表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

水城三日の作品

そっと背中を押すように

作者: SSの会

 この時ほど、僕は自身の選択を後悔したことはなかった。


 僕の務めている会社はいわゆるブラック会社に区分されるところで、始発に家を出て夜は日付が変わってから帰ってくるなんて生活が当たり前のような環境だった。


 希望休はもちろん、普通の休みですらまともに貰えることの方が珍しい。


 何度も辞めようと思ったけれど、僕が辞めたら回らない仕事が余計に回らなくなってしまう。


 つい最近も、同期が消息を絶ち職場が荒れに荒れたばかりで、そんな中で辞めるなんてことを口に出来るわけがなかった。


 その選択が間違いだった。


 早くに辞めてしまうべきだったのだ、こんな職場は。


 愛犬のペコとの散歩は、僕たちの日課だった。どれだけ仕事が忙しくてもこれだけは欠かさず続けていた。


 交通事故で両親を早くに亡くした僕にとって、ペコだけが唯一の家族だった。家に帰って、ペコが尻尾を振りながら僕のそばに駆け寄ってくるだけで心が癒やされた。


 どんなときも、ペコは僕と一緒にいてくれた。


 そんなペコの調子が悪くなっていることに気付いたのは、三ヶ月くらい前のことだった。


 いつもなら、リードを持ってくるだけで飛んではしゃいでいたペコが、いつまでも起きてこなかった。それでも、ご飯を用意すればきちんと食べてくれたのでそういう気分ではないのだろうとあまり気にしていなかった。


 しかし、その異変はその日だけに限らずたびたび同じようなことが起きるようになった。


 さすがに心配になった僕は、ペコを病院に連れて行こうとした。けれど、僕が取れる貴重な休日は、すべて病院の休みと被ってしまっていた。


 半休を取ろうと会社にかけあったりもしたけれど、もちろん許されることはなかった。それどころか、嫌がらせのように仕事が増えていった。


 病院に行くことができないまま、時が過ぎたある日、ペコが急に元気になった。散歩に連れて行けとでも言うように僕の服を引っ張り、玄関まで連れてくると尻尾をパタパタと振って僕の顔をじっと見つめた。


 その姿が嬉しくて、僕は急いで散歩の準備を始めた。


 きっと、自力で治したのだ。そんなことを考えながら、僕はペコといつもの日課を再開した。


 今まで、散歩が出来なかったストレスもあったのか、その日のペコのはしゃぎようは今までの比ではなかった。僕もそれに感化されて普段行かないようなところまで連れて行ってしまった。


 そして、二人満足して家に帰ると僕は急いで出社の準備を始めた。その間も、ペコは僕にべったりでなかなか離れようとしなかった。


 その姿が愛しくて、何度も後ろ髪引かれそうになりながらも仕事から帰ってきたらめいっぱい遊んであげるとペコに告げて職場へと向かった。


 仕事の忙しさはいつもと変わらなかったけれど、悩みのタネが一つ解決したことでいつもよりも集中して取り組めた。


 そして、その日の帰り道。ペコの大好物のご飯を買って家に帰ってくると、

「ペコ……?」

 ペコはリビングで死んでいた。



 * * *



 目を覚ますと、すでにお昼を過ぎてしまっていた。


「また寝過ぎた」


 独りごちながら、布団から抜け出す。


 ペコがこの世を去ってから三ヶ月が経とうとしていた。


 仕事は辞めた。その日の翌日、ペコの葬儀のために休みたいと連絡を入れたときに「人が死んだなら訳知らず、ペットが死んだくらいで休みたいとは何事だ」と、本気で怒鳴られたことがきっかけだった。


 後悔はない。遅かれ早かれ、きっと僕はあの職場を辞めていたことだろう。


「おはよう、ペコ」


 ペコの死後、簡単ではあるが小さな仏壇を作った。中にはペコの写真、その前にはペコの大好きなご飯と水がお供えしてある。


 ご飯と水を取り替えて、チリンと鈴を鳴らした。


「ペコ、向こうで元気にやってるか?」


 写真に尋ねても、返事はない。いつものように尻尾を振って元気な声を聞かせてくれることはもう二度とない。


 三ヶ月が経っても、彼を失った傷は癒えなかった。それどころか、日に日に強くなっていくような気さえした。


 理由は明白だった。


 僕の中に、罪悪感が渦巻いているからだ。


 もっと早く病院に連れて行ってあげていれば。


 仕事なんか放り投げて、ペコのことを優先してあげていれば。


 そんな後悔ばかりが頭を埋める。


 ペコを殺したのは、僕だ。


 仏壇に飾った写真が、僕を睨んでいる気がした。



 * * *



 冷蔵庫の中に何もないことに気付いた僕は、仕方なく食料の買い出しに最寄りのスーパーに足を運んだ。


 仕事を辞めて時間にも余裕が出来たおかげで、自分で料理を作ることも増えた。今まで、味の濃いコンビニ弁当生活を送り続けていたから、自分の好きなように味の調節が出来るのはとても助かっていた。


