絵本から日本に落ちてきた夜、君と恋をした
森の奥深く、月明かりだけが差し込む古い木の家で、リシアはいつものようにその一冊を開いていた。
表紙は擦り切れ、ページは黄ばんでいる。それでも、描かれた絵は色鮮やかで、リシアの心を何年も掴んで離さない。
高い鉄の塔、きらめく光の海、無数の乗り物が走る道、そして笑顔の人々。街灯の下で手を繋ぐ恋人たち、コンビニの明るい明かり、自動販売機から出てくる冷たい飲み物、ラーメンの湯気、プリンの滑らかな食感……すべてが、リシアにとっては夢のような世界だった。
「日本……」
リシアは小さく呟いた。エルフの里では、誰も知らない国。古い伝説の本にだけ載っている、遠い遠い世界。
長い銀色の髪を指で梳きながら、リシアはページをめくるたびに胸を高鳴らせていた。森の仲間たちは自然の魔法や弓の技を磨くことに夢中だが、リシアだけは違う。この絵本が彼女の秘密の宝物だった。
「いつか、行ってみたいな……本物の日本を、自分の目で見てみたい」
強く、強く願った瞬間だった。
世界が歪み、光が彼女を包んだ。体が浮くような感覚、耳鳴り、そして突然の冷たい風。
次の瞬間、リシアは硬い地面に膝をついていた。
「……え?」
周囲は闇ではない。無数の光が、星のように、宝石のように、降り注いでいる。遠くで低い轟音が鳴り、何かが高速で通り過ぎていく。空気には、森とは全く違う匂いが満ちていた。鉄と油と、食べ物の甘い香り、そして人の熱気。
リシアはゆっくり立ち上がり、震える足で歩き出した。尖った耳を隠すフードを深く被りながら、周囲を警戒する。
ここは公園だった。ベンチが並び、街灯が優しく照らす場所。でも、そこにあったのは絵本で見たものそのものだった。自動販売機のカラフルなボタン、コンビニの明るい看板、遠くに見えるビルの群れが夜空にそびえている。
「ここは……本当に、日本?」
声が震える。嬉しさと恐怖が同時に胸を締めつけた。夢ではない。足元のコンクリートの冷たさ、手に伝わる風の感触、すべてが現実だった。
しかし、すぐに現実は彼女を襲った。言葉はなぜか通じるのに、周りの人々は誰も彼女に気づかない。スマホの光に目を奪われ、通り過ぎていく。リシアはベンチの陰に隠れ、膝を抱えて震えていた。
寒い。森の夜とは違う、コンクリートの冷たさが体を凍らせる。
「どうしよう……帰れないの? 一人で、どうしたら……」
涙がこぼれそうになったとき、足音が近づいてきた。
「大丈夫?」
男の声だった。穏やかで、少し疲れたような、それでいて優しい声。
リシアが顔を上げると、そこに立っていたのは二十代後半くらいの日本人男性だった。スーツ姿で、ネクタイを少し緩めている。疲れた顔をしているのに、目だけは心配そうにリシアを見ていた。
「え……と」
リシアは言葉に詰まった。耳が隠れているフードを無意識に押さえる。
男性──悠真は、ゆっくりとしゃがみ込んで目線を合わせた。
「コスプレ? でも、こんな時間に一人でどうしたの? 寒くない?」
悠真は自分のマフラーを外し、リシアの首にそっと巻いた。温かかった。人の体温が残っているマフラーは、柔らかいウールの感触で、リシアの心を少しだけ解した。
「ありがとう……ございます」
リシアの声は震えていた。悠真は少し驚いた顔をした後、優しく微笑んだ。
「ここは東京の公園だよ。家に帰れないの?」
リシアは首を振った。どう説明すればいいのかわからない。「異世界から来たエルフです」と言うわけにはいかない。
悠真は少し考え、それから立ち上がった。
「とりあえず、こんな時間に女の子一人で危ないよ。俺の家、近いから。温かいもの飲ませてあげるよ。嫌なら警察に連れてくけど……どう?」
リシアは戸惑った。でも、この人の目は嘘をついていない。森で育ったエルフの勘が、そう告げていた。温かさと誠実さが伝わってくる。
「……お言葉に甘えても、いいですか?」
悠真はにこりと笑って、手を差し出した。
「もちろん。ほら、手」
リシアはその手を握った。大きくて、温かくて、少しごつごつした手だった。仕事でパソコンを叩く手だろうか。指先に薄いタコができている。
初めて触れる、日本人の手。
心臓が、どきんと鳴った。なぜか、安心感が全身に広がった。
公園を出て、街灯の下を歩きながら、リシアは何度も悠真の手を見た。離したくないと思った。怖いはずのこの世界で、唯一の支えだったから。
