「流露」(5)
建物をぶち抜いて現れたのは、手甲に覆われた逞しい片腕だった。
鎧の色は、輝く純白だ。謎めいた大きな手は、エリーの喉首を鷲掴みにしている。とっさにエリーが突き飛ばしておらねば、ハオンが代わりに捕らえられていただろう。
その怪力はとんでもない。小柄とはいえ、エリーの体を軽々と宙に浮かせたのだ。息ができずにもがき、エリーは苦し紛れに空中を散歩している。
暴れるエリーの身体能力をものともせず、筋骨隆々の来客は壁越しに断定した。
「きさまか、組織の逆吸血鬼とやらは」
「!」
轟音が店内を震わせた。
吊るし上げたエリーを、鎧の手があたりの壁という壁に力任せに激突させたのだ。さらには天井、床、棚、また壁。飛び散った木やガラスのかけらが、雪のように闇を舞う。ふつうの人間なら、この段階で肉体がばらけていても不思議はない。
こどものお人形遊びのように手当たりしだい弄ばれた後、エリーは高速で店外へ引き抜かれた。あまたの破片をまとって、暗い地面を勢いよく転がる。
エリーは倒れたまま動かない。さすがに気を失ったのだろうか。全身の鎧を鳴らし、重々しくエリーに突き進むのは鉄靴の足音だ。
「ぬ、ぬう……」
深刻なダメージに身震いしながら、エリーはなんとか顔だけ上げた。唇の端を血が伝う。
わずか数秒で廃墟と化した店から飛び出し、ハオンは見た。
堂々と屹立するのは、頭頂から爪先までを真っ白な鎧で堅めた巨漢の騎士だ。その片腕に提げられた戦鎚の巨大さとくれば、それだけではるかに人間の身長を超える。そして夜風に狂暴なはためきを鳴らす白いマント……その吸血鬼の名前を、ハオンは押し殺した声で叫んだ。
「金剛石!」
両手に呪力の炎を燃やしたハオンを、エリーは片手で制した。
「くるでない!」
砂塵をひいて、幽鬼のごとくエリーは起き上がった。
とうに騒ぎは聞きつけてはいるものの、この危険きわまりない肉食獣の前にわざわざ身をさらす愚かな村人もいない。ただ家の戸締まりのみは厳重に確認し、そっと耳をすませて嵐が過ぎ去るのをひたすら祈るだけだ。
エリーの身長を頭いくつぶん上回っていたろう。重たい戦鎚を小枝かなにかのように掌で回転させ、うなったのは宝石の四騎士のひとりだった。
「カレイドさまの大切な配下、ルビーをよくも食ってくれたな」
「くく……」
「なにが可笑しい、エリザベート・クタート?」
血をぬぐった口を、エリーは残忍にゆがめていた。
「いや、の。ちょうど腹が減っておったのじゃ。願った先からほいほいエサがやってきてくれるとは、まさしく夢のような世界じゃわい。幻夢境とはよくぞ言ったものよ」
怒りを表現してか、ダイヤは天を衝く戦鎚の先端を地面に叩き落とした。そこを中心に生じたのは、深い陥没だ。想像どおり、戦鎚そのものも超重量の呪われたダイヤモンドでできている。
眉庇に隠れたダイヤの双眸は、高所で激しい赤光を放った。
「その血にまみれた貪欲さ、我が鉄鎚によって灰と散らす」
「それはお互い様ではないかえ、吸血鬼?」
獅子さながらに姿勢を落としつつ、エリーは告げた。
「うぬは飢えておる、人の血に。わらわも渇いておる、吸血鬼の血に。はなれておれ、ハオン」
「う、うん、わかっ……ひぇッ!?」
吸血鬼たちの制空圏から後じさりつつ、ハオンはうっかり不気味な悲鳴をこぼした。
初めて目撃するのだから仕方ない。エリーのずらした眼帯から、その手もとに鮮血の滝が落ちて弾けたのだ。
「血晶呪……〝血刀〟」
またたく間に長剣の形をとった赤いそれを、エリーは後ろ下段に引きつけて構えた。巨躯の白騎士もまた、戦鎚を八相に振り上げて発射態勢に入っている。
ふたりの間合いはおよそ五歩……踏み込めば一瞬で肉薄する距離だ。
剣呑な静寂に、乾いた風の音だけが歌う。
破壊されきった〝シャリエール〟の看板が落ちるのが合図だった。
同時に、エリーとダイヤは猛然と地を蹴っている。放たれた戦鎚をぎりぎりで回避するや、エリーの赤剣は火花をこすって下方から跳ね上がった。狙いはまず凶器を握るダイヤの手首だ。鋭い血の刃は、そのまま易々と白騎士の太腕を断ち割り……
はかない響きを残して、折れた長剣の切っ先は地面に突き立った。独眼を瞠ったのはエリーだ。
「なにぃッ!?」
「そんなヤワな血豆腐では、我がダイヤモンドの鎧には傷一つつけられんよ」
「!」
エリーの叩きつけられた頑丈な石壁は、その背中でクモの巣状に砕けた。薙ぎ払われたダイヤの長大な戦鎚が、エリーの横っ腹をまともに直撃したのだ。
へし折れた肋骨は肺に刺さり、エリーは内臓がまとめて破裂する感触に襲われた。人型に亀裂の走った壁からずり落ち、地面に四つん這いになって血反吐を吐く。
地面を向いたエリーの視界に、いっきに広がったのは戦鎚の木殺しだ。こんどは下からダイヤに顔を殴られ、エリーははでに血しぶきを噴いてのけぞった。寸前でかざした新たな血の剣もやはり粉砕され、これっぽっちも防御の意味をなさない。数メートルも吹き飛び、体をしたたかに地面に打って土埃をあげる。
「エリー!?」
一騎討ちを見守るハオンの悲鳴は、破裂したエリーの鼓膜にうつろに跳ね返った。顔面は傷だらけの血まみれで、頭蓋骨にヒビが入っているのも間違いない。逆吸血鬼の驚異的な再生能力があるとはいえ、このまま好き勝手にやられれば治る前にほんとうに灰にされてしまう。
おそるべき強敵だ。自慢の血晶呪が効かないことも身にしみて理解した。
(では他に……他になにか武器はないか?)