 今日は魚料理にでも手を出そうと思って普段はあまり買わない少し変わった野菜や安く売られていた白身魚を買って家へと戻ってきた。


 ドアを開けて部屋に帰ると、ドアに備え付けられたポストに手紙が投函されていることに気付いた。


 宛先には『久瀬ペット霊園』と書かれている。


 その名前を見た瞬間、心の底に沈んだ罪悪感が心臓をきゅっと締め付けた。


「この手紙……」


 裏をめくると、『このたびはご冥福をお祈り致します。お渡しするものがございますので、よろしければもう一度足をお運びください。お待ちしております』と、綺麗な花の水彩画と共に手書きで添えられていた。


 そういえば、そんなことを言っていたような気がする。あのときは、とにかくペコのことだけで頭がいっぱいだった。そのあとも仕事を辞めることで会社と揉めたりしていたから、そんなことは頭からすっぽりと抜け落ちていた。


 違うぞ。


 仏壇に飾られたペコの写真が僕を責める。


 あそこに近付きたくなかっただけだ。ペコの死を一番に感じるあの場所が嫌だったんだ。


 けれど、この手紙が届いてしまった以上、行かないわけにはいかない。


 罪悪感に背中を押されながら、僕はペコの眠る霊園へと向かう決意を固めた。



 * * *



 翌日。あまり眠れなかった僕は午前中のうちに久瀬ペット霊園を訪れた。どうやら、あの日から今日までに至る時間はこの霊園をぐるりと観察できるだけの余裕分くらいは癒やしてくれたらしい。


 霊園の受付までに続く道は、つい足を止めて眺めてしまうほどの立派な庭になっていた。綺麗に裁定された植木や季節を彩る木々が植えられている。大きく窪んだ庭石にはメダカが泳ぎ、たまに鹿威しが心地よい音を響かせた。