道中、悠真は自然に話しかけてくれた。
「名前、教えてくれる?」
「リシア……です」
「リシアか。珍しい名前だね。俺は悠真。よろしくね、リシア」
悠真が笑う。その笑顔が、絵本で見た日本人そのものだった。優しくて、少し照れくさそうで。
マンションに着き、エレベーターで上がる間も、リシアは悠真の横顔を盗み見た。疲れているのに、なぜ自分なんかに声をかけられたのか。不思議でならない。
部屋に入った瞬間、リシアは息を飲んだ。
テレビ、エアコン、電子レンジ、冷蔵庫。キッチンの流し台には洗剤のボトルが並び、冷蔵庫にはマグネットでメモが貼ってある。すべてが絵本で見た通りで、それ以上だった。生活の匂いがする部屋。
悠真はコートを脱ぎながら、キッチンでお湯を沸かし始めた。
「とりあえず、ホットココアでも飲む? 甘いけど、温まるよ」
リシアは頷いた。ソファに座り、マフラーを握りしめる。悠真の匂いがする。石鹸と、少し汗ばんだ男の匂い。
ココアを差し出され、一口飲む。甘くて、ミルクのまろやかさが口いっぱいに広がった。
「美味しい……」
目を潤ませて呟くと、悠真は少し照れくさそうに笑った。
「よかった。……で、リシアはどこから来たの? こんな時間に公園でどうしたの?」
リシアは慌てて言葉を探した。
「遠くから……急にここに来ちゃって。帰る方法がわからなくて」
悠真は首を傾げたが、深く追及しなかった。
「まあ、今日はゆっくり休んで。明日考えよう」
その夜、リシアはお風呂を借りた。シャワーのお湯がすぐに熱くなり、石鹸のいい匂いがする。鏡に映る自分の姿──銀髪に尖った耳──を隠す方法を考えながら、体を洗った。
出てきたとき、リシアは悠真から借りた大きめの白いTシャツとジャージを着ていた。肩が落ち、裾は太ももの中ほどまである。ジャージも紐をきつく結んでなんとか履いている。
恥ずかしくて顔を赤らめながら部屋に戻ると、悠真はコーヒーを飲む手を止めて、ちょっと固まった。
「……似合ってる。すごく可愛い」
本音がポロリと出てしまい、悠真は慌てて咳払いをした。
「いや、ほんとに。大きすぎて、なんか……守りたくなる感じだよ」
リシアはそれを聞いて、胸が熱くなった。森では誰もそんな言葉をかけてくれなかった。いつも一人で絵本を読んで憧れていただけなのに。
「ありがとう……悠真さん」
その後、二人は深夜のコンビニに行くことになった。
「腹減っただろ? 何か買おう」
店内に入ると、リシアは興奮を抑えきれなかった。おにぎりのコーナーで立ち止まり、からあげくんを見て「これ、熱いの!?」と驚き、プリンの棚で「全部違う味……!」と目を輝かせる。
悠真はカゴを持って、後ろから微笑みながらついて行く。
「お腹空いてるだろ? 好きなの選んで」
リシアは恥ずかしがりながらも、おにぎり二個、からあげ、プリン、ホットスナックをいくつか入れた。悠真はビールと自分の分も追加して、レジへ。
部屋に戻って、二人で床に座って食べ始めた。
リシアはおにぎりを一口かじって、目を潤ませた。
「美味しい……海苔の香りと、お米の甘さ……絵本で想像してた以上に」
からあげを食べると「熱っ! でも、ジューシー!」と嬉しそうに笑う。プリンをスプーンで掬う手が、少し震えていた。
悠真はそんなリシアを、ただ見ているだけで幸せな気分になった。
「よかった、気に入ってくれて」
食べ終わると、時計はもう深夜一時を回っていた。
テレビをつけ、深夜のアニメ再放送を見ながら、二人はソファに並んで座った。
リシアは最初、画面に釘付けだった。動く絵本。声も出ている。
「これが……アニメ……」
でも、だんだん疲れが来たのか、目がとろんとしてきた。
悠真はそれに気づいて、そっと肩を貸した。
「疲れただろ? 寄っかかっていいよ」
リシアは少し躊躇したけど、結局、悠真の肩に頭を預けた。
Tシャツから伝わる悠真の体温。少し汗ばんだ匂いと、石鹸の香り。
安心する匂いだった。
「悠真さん……ありがとう」
小さな声で呟くと、リシアはそのまま眠りに落ちた。
悠真は動けなかった。肩に預けられた銀色の髪が、さらさらと頰にかかる。長い睫毛、穏やかな寝息。
(可愛すぎる……どうしよう)
心の中で呟きながら、悠真はそっと毛布を二人にかけた。
テレビの光が、二人を柔らかく照らしている。