震える腕を杖代わりにして身をもたげながら、エリーは胸中だけで焦った。ここまで真面目に死を覚悟したのはいつ以来だろう。あてどなく武器を探すエリーに、とどめを刺すため迫るのは白い死神の巨大な足音だ。
(バイクさえ、バイクさえあれば、あんなデカブツなぞ一瞬のうちに……)
エリーは痛感した。
しょせんは自分の戦闘力など、組織から与えられた近代兵器を湯水のごとく消費できてこそのものだ。真の役立たずは自分のほうである。まともな武器がなければ、吸血鬼と同等かそれ以下の立ち回りしかできない。
無我夢中で武器を求めるエリーの指は、ある場所で止まった。
すなわち、腰のホルスターへ差した物体に。
マタドールシステム・タイプOの銃把を握る手に、エリーは力をこめた。
「だめでもともとじゃ」
満身創痍のエリーは、すっくと立ち上がった。引き抜いた拳銃型の未知の兵器を、両手で静かに青眼へ掲げる。
ちっぽけなタイプOを目のあたりにし、ダイヤは幅広い肩を揺すって嗤笑した。
「なんだその代物は? 鉄砲なら知っているぞ。まあ地球の弾丸ていどでは、呪力に清められた我が装甲は絶対に貫けんがな」
折れた歯の混じった血のつばを吐き捨て、エリーは挑発した。
「つべこべ抜かさず、かかってこい。仇敵の首級を討ち取るチャンスじゃぞ?」
「いいや、首だけでは済まさん」
ダイヤの足取りはあっという間に加速し、地響きをあげる白い土石流と化した。ぞっとする風鳴りとともに振りかざされた戦鎚が、エリーの頭上に黒影を生む。
終わった……いともたやすく予想できる無残な結末に、ハオンは両目をつむった。つぎに自分を標的にする白騎士の圧倒的な力を前に、はたして生ぬるい死霊術ごときが通用するのだろうか?
「きさまは丸ごとカレイドさまに献上する! 真っ平らな肉のカーペットに作り変えて!」
怒号とともに、エリーはタイプOの銃爪を引いた。
「血晶呪……〝血壁〟!」
直後にこだましたのは、エリーがぺしゃんこになる音……ではなかった。
強い衝撃を食い止め、エリーはかかとで土をえぐって後退している。
見よ。刹那に傘状に広がったタイプOが、エリーの片目から吸った血で〝盾〟を発生させたではないか。そのすさまじい硬度の防壁は、あのダイヤの一撃を正面から浴びてもなお欠けひとつない。
タイプOを経由したエリーの血の呪力は、明らかに強化されていた。
それとは裏腹に、面食らって油断したのは大男のダイヤのほうだ。
「な、なんだこの盾は!?」
「感謝せねばな、ヒデト……〝血刀〟」
生々しい響きを連れて、エリーはダイヤの背後に急停止した。
袈裟懸けに振り切られたエリーの両手の先、変形したタイプOの骨格がつぎに形成するのは一本の大剣だ。こんどは折れない。その薄く鋭い刀身には、強烈な呪力を帯びたエリーの血がたえずチェーンソーの刃のように駆け巡っている。
遅れて、左肩から右腰までを斜めに裂かれたダイヤの巨体は、みずからの鮮血を噴き出した。思わず取り落としてしまった戦鎚で小規模な地震を起こしつつ、かすれた声でうめく。
「き、斬った。四騎士の中でも、もっとも堅牢な、我が鎧を……おのれ、逆吸血鬼」
間髪入れず、ダイヤのぶ厚い胸から真紅の切っ先が生えた。
エリーの腕で素早く反転した血晶呪強化装置の太刀が、うしろも見ずに白騎士の背中を貫いたのだ。その刀身から吸われた吸血鬼の血は、映像を逆再生するかのごとく、剣からさらにエリーの瞳へと流れ込んでいった。滅殺と同時に栄養補給を実行……これこそが弱肉強食の摂理ともいえる逆吸血鬼の捕食術式である。
恍惚とエリーはささやいた。
「美味い。美味いぞ」
吸い尽くされて中身をなくした大きな鎧は、かんだかい音をたてて地面に散らばった。