 町から少し外れたところにあるこの霊園は車通りも少なく、ここでならペコも心安らかに眠っていることだろうと少しだけ安心した。


 庭を抜け、自動ドアをくぐって建物の中に入る。端には四人がけのテーブルと椅子、その奥に受付があった。


「すみません」


「はぁい」


 声をかけると、受付の奥から若い女性が現れた。歳は僕と同じくらい、おそらく二十五歳前後くらいだろうか。


 黒い作務衣を身に纏い、頭にはバンダナのようなものを巻いている。どちらかといえば陶芸家と言った方がしっくりくるような服装だった。


 彼女の胸元にあるネームプレートには『久瀬』と書かれていたのでおそらくここのオーナーなのだろう。


「お待ちしてました、鈴原さんですよね?」


「覚えていたんですか?」


「えぇ、鈴原さんのような人は珍しいので」


「すみません……」


「いえ、気になさらないでください。えっと、あの……」


 彼女は少しだけ遠慮がちな様子でこちらを見つめる。


「少しは、心の整理はつきましたか?」


「えぇ、まぁ。そんなに、酷かったですか?」


「はい。えっと、見ているこっちの息が詰まるくらいには……」


「そうですか」


 こういうところで働いているなら、きっとそんな光景は山と見てきたはずだ。その彼女がそう言ってしまうくらいには実際に僕の様子は酷かったのだろう。


「ずっと心配だったんです。翌日にも姿を見せないから、どうしてしまったんだろうって」


「すいません。変な心配をおかけしてしまって」


 おかげでずいぶんと彼女に迷惑をかけてしまったみたいだ。預かり物だけ受け取って、さっさとここを出よう。これ以上、彼女に余計な労力をかけさせるわけにはいかない。


「それで、渡したいものというのは」


「はい、そのことなんですけど。えーっと」


 なぜか、彼女は少しの間だけ考え込むように人差し指をこめかみに押し当てると困ったような表情を浮かべた。


「あの、失礼ですけど今はお仕事の方は?」


「へ?」


 思ってもみなかった質問に思わず変な声が出てしまった。


「仕事、ですか?」


「はい、もしかしたら今はお仕事をやられていないのかなと思いまして」


「どうして……?」


「その反応だと、やっぱりそうなのですね」


 どうしてわかるのかも、どうしてそんなことを聞くのかもわからないけれど、彼女の瞳は真剣そのものだった。


 その目に促されるように僕はこくりと頷いた。


「仕事は、ペコが死んでからすぐに辞めました。今は、求職中なんです」


「辞めてしまったのですか」


「はい。あそこではもうやっていけないと思いました」


 あんな職場にさえ勤めていなければ、きっとペコが死ぬことはなかった。それはそこに就職した僕の罪であり、そこを辞めなければ死んでしまったペコにも申し訳が立たないと思った。


「なるほど……」


 そう呟くと彼女はまた、人差し指をこめかみに押し当てて「むむぅ」と唸った。


「えっと、なんでそんなことを?」


「そうだ!」


 僕が尋ねるとほぼ同時に久瀬さんは手のひらをパンと叩いた。


「鈴原さん、今日はこれから時間が取れますか?」


「え、はい。とくに予定はありませんが」


 それはよかった、と久瀬さんは微笑むとそのまま受付の奥へと引っ込んでしまった。しばらくその場で待っていると彼女は店の奥から「鈴原さん」と手招きをした。


 入っていいということなのだろうか。おそるおそる、受付の奥へと進む。奥は従業員の事務作業のスペースに使われているようだった。細かな資材が積まれた棚やパソコンの置かれたデスク、綺麗に整理された資料のファイルを仕舞った本棚などがあった。


 そんな一見、質素とも思えるような色合いの部屋を彩るかのようにデスクの上に青い花が一輪、飾られているのが目に付いた。


 そのデスクで久瀬さんはなにかを作っていた。


「久瀬さん?」


「あ、鈴原さん。どうぞ、これを」


 そう言って、彼女は僕にプラスチックで出来たネームプレートを手渡した。そのプレートにはなぜか僕の名前が印刷されていた。


「えっと、これは?」


「鈴原さんのネームプレートです!」


「いや、そうじゃなく」


「ごめんなさい。冗談です」


 くすくすと笑うと、彼女はモニターに向けていた身体をこちらに向けた。


「鈴原さんには、私の仕事を手伝ってもらいたいんです」


「手伝う?」


「はい。就職体験会みたいなものと取ってもらって大丈夫です。もちろん、大切なお仕事ですから大きなところは私がやります。もしかしたら、ほとんど見学になってしまうかもしれませんが」


 意味がわからなかった。どうしてこんなことになっているのか、頭の理解が追いつかない。僕はただ、彼女から預かり物を受け取るだけだったはずなのに。


 困惑している僕を見て、彼女は眉尻を下げて笑った。


「やっぱり、驚きますよね。急にそんなことを言われて、私も逆の立場だったらきっと同じ表情をすると思います」


「なら、どうして」


「そうしないと、きっとあなたは受け取ってくれないと思ったんです」


 受け取ってくれない。それは、手紙に書かれていたあの預かり物のことだろうか。


「あなたの渡したいものというのは、一体なんなのですか?」


「それは、この仕事を見ていればわかると思いますよ」


 どうやら、彼女の言う通りにしなければなにもわからないままらしい。ペコを殺したようなやつに、この仕事をやる資格があるかどうかわからないけれど。


「わかりました」


 僕は彼女の手伝いを受け入れた。


「本当ですか。よかった……」


 なぜか、久瀬さんは本当に安堵したように胸を撫で下ろした。どうして、そこまで僕のために気を遣ってくれたのだろうか。


 それを聞いても、また話をはぐらかされると思った僕はさっき聞けなかった疑問を尋ねることにした。


「ところで、どうして僕が仕事をしていないってわかったんですか?」


 そう言うと、彼女は悪戯っ子のような笑みで、

「女の勘です」

 と、言った。



 * * *



 仕事と言っても僕に出来ることは少ない。僕は庭園の掃き掃除をしたり事務室の書類整理なんかを手伝った。その間、久瀬さんは納骨堂の掃除や僕なんかには荷の重い仕事をこなして時間は過ぎていった。


