押しかけ女房どころじゃない。
爽やかな朝である。
夜空をお下劣に照らすネオンはすっかり街から消え、黄色い朝日が殺風景な部屋に降り注いだ。 透き通る白いカーテンの隙間から腕を伸ばして、レイは窓を開けてベランダに出た。そして細長い足にゴムでできたサンダルをねじ込んだ。ペタペタと粘り気のある音を鳴らし、プランターの近くまで数歩歩くと、レイは丹精を込めて育てているミニトマトとパクチーにジョウロでシャワーを浴びせた。
植物はいい。朝日を青白い肌に当てつつレイはしみじみ思う。黄緑色の葉は透明な水滴をつけながら光輝く。
レイは寝起きの乾いた唇をくっと持ち上げて笑みを浮かべた。
ベランダの下からは忙しない大都会の朝が幕を上げてやかましく時を刻んでいた。レイの束の間の喜びは騒音に飲まれ、唇からははっと溜息を漏らした。人混みはレイの苦手なもののひとつだった。
ふとレイは首を下ろした。というより、街を歩く人々を見下した。そこで目についたのは、駆け足で若い女がレイの住むマンションの入口に飛び込むという一連の流れだった。
忘れ物でもしたのだろうか。レイは大して気にも留めず、再び手首を曲げてプランターに水を零す。
俺は俺だ。のんびりと自分の時間を過ごせばいいと自らに言い聞かせた。
だが、レイの細やかな楽しみは、玄関のチャイムの音と同時にその幕を下ろした。そのとき、 レイはベランダから1kmくらい離れた街の向こうに広がる青い絨毯を見つめた。
あそこに行きてーな。でも、半周した先は日本か。
ちっぽけな人間のスケールを海は遥かに越えていた。レイはいつも以上に働きアリのような街の人々の存在を無視していた。
そのためか。レイに用事のある人の忍び寄る足音に、レイはまるで気づかずにいた。
「?」
客だ。レイはふと振り返った。兎にも角にも人嫌いなレイは、朝一番で会う人に歓迎の意を示さなかった。
何だ?レイの意識は、カメラのピントの倍率よりも早く切り替わる。それと同時に顔を顰めた。
簡素なチャイムはレイの気分などお構いなしにしつこく家主を呼びつけた。
はぁ。何だよ。
渋々ジョウロをベランダの入口に置き、レイはサンダルをすっと脱いでベランダを後にした。開けろー!開けろ!と来訪者の襲撃は留まることを知らない。レイは冷たくあしらおうとしたが、それでもチャイムは鳴り続けた。
....うるせーな。
レイの気分は下り坂だった。恐らく玄関の向こうの相手はレイの気の短さを知らない呑気な人物であろう。レイは玄関のモニターに目をやった。
「誰だ」
白い壁に不自然に埋め込まれた正方形のモニターにはひとりの若い女が写っていた。さっきの駆け足の女だ。もちろんレイは面識がない。
「開けてください」
女は息を切らしながら、間髪入れずに答える。しかも答えになっていない。2人の会話に捻れ現象が生じた。
「質問に答えろ。」
レイは少し口調を荒らげる。そしていつもの悪い癖で、その長い指先に力を込めた。
「あなたの知らない人よ」
「んなもん、見りゃわかるわ。」
何だこいつ、なめてんのか?
もはやレイの気分はこの数十秒で、あっという間に最悪の二文字にまで落ちた。
「名前言ったってどうせわからないからいいじゃない。」
レイを無視し、分厚い金属の板の向こう側の女はきっぱりと言い切った。
「何だそれ?」
レイはとっさに首を傾げた。そう来るか。レイは何故か笑った。相手の開き直りっぷりはレイの予想を上回っていた。
「自己紹介なんてしなくていいでしょ?あたし、もう死ぬんだから。」
「...?」
レイは眉を曲げた。もはや相手の言い分は、頭の中を捏ねくり回して考えても理解しがたいものであった。まぁ、まず他人を理解しようなんざ、レイはしようとしないが。
「ねぇ、いいでしょ?入れてよ!」
女はただをこねる子どものように、けたたましく、かつ荒っぽくドアを叩き始めた。しかも、モジモジし始める。
あーあー何だよこいつ!
しかも何だよそのタイミング!
だから走ってきたのか?