リシアは夢の中で、また絵本のページを見ていた。
今度は、そこに悠真がいた。
コンビニの明かりの下で、一緒におにぎりを食べている自分たち。
肩に寄りかかって、眠っている自分。
新しいページが、どんどん描かれていく。
この国で、恋が始まろうとしていた。
翌週末、悠真はリシアを秋葉原へ連れて行った。
「今日はデートみたいに楽しもうぜ」
電車の中で、リシアは窓の外の景色に目を奪われていた。ビルが次々と流れる景色、満員電車の人々の様子。
秋葉原に着くと、人ごみの波に飲み込まれそうになった。
悠真は自然にリシアの手を握った。
「離れると迷子になるから、しっかり掴まってて」
その手は温かくて、力強かった。一度も離れなかった。
アニメショップでは、リシアはフィギュアやマンガに大興奮。メイド喫茶では「ご主人様、おかえりなさいませ!」と言われて顔を赤くし、悠真は少し嫉妬したような顔をした。
ゲームセンターでクレーンゲームに挑戦し、悠真がぬいぐるみをゲットしてプレゼントすると、リシアは嬉しそうに抱きしめた。
夕方、二人はスーパー銭湯へ向かった。
別々に入浴し、上がった後の休憩所で浴衣姿のリシアを見て、悠真は息を飲んだ。
銀髪が浴衣に映え、頰が上気している。
「浴衣、似合いすぎだろ……反則級だよ」
リシアは恥ずかしそうに微笑んだ。
アイスを食べながら、膝が触れ合う距離で話す。
帰り道、寒い夜風が吹いた。
悠真はリシアを抱き寄せ、上着をかけてやった。
「リシアがいなくなったら、俺どうしたらいいんだろうな」
ポツリと本音がこぼれる。
リシアは涙目で答えた。
「私も……悠真さんと一緒にいたいです。ずっと」
その瞬間、二人は互いに恋を自覚した。
ある日、街を歩いているとき、子供が転んで膝を擦りむいた。
リシアは無意識に回復魔法を使ってしまった。淡い光が傷を包み、一瞬で治る。
周囲がざわつき、スマホで動画を撮られそうになる。
悠真は即座に反応し、リシアをお姫様抱っこで抱き上げ、走って逃げた。
路地裏に隠れて息を整える。
リシアは涙を浮かべて謝った。
「ごめんなさい……迷惑をかけて」
悠真は強く首を振った。
「迷惑なんかじゃない。リシアが無事ならそれでいいよ。俺が守るから」
真剣な瞳で手を握りしめる。
家に戻り、ソファで寄り添う夜。
「何かあったらすぐ俺に言え。一人じゃ危ないから」
リシアは涙をこぼしながら微笑んだ。
「悠真さんがいてくれるから、もう怖くない」
しかし、その夜から、リシアの体が時折淡く光り始めた。
帰還の兆候だった。
光は日ごとに強くなり、リシアは帰らなければならないことを悟った。
最後のデートは、浅草とスカイツリー。
雷門の大提灯を見て興奮し、仲見世で人形焼を食べ、スカイツリーの展望台で東京の夜景を眺めた。
リシアは悠真の手を握りしめて言った。
「絵本以上に綺麗……でも、一番綺麗なのは、悠真さんと一緒にいる時間」
帰り道、公園に戻ったとき、光が最大になった。
リシアの体が浮き上がり、異世界へ引き戻されそうになる。
悠真は全力で駆け寄り、リシアを強く抱きしめた。
「帰らないでくれ! リシアがいない世界なんて考えられない! 俺はお前が好きだ! 愛してる!」
涙を流しながらの告白。
リシアも涙で答えた。
「私も……悠真さんが大好き! ずっと一緒にいたい!」
その強い想いが、魔法の力を上回った。
光は静かに消え、リシアは地面に降り立った。
二人は抱き合い、キスを交わした。
初めての、甘くて深いキス。
それから三年の月日が流れた。
悠真とリシアは小さなアパートで幸せに暮らしていた。
朝のキッチンで、リシアは少し大きくなったお腹を優しく撫でていた。銀髪をポニーテールにまとめ、エプロン姿が愛らしい。
悠真が仕事から帰ってくる前に、朝ごはんを作っている。
悠真が後ろからそっと抱きしめた。
「おはよう。今日も元気か?」
リシアは振り返って、幸せそうに微笑んだ。
「うん。赤ちゃんも、朝ごはんの匂いで喜んでるみたい。蹴ってるよ」
悠真は膝をつき、リシアのお腹に耳を当てた。
「パパだよ。早く会いたいな。お母さんみたいに優しくて綺麗な子になってくれよ」
リシアは悠真の頭を優しく撫でた。
左手薬指の結婚指輪が、朝日を浴びて静かに輝く。
絵本で憧れた国で、リシアは本当の恋と、温かい家族を手に入れた。
これが、二人の永遠の幸せだ
(完)




