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「芽衣ちゃん、このあと少し時間ある?」


 翌日、金曜日。昼休み前の四時間目の漢文の授業の後、恵理子先生に声をかけられた。月曜日に自分の気持ちを晒してしまった後、授業で会っても気まずくて、ただのひと時も視線を合わせないようにしていた。でもこの時ばかりは、突然名前を呼ばれてはっと先生の目を見てしまった。


「は、はい」


 迷ったけれど、先生の目を見つめたまま頷く。先生は「良かった」とほっとしたように微笑む。それから「ついてきて」と私を手招きした。

 教室を出る瞬間、横目で実夏と目が合った。彼女は「頑張って」と口パクで合図を送ってきた。何でもお見通しという感じがして、くすぐったさに笑みが溢れた。


 先生と向かったのは、国語科の資料室だった。昨日の進路指導室と同じで、埃っぽさがあり、少しだけむせる。「大丈夫?」と先生が窓を開けた。これも、昨日と同じ流れで苦笑した。


「座って」


 長机が並んだ空間に、椅子が四つ設置されていて、その一つに腰掛ける。

 先生は私の正面に座った。説教でもされるかのような構図で、胸にぴりっとした緊張が駆け抜ける。何を言われるんだろう。心臓の鼓動がどんどん速くなって、はち切れそうになった。


「月曜日のことなんだけどね。先生、無神経なこと言ってごめんなさいね」


 湿り気を帯びた声で先生が突然謝った。驚いてぽかんと口を開けてしまう。先生が何か悪いことをしたとは思えない。確かに悔しかった。「きっと、実夏ちゃんはすごく努力をしてるから、悔しかったんでしょう」と言われて、心が決壊した。でもそれは、私の歪んだ実夏への嫉妬心がそうさせたのだ。先生は私の気持ちに無自覚だったのだから仕方ないじゃないか。今更謝られたって、どうしたらいいか分からない。


 私が戸惑っているのを察したのか、先生は再び口を開く。


「芽衣ちゃんはずっと悔しかったのよね。私は、芽衣ちゃんの気持ちに気づいてなかったの。二位だって立派な成績だから、まさかあなたが、二位であることをそこまで悔やんでいるなんて思ってなかった。私はね、実夏ちゃんのことも芽衣ちゃんのことも、どちらも努力しててすごいと思ってるの。どちらかが一番なんて思ってないわ。二人とも目標に向かって頑張れる、素敵な子たちだわ」


 先生の言葉が、胸に深く浸透して全身が震えた。

 どちらかが一番なんて思ってない。

 その言葉が、深い慰めであると同時に、私の胸をこれ以上ないくらいに抉った。


 私は、先生の一番になれないのだ。

 先生が私と実夏に抱く想いは教師として当たり前に立派なものだ。特定の生徒を贔屓しない。私のことを「芽衣ちゃん」と呼んでも、実夏のことを「実夏ちゃん」と呼んでも、どちらかが好きだというわけではない。それは、他の生徒に対しても同じことだ。苗字で呼ばれている他の生徒と、私たちと、何も変わらない。ただちょっとだけ、先生と親しいだけ。

 その事実を突きつけられて、呼吸の仕方を忘れたみたいに、息が止まった。


「恵理子先生は……私のこと、どう思ってますか」


 苦し紛れに口から溢れでてきた言葉に、今度は先生がはっと息をのんだのが分かった。答えをもらえないことは分かっていた。だからこそ、聞いてしまったのだ。

 言うしかない。今しかない。今ここで、息の根を止めてもらわなければきっと、私はこの先前を進むことができないから。だから、ごめんなさい、とそっと心の中で呟く。


「私、先生のことが好きです。尊敬とか憧れとかじゃありません。先生の一番になりたい、特別になりたいって思ってます」


 静かな資料室に響き渡る私の告白の声は、墨汁をたっぷり含んだ筆みたいにじとじと湿っていて、爽やかさの欠片もなかった。自ら泥水の中に足を突っ込んで、ぐちゃりとした感触に顔を歪める。

 恵理子先生はただ、私の目を見つめて、泣き笑いのような表情を浮かべた。

 

「ごめんなさい」


 先生のひたたひの声が、私の胸を真っ直ぐに貫いて、鈍い痛みを運ぶ。

 いいんです。だから、謝らないで。

 頬を伝う涙が、顎から私の衣服へと滑り落ちる。透明な涙は洗ったら取れるから大丈夫。うん、大丈夫だ。


「芽衣ちゃんの気持ちには薄々気づいてた。でも、気づかないふりをしていたの。さっきも言ったけど、芽衣ちゃんのこと、努力家で素敵な子だって思ってる。芽衣ちゃんなら絶対に目標を叶えられるって信じてる。だからこれからも私の……自慢の生徒でいてね」