そこで話の流れは理解できたが、
レイの脳裏には何本かの血管が切れたかのような、プツンという音が響いた。
「便所くらい我慢しろ」
「漏らしてもいいの?!私、片付けないから!」
女は声を張り上げた。
....こいつ、やっぱりそうか...
ついにレイの堪忍袋は破裂寸前までになった。
もういいわ!
レイは玄関まで駆けて行った。
「あースッキリしたー」
女はフーッと安堵と息を吐きながらドアをあけた。BGMはジャーっとトイレの水が勢いよく流れる音だった。
女は固まった。耳に触る金属の擦れる音は女にとって、トイレの水の音よりも重々しく、迫力があった。
気がつけば女の額には冷たいものが当たっている。目の前には、女より頭ひとつ大きく険しい表情をしたレイが立っていた。
「人をからかうのも、大概にしてもらえねーかな?」
手を洗いたいんだけど。女は言おうと思ったが、さすがに言葉を飲み込んだ。珍しく空気を呼んだのである。
だがしかし、今の状況は、女にとっては然程悪いものでもなかった。
「トイレありがとう。」
女は立ち往生のまま、銃口を突きつけるレイに声をかけた。
「最後のワガママ。手を洗いたいな」
「この後に及んで、まだ寝言をほざくか?」
レイはふふふ、と乾いた笑みを浮かべた。飛んで火に入る夏の虫とは、まさしく女のことだろう。と思いきや、
「まず、起きてる。それに」
「それに?」
レイは女に聞き返す。目の前の何故か彼女はガッツポーズをする。
「さすが。殺し屋レイ、私の思った通りだ!」
「....」
レイは口をつぐんだ。
そう。火に入ったのは、レイの方だった。銃を握り締めたまま、レイは女の笑顔をぼんやり眺めた。
「わー、ソファー大きい!」
レイは銃をしまった。そして観念したのか、大人しく女をもてなすかのよう、女を家に通して手を洗わせた。
その後、女はリビングにでんと構える白いソファーに飛び込んだ。ホコリが立つだろうが!レイは突っ込みたくなったが、ぐっと我慢をした。女は黒いクッションを両手で赤子のように抱え、両足をバタつかせた。 レイは本日二度目の大きな溜息をつく。そして、しかめっ面で、ソファーの前にあるガラステーブルの上に、アイスティーの入ったコップを無造作にぽんと置いた。
「まぁ、とりあえず飲めや。」
「いいの?」
女はクッションから顔を上げ、それと同時にむくっと体を起こした。
「死んだ時に出てきちゃうよ?」
「お前は殺しても死なないわ」
レイは本日三度目、そして最大の溜息をつきつつ、女の真横に座った。
訳がわからん。レイはぼーっと川の水のように流れる朝の情報番組を見た。だが案の定、内容が入り込むほど脳内は片付いてはいなかった。
そう、すべてはこの小娘のせいであった。
「変なの。」
「何がだ」
彼女は右手にグラス、左手にクッションを抱えつつ横目で隣に並ぶレイを見つめた。 かなり癖の強い赤毛に青い目、白い肌、頬にはそばかすがある、というこの地方に住む人種の特徴をすべて女は持っていた。
「意外と他人に警戒しないのね。」
女はつぶやきつつアイスティーを飲んだ。お前はもっと警戒しろよ、レイは喉の奥からフレーズが漏れそうになったが、敢えてぐっと堪えた。そのようなレイの配慮にお構いなく、女は喋り続ける。
「もちろんタダで殺してくれなんて野暮なことは言わないわ。報酬はあげる。」
「あのな」
レイは女を見ながら、眉をひめそた。これにはさすがの女も気がついたようだ。レイの険悪な雰囲気に女は口元からグラスを離した。
「お前は何がしたいんだ?」
レイは女に根本的な疑問を投げつけた。そして女と同じく、グラスに入ったアイスティーを飲み干した。
季節は真夏、この地方独特のカシャカシャと喚く蝉の鳴き声が朝から賑やかに響いていた。学生は夏休みだ。それなのにこいつは何をしているのだろうか。珍しくレイが他人に興味を示した。もちろん、悪い意味で。
「だから、殺してくれって言ってるじゃん。」
女は口ごもることなく答える。
「その理由だ。バカの一つ覚えでそんなこと言われてもな。」
「そんなのいるの?」
女はレイを見ながら首を傾げた。そもそも何でこいつ、タメ口なんだ?まずレイはそこからして疑問を持っていた。そして女は溜息をついた。
「もう死ぬのよあたし。余命半年。」
そして、コツンと音を立ててグラスをテーブルに置いた。
「病気か。だったら病院に要相談だ」
「ダメよそんなの。父さんが許さない」
女は首を真横に振る。まー当たり前だわなー、とレイは頷いた。
「今まで家庭なんて省みなかったくせに、いざとなると親のふりして。」
「いや、ふりじゃなくて、親だから。」