 僕がここに来てから初めての来客はお昼を過ぎた辺りだった。


 あらかたの雑用を片付け、少し事務室で休憩をしていると、受付の方から「すみません」という声が聞こえた。


 慌てて出て行こうとする僕を制して久瀬さんが受付の方へと姿を消した。


 落ち着いて考えたら僕が出て行ったところで何もできない。僕は事務室の中から、隠れるように受付の方を覗いた。


「お待たせしました」


「よろしくお願いします」


 久瀬さんが応対しているのは少女とその母親のようだった。母親の手には小さなダンボールが抱えられている。それを見た瞬間、身体中から血の気が引いていくのを感じた。


 ペコと同じだ。あの中には死が詰まっている。重なるようにあのときの光景がフラッシュバックする。それと同時に罪悪感がじわじわと滲み出してくるのを感じた。


 慌てて受付に隣する壁に背を向けて寄っかかる。


 見れば見るほどに、あの光景が目に浮かぶようだった。転がったペコの身体。開いた眼球。つんとした尿の臭い。五感すべてがペコを再生させる。それと同時に僕の目の前を黒い霧が覆って。


「鈴原さん!」


 突如、両肩を思い切り揺さぶられて我に返った。目の前には心配そうな顔で僕を見つめる久瀬さんの姿。


「あれ、受付にいたんじゃ」


「話はもう終わりました。そんなことより、大丈夫ですか?」


「すいません。大丈夫です」


 どうやら、時を忘れるほどにボーッとしていたらしい。いつの間にか話は終わり、これから葬儀の準備に入るとのことだった。


「鈴原さんはどうしますか? 葬儀に関してはすべて私が執り行いますので、なんなら鈴原さんはここで休んでいても……」


「いえ、行かせてください」


 僕に出来ることはなにもない。けれど、ペコが供養されたこの場所をもっとちゃんと見ないといけないと思った。そして、あの親子の元を去った子の別れもちゃんと見届けてあげようと思った。


「……わかりました」


 しばし、逡巡した後、久瀬さんは首を縦に振ってくれた。


「その代わり、危ないと思ったらすぐに退室してくださいね」


「はい」


 強く頷いて、僕は久瀬さんの後を付いていった。外を出てぐるりと受付がある建物を回ると、そこには葬儀を執り行う建物があった。


 その入り口にはすでにさっきの親子が待っていた。軽く会釈を交わして、僕たちは先に建物の中に入った。中は、以前、両親の葬儀を執り行ったところを小さくまとめたようなところだった。小さな棺の前にはお焼香をするための台が設置されている。


 二人で葬儀の準備を整えると、一時間ほどしてから葬儀は始まった。


 葬儀の内容は両親のときとほとんど変わらなかった。お坊さんを呼んでお経を読んでもらい、その後にお焼香をした。二人とも、棺の中で横たわる家族に一言かけて最後の別れを惜しんだ。その光景を僕は入り口近くに立って静かに眺めていた。


 幸せだな、と思った。


 ちゃんと、最後の時間まで彼女たちは幸せだったのだろう。これから先、別れは悲しくとも立ち止まることは決してない。


「これから、火葬を行いますのでしばらくお待ちください」


 二人はこくりと頷くと、名残惜しそうにしながらもその場を後にした。久瀬さんの手伝いをしようと思っていたのだが、この後の行程は特殊でとてもデリケートな作業とのことで僕も一度事務室に戻ることにした。


 それから数十分が経って、久瀬さんが綺麗に包装された箱を持って戻ってきた。中に入っているのはおそらく骨壺だろう。それを見て、少しドキリとしたけれど、必至に内側に押さえ込んだ。


 受付のテーブルで待っていた二人にそれを渡す。


 母親がそれを受け取ると、優しく胸の中で抱きしめた。


「最初にお伝えした通り、お骨の欠片を少しだけ預からせていただきました。また明日、いらしてください」


 そう説明して、その日の葬儀はようやく終わりを迎えた。彼女たちの後ろ姿が見えなくなるまで玄関で見送ってから久瀬さんは一度大きく息を吐いて、

「さぁ、最後のお仕事を始めましょう」

 と、言った。


「事務仕事ですか?」


 僕が聞くと、彼女は首を横に振った。


「今から車を出します。あの子のお骨を持って行かないといけないので」


「持って行くってどこに?」


 そう言うと、久瀬さんは少し得意げな顔で町の向こう側にそびえる山を指差した。



 * * *



 窓から見える景色が流れていく。


 僕らは久瀬さんの運転する車で町の外れにある山へと向かった。山と言ってもそれほど標高があるわけでもなく週末のハイキングコースなどによく利用されているようなところだ。道も舗装されていて頂上に行くにも大した労力はかからない。