 ほろり、ほろり、と流れる涙をブレザーの袖で拭った。

 私は、先生の一番にはなれなかった。でも、先生の心の真ん中にいられるって信じる。そこは、私だけの特等席ではない。その事実が苦くて切なくて、どうしようもなく胸は疼くけれど、先生が私に対して、精一杯向き合おうとしてくれているのは感じたから。


「もちろんです。来年の春、T大に合格しましたって報告します」


 切なさに歪んでいた先生の眉と瞳がぱっと開かれる。安堵の笑みがどんどん広がって、私自身、胸に仄かな明りが灯るのを感じた。


「期待しているわね」


 いつもと変わらない、先生の柔らかな声が資料室に充満する。その余韻を確かめるかのように、すっと目を細めて、大きく息を吐いた。


「先生、あとちょっと、相談があるんです——」


 

***


 週が明けて、月曜日。

 放課後の書道部の部室で、顧問の先生から渡された書類をじっと見つめる。副部長の実夏が、真剣なまなざしで私の手元を凝視している。他の部員たちも、私が書類に目を通して結果を読み上げる姿を、食い入るように見つめていた。静寂の横たわる書道部室で、墨の香りと実夏の息遣いだけが近くに感じられた。


「実夏、最優秀大賞おめでとう」


『全国高校生書道コンクール選考結果』と書かれた冊子の表紙をめくり、一番最初のページに現れた彼女の名前を見て、ほっと心が凪いだのが分かった。

 隣のページには、「優秀大賞」の一覧に載っている自分の名前を見つけた。

 その二つのページを見比べて、不思議と心が落ち着いているのはきっと、実夏の心の深淵に触れたから。

 彼女は決して天才ではなかった。

 私以上に人知れず努力をして、人並みに嫉妬をして、泥臭く、必死に歩いていた。

 彼女の身体からふわりと漂う墨の香りが物語っている。コンクール用に実夏が書いた作品は、私が前日まで必死に粘って書き上げたのと同じぐらい、洗練されたものだっただろう。一週間前に「これ以上のものは書けない」と言い切れるぐらいに、彼女が作品と向き合ってきたことが分かったから。

 だからもう、悔しくはない。

 ……いや、ほんの少しは悔しいけれど、悔いはない。


「芽衣も、優秀大賞おめでとう。さすがだね」


「実夏に比べたらまだまだだよ」


 実夏が、儚げに笑うのを見て、安心している自分がいた。実夏から一番を奪わなくて済んだことに。彼女と対等に笑い合えていることに。


 それから私は、他の部員たちの成績を読み上げた。

 賞をもらっている人もいれば、そうでない人もいた。でもみんな、自分の作品と一生懸命向き合ったのは事実だ。悔し涙を流している人もいたけれど、みんなでまた頑張ろうと意気込んだ。


「あのさ、実夏」


 一通り、コンクールの結果への反省が済んだ後、私は実夏に声をかけた。みんな、それぞれ新しい作品を書くために机に向かっていた。


「何?」


 くるりとした純なまなざしをこちらに向ける。私は胸に手を当てて大きく決意をしたあと、ゆっくりと口を開いた。


「実夏、一緒にT大に行こう」


「へ?」


 間抜けな顔の実夏が目を丸くした。


「この間、恵理子先生に相談したの。返済不要の給付型の奨学金があるんだって。その奨学金をもらうにはいくつか条件があるみたいなんだけど、実夏ならきっと大丈夫。行きたい大学はないって言ってたけど、本当はT大に行きたいんだよね? 分かるよ、親友だもん。だからさ、諦めないで目指そうよ。それで、大学でもずっと……私の友達でいて」


 実夏の顔が、驚きや、喜びや、痛みや、切なさで、どんどん色を変えた。万華鏡のように変わる彼女の表情を、私は一つも見失うまいと見つめ続けた。

 やがて彼女が、ふっと息を吐いて、頬を綻ばせる。両方の瞳にはうっすらと涙が滲んでいた。


「……うん」


 深く頷いた実夏を見て、思わず歓声を上げそうになった。

 これからの一年間、実夏と一緒にT大を目指せることが嬉しくて、胸に甘やかな感情が広がっていく。

 一位になれなくたって、もう怖くない。

 実夏の隣にいられるなら、順位なんてどうでもいい。

 彼女が私にくれた穏やかな時間と、本音をぶつけてくれた時の衝撃と痛みを思い出して、微笑み返す。

 私たちはこれからもきっと何度もぶつかっていくだろう。でも仕方ないじゃない。思春期だし。人間だし。嫉妬ぐらい誰だってするよ。 

 そんなことよりも、今この手のひらの中にある彼女との幸せな日々を想えばいい。

 私たちはいつだって、“実夏と芽衣”であり続けるのだから。


天涯比隣(てんがいひりん)


 今日の活動が終わり、彼女がコンクールで書いて出した言葉を心中で呟きながら、部室を出た。外は小雨が降り始めていた。私は傘をさして、空を見上げる。灰色の雲の隙間から一筋の光が差し込み、まるで新しい道を示しているようだった。



<了>


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