レイは即座に突っ込みを入れた。
「親父だってな、本当はお前に構いたいんだぞ。だが家族のために働いているんだ。そこをわかってから死んでも遅くないんじゃないの?」
と、殺し屋とは思えないほどレイは至極全うなことを言う。
「でも、痛いんだもん。」
女は頬を膨らませ、両腕を伸ばした。なるほど注射針の跡が赤く点々と女の肌を蝕む。年頃の娘にはさぞかし拷問だろう。レイは女の腕に視線を這わせつつ思った。皮肉なことに、カーテンをすり抜ける日光が女の肌を照らしていた。
「てかお前いくつ?」
「18。」
「若けー。」
もったいねーな。レイは思ったが口には出さなかった。そして思ったことをアイスティーとともに飲み干そうとしたが、すでにグラスの中は空だった。
「あたしの父さんは、殺し屋失格よ。他人は平気で殺すくせに、娘には甘い。」
「?」
殺し屋?
レイはぴくりと体を動かし、女に咄嗟に聞き返した。
「殺し屋?親父が?」
「何よ怖い顔をして。」
女はレイの表情の変化をせせら笑った。
「やっとあたしの話を聞いてくれるの?」
「聞いてたわ。」
レイは言った。
ここは、大西洋にポツリと浮かぶセノバ共和国。
石でできた家に住み、主な人種は赤毛を持つ白人が占める小さな島国だが、近年商業化し、首都バリスは高層ビルが立ち並ぶ大都会と化した。この国の夏は暑い。車で郊外を走れば、昔懐かしい石畳とオリーブ畑が風にそよぐ。青い海に白い町づくりはよく似合っていた。
中南米の中では経済的にも豊かなセノバには、他国からの出稼ぎや観光客も多い。人はこの広大な海に楽園という名前をつけた。それもそうだろう。眩しい日差しに紺碧の漣、白い石畳の坂道にオリーブとオレンジの爽やかな香り。これを嫌いな人はまずいない。
だがしかし、それはセノバのただの表面的な部分である。近代化による自殺件数と過労死件数の増加、いじめや他人種に対する差別などがこの国の土台として強く根付いていた。
そこで、セノバの権力者達は世にも恐ろしい愚策を講ずる。
それが国公認の殺処分制度である。 厳しい試験を受け合格したものは、国家資格で殺し屋として認定されて働くことができる。その世界の頂点に立つ男が二人いた。
「あたしの名前はミモザ・マスタング。あなたなら知ってるでしょ?レイ。」
「....」
そう。マスタングとレイである。
「マスタングのやつ、こんな大きい娘がいたのか。あいつももう、いい年だしな。」
レイはふと小声でぼやいた。
「そうよ。」
女ことミモザは胸の前で腕を組みつつ頷いた。腕を組む仕草は相手に心を開いていない、自己防衛の仕草だ、レイは思った。
レイはミモザの外見にライバルの姿を思い浮かべた。
年はレイよりかなり上だった。セノバの田舎町ジェフの生まれ、先祖代々続く葬儀屋の一人息子だ。学生時代から総合格闘技が好きで大会にも名を連ねた。赤い髪にがっちりとした逞しい体、ガハハと豪快に笑う、気の良い田舎の中年男だった。 マスタングとレイとの勝負は未だ決着がついていない。いや、むしろつけないことにしていた。 殺し屋の世界で決着がつくのは、死ぬ時だからだ。レイはそう耳にこびり付くほど教わった。
親父にそっくりだな。ま、可愛いじゃん。レイはミモザを見て思った。
「あたしの父さんより腕の立つ殺し屋なんていないでしょ?釣り合うのはあなただけよ。」
「じゃあ、尚更断るしかねーな。」
レイはあっけらかんと答えつつ、テレビ画面の左上の時刻を見た。まだ8時過ぎ、ミモザが家に押しかけて来て1時間も経っていなかった。
「何でよ?」
ミモザは不満そうにレイを見つめた。
「あいつを敵に回すわけにはいかん。」
レイはソファーからすっくと立ち上がり、テーブルの上のグラスを両手に持った。
「どうして」
ミモザはいささか不満そうに言った。その発言は今後のレイの運命をガラッと変えてしまうほどの力を持っていたことを、この瞬間のレイには知る由もなかった。
「あなたのところに行けって、父さんが言ったのよ?」
ミモザはクッションを抱きかかえつつ、得意気に言った。
「はぁ!?あ、やべ」
ミモザの一言を耳にした途端に、レイは耳を劈くような大声を出して、つい冷蔵庫から取り出したアイスティーの入ったポットを落としそうになった。
「おい、聞いてねーよ!」
レイは目をパチパチさせた。
なんちゅー無茶ぶりだよ。あんな慎重な性格のあいつがそんなこと、するわけないのに...レイは携帯電話を探した。
「え?父さん、連絡したって言ってたけど?あなたの居場所まで教えてくれたし。とりあえずバリスに日本人なんてレイしかいないって...」
あ?