 昔、ペコと一緒に遊びに来たこともあった。


「鈴原さん、調子はどうですか?」


「大丈夫です。すいません。ご迷惑をおかけして」


 久瀬さんは前を向きながら、「よかった」と微笑んだ。


「あと二十分はかかると思うので寝てしまってもいいですよ? 着いたら起こしますから」


「いえ、それは申し訳ないので……。それよりも、これから山に行ってどうするんですか?」


「お骨を埋めるんです」


「お骨を? どうして?」


「それは着いてから説明しましょう。たぶん、ここで言っても信じて貰えないと思います」


 結局、明確な答えを貰えないまま、僕の質問は終わった。それから、少しの間だけ無言の時間が続いて次に口を開いたのは久瀬さんの方だった。


「鈴原さんは、本当にペコちゃんのことを大事に想っていたんですね」


「え……」


「伺ってもいいですか? どうして、そんなにペコちゃんの死に自分を責めるのか」


 視線は前を向いているけれど、彼女の意識はこちらを直視していた。僕の心をしっかり見つめられているような気持ちになって少しだけ居心地が悪い。


「鈴原さんの行動ははっきり言って少し異常です。さっきの葬儀も、鈴原さんは動物の死よりも内から出る罪悪感に苦しめられていると思いました」


「……ペコが死んだのは僕のせいなんです」


 ぽろぽろと僕は久瀬さんに罪の告白をした。久瀬さんはただそれを静かに聞いていた。まるで、懺悔室にでもいるかのような気持ちだった。それでも、気持ちが晴れることはなく、たとえ許しをもらったところで僕はきっと納得しない。


 すべてを話し終わると、今まで黙っていた久瀬さんがおもむろに口を開いた。


「だから、新しい仕事を探すのが怖いのですか?」


「え?」


「ペコちゃんを助けられなかった原因が仕事だから、足が重くなってしまうんですよね? 履歴書を書いても面接に行っても、どうしてもそのときのことが過ぎって上手くいかないんですよね?」


 その通りだった。


 ペコの死後、仕事を辞めた僕は何度か再就職のための面接を行った。けれど、そのどれも上手くいくことはなかった。全部、面接の途中で気持ち悪くなって抜け出してしまった。


 会社の空気やスーツの着心地や、首を絞めるネクタイのすべてがペコの死を想起させて、じんわりとした黒が僕の視界を覆い尽くした。


「ペコが恨んでるんです……」


 本気でそう思った。僕の助けを待って死んでいったあの子はきっと僕のことを恨んでいるはずだと。そして、僕はそれを受け入れた。僕は一生、ペコに恨まれながら、

「違います!」

 車内に久瀬さんの怒鳴り声が響いた。初めて聞いた久瀬さんの昂ぶった声に僕の意識は一気に引っ張られた。


「それは、鈴原さんの勝手な妄想です。ペットたちの気持ちを……勝手に決めつけないで!」


「久瀬さん?」


「証明してあげます」


 車が減速していく。久瀬さんに向けていた視線を前に向けると、山の麓に到着していた。車を降りると、久瀬さんはトランクからリュックを取り出すと、それを背負ってどんどんと前へ歩いて行ってしまう。てっきり、そのまま車で山を登っていくのかと思っていたが、彼女は山の入り口から少しずれたかろうじて人の歩けるような獣道へと入っていった。


「久瀬さん!」


「こっちです、鈴原さん」


 振り向いた彼女は森の奥を指差す。彼女の目には強い力が宿っていた。


「あなたに向けたペコちゃんの本当の気持ち、教えてあげます」



 * * *



「ここは」


 獣道の先にあったのは原っぱだった。木々で埋め尽くされた森をぐるりと適当に丸く切り取ったような場所だった。ここだけは不思議なことに木々の一本も生えず、草だけが生い茂っていた。


「私たち久瀬家の人間しか知らない秘密の場所」


「秘密の……?」


「鈴原さんは、あの葬儀屋に私しかいないこと、不思議に思いませんでしたか?」


「たしかに、建物の広さにしては従業員が久瀬さんだけなのは少なすぎるとは思いましたけど」


「その理由の一つがこれです。ここを第三者に知られるのはずっと禁じられていたので」


「え、それじゃ僕を連れてくるのはまずいんじゃ」


「本来はそうなんですけどね。でも、もうここを知ってるのは私しかいないし、別に誰かに怒られることもありません。それに、そんな決まりごとよりもあなたを救うことの方が先決です」


