第十話「平穏そして異変」
アークレイへ来てから、ひと月経った。
アイリスが手紙を携えながら、部屋に戻ってきた。
「ご両親から?」
「はい」
アイリスが嬉しそうに返事する。今はフォークナー邸にて、夫婦水入らずで暮らしているはずだ。
今は、ランスロットからの依頼で、しばらくアークレイに留まることが決まっているので、手紙のやり取りを再開したようだな。
俺は初めてアイリスとその両親に会った時を思い出す。
「もう八年も前なのか」
「そうですね」
あの時は、出会って終わりだと思っていた。まさか、こんな長い付き合いになるとは思ってもみなかった。
あの時の印象は、我ながら最悪だと思ったしなー。あの頃はまさに反抗期だった。あんな感じにひねくれたのは一度や二度じゃない。今思い返せば、赤面ものだ。
ただ、彼女たちからすれば違ったようだ。後から聞いた話だと、家族の恩人ということで随分といい方へ解釈してくれたらしい。
だからといって、辺境伯令嬢としての安定した毎日とは程遠い、俺の世話やら依頼の確認やらやるような日々に入ってくるとは予想外だったが。
「また、カルを屋敷へ招待してくれって」
「そうだなぁ」
何度かお邪魔したことがある。初対面の時とは比べ物にならないほど良好な関係を築けた気がする。
夫人も呪われて嫌悪されてしまったから、ああいう態度になってしまった。
普段の彼女は、非常におしとやかな女性だった。夫とともに俺に対して敬意をもって接してくれる。
カルヴィス・フローベルは公式に死んでいる。墓だって立っている。両親のそれの隣に。
爵位継承権もないただの若造だとか、そんなことを言っても、アイリスの両親が態度を変えることはなかった。
少し物思いに沈む。
傭兵になるまでの間、アーサーが集めてくれた魔術書を一通り漁ったが、眠り病を打破するきっかけになるような記述は見つからなかった。
傭兵になれば何かつかめるかもと思ったが、そもそも俺は眠り病のために長期的な依頼が受けられない。
短期の依頼の中でも困難なやつはいくつもあったが、糸口となるようなものは皆無だった。
結論、やる気が失せた。
「しばらく伺ってないしな。ここが片付いたら、傭兵稼業はしばらく休業してまた行くか?」
アイリスが満面の笑みで「はい」と頷いた。
俺もつられて微笑んだ。
傭兵といえば【サジタリアス】だ。
深夜の決闘以来、【サジタリアス】はおとなしかった。
粛々とガルム討伐の任務をこなすだけ。顔を合わせれば必ず口げんかが始まるエレインでさえ、俺を避けている節がある。
まぁ俺としては、非常に助かっている。余計な気疲れがなくなるのだから。
ただ、噂の【悪鬼】は、俺もランスロットも目撃していない。
アークレイについてすぐに黒炎の解呪をやったことがあったが、被害者は黒炎を受けただけで戦っていない。
【悪鬼】を目にし、戦って生還した者は一人もいない。
どの程度の化け物なのか分からない。
ガルムは時折襲撃してくるが、【悪鬼】はまったく姿を見せない。それがやや不気味だった。
兎にも角にも【悪鬼】が現れないので、黒炎の治療をする必要がなく、ガルム戦で負傷した戦士や、難病を患った市民を治療する任務が主体となっていた。
【サジタリアス】のような華々しい活躍はないが、【レオ】の評判は着実に上がっていった。
患者として市民と接する機会が多いので、親近感も湧いたのかね?街中を歩いていると声をかけられることも多くなってきた。
人付き合いが苦手なので、無愛想にならないくらいに会話するのに苦労したけども。
【レオ】の評判が上がるので、俺をここへ呼び寄せたランスロットやアーサーの人気も自然と今まで以上に高まる。
順調だな。
「そういえば、さっきランスロット様とお会いしまして、ほとんどの医術師が問題なく黒炎の治療術を修めたとのことです」
以前、ランスロットへ報告書を提出し、施療院まで行って実演したこともある。
幻術の解除。【悪鬼】が生み出す魔毒の解毒術。総じて、黒炎の治療術となる。
それぞれの術式を公開し、一通り展開してみせたら、驚きながらもアークレイの医術師たちは納得した。
医術師の連中に会うのは、今回が初めてってわけじゃないし。
「まぁ、あいつらならできるだろうよ」
アイリスが若干棘を含む。
「最初はやたら突っかかってきましたよね」
フローベル侯爵領の医術師として、どいつもこいつも無駄に高いプライドを備えていた。
「俺の魔術講義が始まったよな。しばらくしてから、奴らの価値観や常識が音を立てて崩れたような気がしたわ」
その時の驚愕や諦念の表情は、実に見物だった。なんせ、自分らの半分も生きていない少年から論破されまくったのだから。
それ以来、医術師たちはどちらが格上か分かったので、攻めようという気勢が見事に殺がされた。
従順とはいかないまでも、俺の言葉に傾聴する場面は多くなった。特に、解呪の術式について。
「獣化の呪いや老化の呪い。他にもたくさんありましたが、特に厳しいのがこの二つでしたね」
本当に、様々な術式を公開してきた。我ながらすげえと思う。
「ああ。それらの解呪の術式も提供して、扱えるようになってるんだ。黒炎はそれ以上に厄介だけど、あいつらにできないことはないだろうさ」
今のところ、問題は起きていない。これからもそうであるように願った。
いつものように魂を召喚され、意識を取り戻すと、目の前に湖がある。
今度は湖のほとりらしい。周りは木々に囲まれている。隠れた憩いの場ということか?
