行った。
「...」
レイはひとり、リビングでボーッと突っ立っていた。
「ねぇ、そろそろ、修業を再開しようよ。」
「あーん?」
ミモザはココナッツミルクを飲みながらつぶやいた。この日の風は、セノバに短い春の訪れを感じさせる匂いをのせていた。具体的にどんな匂いか?と言われたところでうまくは表現できないが、ほんのりと心が温かくなるような風である。ミモザの箸使いはというと、相変わらず下手くそだった。
「むーりー。」
「何で?」
ミモザはレイに尋ねた。しばらく修業は休みだ、とレイが宣言してから、もうすぐ一週間が経とうとしていた。
「ほれ。」
レイは皿の上にフォークを置いて、パチっと指を鳴らした。
「ん?」
ミモザはスプーンをくわえたまま、壁にかかる時計を見つめた。
「あれ、止まってない。」
「うんにゃ。力が使えない。これは不吉の前触れだ。」
本当にそう思っているの?とミモザはあっけらかんに答えたレイを、疑うような目つきで見た。レイもその歯がゆい視線に気がついた
。
「いや、まじで。過去2回、一週間ほどして身内が亡くなったもん。」
「やだ、怖いよ。」
何それ!?と言いたそうに、グラスを持ったまま、ミモザは目を見開いた。そんな忌まわしい予感など微塵も感じさせないかのように、大都会の夜は深みを増していった。
「あたしは使えるよ?」
ミモザはココナッツミルクの入ったグラスをテーブルに置いて、ぐっと拳を握った。ブワッと大きく風に触れたカーテンはそのまま急速冷凍されたように固まった。
「俺とお前が、全く同じ条件で力を使えるかと言われたら、そうじゃないからなー。」
レイは時が止まったダイニングルームを、黒飴のような眼球を転がしてぐるっと見回した。ダイニングテーブルに置いたパステルピンク色の花びらは、落ちかけたまま宙に浮いて留まっていた。ほんの僅かなことも、ミモザとならすべてが新鮮で、朝露に濡れるかのように光り輝いて見えた。
なんつーか。新鮮だな、こう見ると。
見慣れた景色が、どことなく愛おしく思えた。
「戻そうか?」
「いや。もうちょっと、ゆっくりさせてよ。」
「いいよ。」
ふふふ、とミモザは笑った。
「エスパーじゃないのもいいな。」
レイは試しに、パチっと指を鳴らした。
「あれ」
花びらは宙を舞い落ちた。カーテンは靡き、時計はチクタク時を刻んだ。
「えっ、戻ったじゃん!」
何だよ、とミモザは笑った。
「まじで?」
自分のことなのに1番信じられないレイは、擦らせて鳴らした右手の中指をパッと見つめた。
「もう一回やってみるか。」
パチンと乾いた音がダイニングルームに鳴り響く。またもや時計の針は失神した。
「戻ったな。完全に。」
レイがつぶやいて、もう一度指を鳴らした途端に、リビングのソファーに転がっていた携帯電話が鳴り響いた。
嫌な予感がする。
レイは察した。その嫌な予感は見事に的中することになる。レイがその事実を知るのに時間はかからなかった。
「もしもし」
レイは通話ボタンを押した。