 そう言いながら、久瀬さんはリュックからスコップを取り出し、穴を掘り始めた。慌てて僕も穴掘りを手伝う。


 手の平が縦にすっぽりと埋まるくらいの深さになると、久瀬さんは作務衣のポケットから小さな小瓶を取り出した。中に入っている白く小さな欠片がカランと音をたてる。


「それって」


「さっきの子のお骨です」


 久瀬さんは小瓶のふたを開けてそれを掘った土の中へとそっと置いた。上から優しく土をかけてぽんぽんと叩いて、久瀬さんは立ち上がる。


「しばらく、お話していましょうか」


 そう言って、彼女は歩き出す。僕もそれにならって進んでいく。彼女は空を眺めながら「私も、ペットを飼ってたんです」と、口にした。


「コーギーでした。とても元気で私の身体を引っ張ってよく散歩を急かしたものです。私たちはとても仲が良くて、両親よりも懐かれていました。


 あの日、私はいつものように彼を連れて公園に遊びに行きました。あの子はボール遊びが大好きで、散歩の途中に公園によって遊ぶのが日課だったんです。でも」


 懐かしがる久瀬さんの表情が急に曇った。


「その日は風が強い日だったんです。私の投げたボールは風に乗って公園の出口の方へと転がって行ってしまって。それを追いかけたあの子はそのまま、車にはね飛ばされてしまいました。


 即死でした。家族は、これは事故だって私のことを慰めてくれましたが、幼い私にも容易に理解できました。あの子は事故なんかで死んだのではなく、私が殺してしまったのだと」


 僕と同じだった。同じだからこそ、彼女にかける言葉が見つからなかった。僕が今まさにそれに囚われているから。


「その後の私はもうボロボロでした。ひたすら自分を責めて、寝ているときですらあの子が私を呪う夢を見ました。自分で逃げ場所を潰して、本当にあの子の後を追おうとすら思いました」


「……」


「でも、そんな私を見かねて当時、あの霊園を管理していた祖母がここに連れてきてくれたんです。ここは死者と生者を繋ぐところだって」


「死者と生者を、繋ぐ……?」


「えぇ、ほらちょうどいい時間みたいですね」


 そう言いながら、久瀬さんはさっき僕らが埋めたお骨の方を指差した。


 そこにはとても信じられないような光景が広がっていた。たしかにそこには何もなかったはずなのに、お骨を埋めた辺りから黄色くて小さな花が一輪、風になびいて揺れていた。


 久瀬さんはそこに近寄ると優しく花を撫でてから、根っこごとゆっくりとそれを掘り出した。


「久瀬さん、それは……?」


「これは、死に際に遺した彼らの想いです」


「想い……?」


 久瀬さんは、花を撫でながら頷いた。


「私も、おそらく祖母も詳しいことはわかりません。ただ一つ確かなことは、ここにお骨を埋めると、そのお骨に刻まれた彼らの魂が花になって咲くということだけ」


 そう言いながら、彼女は大事そうにその花を見つめていた。彼女の話を聞いたからだろうか、たしかに彼女の抱える花はどこか異質めいた空気を抱いているように感じた。


「鈴原さんは、この花をご存じですか?」


「いえ……」


「これは、フクジュソウっていうんです。北海道から本州の山野によく見られる植物です。この花の花言葉は『幸せを招く』……」


「それが、あの子の遺した言葉?」


 久瀬さんはこくりと頷いた。


「はい。私はそうだと思っています」


「でも、どうして花なんでしょうか」


「よくわかりません。でも、私たちが花を手向けるのを真似しているのかもしれませんね。そう思うと、ちょっとかわいいでしょう?」


 そう言って、久瀬さんはころころと笑った。


「久瀬さんにも、花が咲いたんですか?」


「はい。自分を責めて責めて、追い込んでいた私を、あの子の言葉が救ってくれたんです」


 そう言う久瀬さんの顔は本当に幸せそうで、きっとあの親子もあの花を受け取れば同じ顔をするのだろう。


 そして、彼女が僕に渡そうとしているものもおそらくは同じものなのだろう。


 けれど……。


「僕は受け取れないです」


「鈴原さん」


「僕は、久瀬さんやあの親子とは違う。救えたかもしれない命だったんです。たとえ、ペコがフクジュソウのように幸せを願っていても」


「違いますよ。ペコちゃんが咲かせた花は、フクジュソウではありません」


「え?」


 驚く僕を尻目に、久瀬さんはリュックからなにかがくるまれた包装紙を取り出した。青い水玉模様が描かれた包装紙の中身は間違いなくペコの想いが込められたものなのだろうと予想出来た。