今回は、メデューサを探す必要はなかった。
湖の中で、水浴びをしてるのだから。
「どうじゃ?共に水浴びせぬか?」
「いや、いい……」
ため息がもれた。
メデューサが甘い声で誘惑してくる。
「そんなこと言わずに。めくるめく官能の世界へ誘ってやろうぞ」
引き込まれそうになるから、その情熱的な眼差しはやめてくれ。
蠱惑的な笑のせいで、一瞬だけ想像してしまった。
いやいやいや!落ち着け、俺!目の前にいるのは伝説の魔人。恐怖の呪術王。絶世の美女――
って、ちげーよ。俺。
確かに官能の世界にたどり着けるかもしれないが、下手したら髪蛇が巻き付いてくる。
絞め殺されるのは嫌だし、それがないとしてもそんな官能の世界なんてゴメンだ。そんな特殊な性癖はない。
そんな変態にはなりたくもない。
「冗談じゃないつーの」
メデューサは分かってるという風に、鷹揚にうなずいた。
「大丈夫じゃ。病みつきになってしもうたら、ちゃんと責任をとるでな」
「全然、大丈夫じゃねー!」
鼻息荒く、断った。鼻息が荒いのは興奮してるからじゃない。明確な拒絶だ。絶対に。
微妙に噛み合わない会話を、この女は心底楽しんでるからたちが悪い。
メデューサが残念そうに、
「ふむ。そこまで初心なら仕方がない。次の機会に回すとしよう」
次の機会が回ってこないことを、神に祈った。ちなみに、初心だとかいう発言は完璧に無視だ。
「ったくよー」
おかしい。最初のうちは恐怖しか感じてなかった。
メデューサにしても、獲物としかみてなかったはずだ。
それが、いつの間にかこんな関係性になっちまった。この魔女の俺を見る目が変わったように思うのは気のせいか?
これじゃ、まるで友達以上恋人未満ってやつじゃん。
そんな昔なら考えられないのどかな雰囲気にあてられたのか、俺は油断していた。多分、メデューサも。
突如、異音が響き渡る。
不安を掻き立てるような警告音。
今までこんなことは一度もなかった。会話の時も、戦闘の時も。
メデューサ自身、呆然としていたが、やがて強張った顔でこっちを睨み据える。
「おぬし、今やばいのを相手にしておるのか?」
メデューサがかつてないほど険しい表情を見せている。俺はその様に驚愕を隠せない。
やばいの。考えるまでもなく、【悪鬼】のことだろう。十中八九間違いない。
何だ?【悪鬼】が攻めてきたってことか?
焦燥感が沸いて出た。
正直に話すべきか?
「初めて聞いたじゃろ?今の警告音は、眠り病の非常事態を知らせるものじゃ」
「非常事態?」
今の俺でさえ規格外と言わずにいれない、眠り病の非常事態ってなんだよ?
思わずオウム返しに尋ねると、メデューサは重々しく頷く。
「うむ。実のところ、妾も初めて聞く。あらゆる可能性を考慮して設定したものの、イレギュラーと呼べるのは結局、お主だけじゃったからのぅ」
さっきまでとは違い、空気が張り詰めている。メデューサは戦闘の時にも見せない険しい表情だ。
俺はもはや戦々恐々としている。
「で?」
「うむ。知っての通り、お主は魂だけがこの夢幻世界へ召喚されておる。本来だったら、お主の魂を我がものとして終わりなのじゃが」
俺は黙って続きを促す。
「取り込むまでの間、お主はここと現実界を繋ぐ存在じゃ。つまり、お主を介せば他者がここへ侵入することが不可能ではなくなる」
なるほどな。それはメデューサが望まぬ事態だ。
「その予防措置として、召喚者は一定以上の魔力を保持する者を除外する。保持してなくとも、周囲に該当者がいる場合も同様じゃ」
つーことは、
「たった今、俺の周りにその該当者が現れたってことか?」
メデューサが肯定する。
「うむ。召還してから取り込むまでの間、該当者が出現した場合、今のような警告を出すよう設定しておいたのじゃ」
合点がいった。ただ、もう一つ確認しなきゃならないことがある。
「一定以上の魔力保持者ってのは、具体的にどれくらいだ?」
そんな制約を設けていたのに、覚醒者であるアーサーやランスロット、アイリスが引っかかっていない。仮にも覚醒者なのに。
「ふむ。精神界への到達者というだけでは足らぬ。魔人というだけでも足らぬ。端的に言えば、お主以上じゃな」
重いため息が漏れた。マジかよ。
「で、どうなのじゃ?心当たりはあるかの?」
「ああ。一人――っていうか、一体いる。魔人としか分かってねーけど」
メデューサは少し沈黙する。
「……そうか。事態は急を要する。そやつが何者かは分からぬが、お主はこれから強制送還する。そして、そやつが半径一キロ以内にいる場合は眠り病は発動せぬ」
眠り病が発動しないケースがあるのか。毎日毎日、この世界に召還されていた俺は唖然としてしまった。
いや、違う。思い直した。
そうまでしなければならない。それほどの事態であり、それほどの敵なんだな。
「分かった」
俺は言葉少なに返した。
送還される直前、メデューサが声をかけてきた。
「お主は妾のものじゃ。必ず戻ってくるのじゃぞ」
勝手に召喚して、勝手に送還。さらに、また召還されろって話だが、もはや苦笑するだけだ。
こいつとのやり取りが俺の日常になってしまったのだから。
それに、メデューサの表情はいつもの高慢なそれではなかった。非常に珍しいことに、心配そうだ。実は初めてかもしれないな。
だから、俺は言ってやった。
「俺と対等以上なのは、お前だけだ」
不安げな表情から微笑へ一転させて、メデューサは俺を現実界へ帰還させた。