何だって?
日本人だって?
ミモザの一言でレイの忌々しい記憶が、オートマチックに脳内に駆け巡った。
「....」
ミモザは口を閉じた。表情こそ変えてはいなかったが、レイはキッチンカウンターにポットを力強く置き、鋭い目付きでミモザを睨んだ。
「お前の親父は俺にそのことを言うなと教えていなかったか?」
「ごめんなさい。」
ミモザは謝った。
セノバの激しい人種差別は、ミモザもよくわかっていた。もちろんミモザはそのつもりで言ったのではない。だが、セノバ人のミモザが言うから余計角が立っているところもあった。
「いや、すまん。俺が勝手に気にしているだけだから。お前がそんなつもりで言ったのではないって、わかってるから。」
レイはふっと一息ついて、ポットを持った。この子に八つ当たりするなんておかしい。レイは正気に戻った。
「確かにバリスに日本人なんていないもんな。」
気を取り直してレイはポットのアイスティーをグラスに注いだ。コポコポと可愛らしい音が空間に響いた。
「ほら」
レイはアイスティーの入ったグラスを両手に持って、ミモザの前に置き、もう一度ソファーに腰を下ろした。そしてふと目を細めた。赤道に近いこの国の日差しは容赦無くレイの目に攻撃を仕掛けた。
「いただきます...」
ミモザの動きはちゃちなロボットみたいにぎこちなかった。手を伸ばし、グラスをゆっくりと掴んだ。そしてそのまま、レイの横顔を眺めていた。
サラサラの黒い髪に、切れ長で黒い瞳、細い輪郭と華奢な体は太りがちなセノバ人とは違う体型だった。
「あいつは愛想がないし冷めているけど、いい男だ、きっとお前を守ってくれる。バリスまで行く価値はあるぞ。」
ミモザはマスタングの言葉を思い出した。
「あ、悪い、メール来てたわ。」
ミモザがぼんやりとしているその横で、レイは隣で携帯電話を見ながらつぶやいた。
「ほら、やっぱり。」
レイの独り言を聞き、ようやくミモザは笑った。同時に丸い目をくしゃっとさせ、レイを見た。お世辞でも美形ではないが可愛らしい童顔で笑顔が眩しい。そんなところまで、腹立たしいほどマスタングにそっくりだった。
...マスタングのやつ、何考えてんだよ...
とブツブツ文句を垂れつつ、レイはミモザの次にスペイン語でつらつらと書かれたメールを見た。
「親友・サトシへ。相変わらず女っ気のない生活を送っているのだろう?
突然だが、うちの娘を頼む。病に倒れて、毎日病室に篭り切りだったがら最近ようやく退院してな。しかも日本に興味を持っていて、日本語の勉強を始めたんだ。じゃじゃ馬で、俺が言うのも何だがな、素直な子だ。」
なーに言ってんだこの親バカじじいは。レイはふと苦笑いをした。
「サトシ、ただ一つ、注意してほしいことがあるんだ。それはまた、追って連絡する。」
....
レイは最後の一文を読み、キュッと口元を引き締めた。
なるほどね。
マスタングの言葉の意味は何も言わなくてもよくわかっていた。レイの本名を唯一知るほどのツーカーの仲は伊達じゃない。レイは指先に力を込めて、携帯電話を握りしめた。