「どうぞ、鈴原さん。これが、あなたに送られた想いです」


 思わず、それを受け取ってしまう。心なしか、ぬくもりを感じた。


「開けてみてください」


「……」


 久瀬さんにそう言われるけれど、手が動かない。


 僕はペコに恨まれている。そう思っていたはずなのに、それを事実として受け入れるのがとても怖い。


「大丈夫ですよ」


 石のように固まった手を久瀬さんが優しく包み込む。彼女の温もりが氷のように固まった僕の手をゆっくりと解かしていく。


「あなたの想像しているようなことには絶対になりませんから」


 その言葉に背中を押されるように僕は慎重に包装紙を開いていく。


 中から出てきたのは、菊のような花びらをつけた、青い花。久瀬さんのデスクに飾られたものと、同じ花だった。


「この花は……」


「これは、アスター。エゾギクと呼ばれる種類の花です。赤とか白とか他にもいろんな色があって、その色それぞれにちゃんと意味が込められているんですよ」


「この色の、意味は?」


「心配」


 久瀬さんは、ぽつりとそう言った。


「この色のアスターの花言葉は『心配』です。死の間際まで、ペコちゃんはあなたのことを心配していたんですよ」


「ペコが……?」


「いつも、遅くまで仕事してそれでもペコちゃんの世話もこなして、少しずつ疲弊していくあなたをペコちゃんがわかっていないわけないじゃないですか。それに重なるようにして自分がいなくなって独りぼっちにさせて、それを心配しない家族がいないわけないじゃないですか」


 ぽたりと涙が零れた。僕のじゃない。久瀬さんの涙だ。涙を拭くこともせず、彼女はじっと僕の目を見つめて訴える。


「私のときも同じだったんです。同じ花が咲いて、おばあちゃんがこの花の名前と意味を教えてくれたんです。自分のことを恨んでいると思っていた子に私は心配されてたんですよ。それなのに、いつまで立ち止まっているんですか! 立って、歩かないと! あの子達のためにも、私たちにはそれしか出来ないんです!」


 僕の目頭がじわっと熱くなるのを感じた。ペコが死んでから、そういえば一度も涙を流したことがなかった。泣くことすら、僕には許されないと思っていたから。


「僕は、許されていいんでしょうか……」


「許すも許さないもないですよ」


 久瀬さんは泣きながら笑う。


「最初から、誰もあなたを責めてなんていないんですから」



 * * *



「ありがとうございました」


 ひとしきり泣いた後、僕らは霊園へと戻った。重くのしかかっていた罪悪感は涙と共に流れ落ちていったのだろう、まるで憑きものが取れたかのように身体が軽かった。


「いえ、鈴原さんが元気になってくれてよかったです」


「はい。もう大丈夫です。ご迷惑をおかけしました」


 本当に、いろいろ迷惑をかけてしまった。


 けれど、久瀬さんがいなかったら僕はありもしない呪いに苦しめられていただろう。きっと、死ぬまで。


「骨壺は、ここに納めたままでもよろしいんですか? 持って帰っても、いいんですよ?」


「いえ、僕のところにいるよりもきっとここで静かに眠っている方が、ペコも安心して暮らせると思うので」


 ここには久瀬さんがいる。彼女がここを管理している限り、ここに眠るペットたちは心安らかに過ごしていけるだろう。


 それになにより、

「僕にはペコの想いがありますから」

 ペコの死に際に遺した花、久瀬さんの話だと、想いで作られたこの花は決して枯れることはないらしい。けれど、枯れようが枯れまいがもう僕には関係なかった。


 ペコの花はもう、僕の心の中で咲いているから。


 なら、僕は大丈夫だ。


「そうですか」


 久瀬さんも優しく微笑む。


「それでは、今日はいろいろとありがとうございました。本当に、お世話になりました」


「はい。またいつでもペコちゃんに会いに来てあげてください」


「はい、必ず」


 久瀬さんに背を向けて霊園の出口へと向かう。


 門を抜ける直前、どこからか楽しげな犬の鳴き声が聞こえてきたような気がした。





 話はまだ終わらない。





 来客の消えた霊園。その中にある事務室で、彼女はパソコンを立ち上げて書類を作成していた。


「ふぅ、めんどくさい……」


 画面には、履歴書にも似た文書ファイルが広がっており、その写真欄にはさっきまで一緒に仕事をしていた鈴原の写真が表示されていた。


 ペットの死によって自ら自分を追い込んだ男。その男の写真を指でなぞりながら、彼女はふぅっとため息を吐いた。


「本当に、人間は馬鹿ですねぇ」


 人間は簡単にものの死に意味を求めようとする。死ぬことはただの現象だ。心臓が止まるから死ぬ。そこになんの意味も想いもない。


 それはペットも然りだ。


 だというのに、人間は彼らが言葉を話さないことをいいことに勝手にその行動に理由を付け、自分たちの都合の良いように解釈する。


 死んだ後ですらも、あの子は天国でこう思っているなんて勝手なことを言って、勝手に責めて、勝手に慰められる。傲慢だ。本当に人間は傲慢。


 今回の来客者の態度にも、久瀬は何度となく苛々させられた。自分の愛犬が何を思っているかも知らないくせに勝手なことを言って……。


 山に向かう途中には我慢の限界が来て、少しだけ感情的になってしまった。あれは失敗したなぁと、久瀬は今でも少し反省していた。


「あなたも大変でしたね」


 そう言って、久瀬は今回の『依頼者』に声をかける。依頼者は、白い煙のような姿でふわふわと宙を浮きながら久瀬の周囲をくるくると回った。


 彼からの依頼が来たのは、彼がこの霊園に眠って一ヶ月が経とうとしていた頃だった。いつものように霊園の管理をしていた彼女の元に飛んできた彼は、『自分の主人を救って欲しい』と訴えた。


 それから、彼女は主人の情報を聞き、手紙を出し、上手く誘導しながら彼の主人を立ち直らせる計画を建てた。


「ところどころ、勘が良すぎたようなところもありましたけどね……。仕事の話なんて、こっちから切り出さないと話してくれないでしょうし」


 鈴原が現れて、上手く仕事を手伝ってくれるように誘導している間も、彼は久瀬の裏で情報を流し続けてくれていた。


「山の花も、あなたのおかげで上手くいきました」


 久瀬と鈴原が向かった山に、そもそもそんな不思議な力はない。あれも、久瀬が上手く鈴原を誘導している間に彼が埋め直したものだった。


「さすが、生前は犬なだけあって掘るスピードは尋常じゃありませんでしたね。さすがです」


 煙の表面をさするように撫でてあげると、身体を振るわせてリズムよく部屋の中を駆け回った。


「私が作った造花も、おそらくあの様子だとバレることはないでしょう」


 デスクの隅に飾られている花を手に取る。これも、鈴原に花の印象を与えるためにわざわざ作ったものだった。こういったものに意味を込めてやるだけで、人は簡単に騙されてくれる。


「まったく、久しぶりに骨の折れる仕事でした……。鈴原さんはもっと私とペコちゃんに感謝するべきですね」


 久瀬は鈴原の写真に向き直ると、彼の顔をぺちんと指で弾いた。


 本来、ペットが亡くなるたびにこんな依頼が来ることはない。多くのペットは亡くなればすぐにこの世から旅立ってしまうからだ。後腐れもなにもない。死んだらまた生まれ変わる。それがこの世の形だと彼らはしっかりと理解している。


 しかし、稀にいるのだ。


 自分が死んだ後も、主人のことが心配で仕方ない、本当に心から主人を愛しているような子が。


「ここまで愛されてることも知らないなんて、本当に罪深い人でしたね」


 そんな彼らの願いを聞き届け、停滞する魂を送ることがペット専門の死神、久瀬みことの本来の仕事だった。


「では、そろそろ逝きますか?」


 そして、彼女の最後の仕事が始まる。


 部屋中を駆け回っていたペコはもう一度、久瀬の周りをふわふわ漂い始めた。


 彼と一緒に建物の外に出る。いつの間にか、完全に陽は落ち、白く輝く月が顔を覗かせていた。


「次も良いご主人に巡り会えるといいですね」


 そう言って、頭のバンダナを解く。黒く、長い髪が風になびいて揺れた。


 手に持ったバンダナを軽く振ると、それはくるくると巻き取られ、やがて自身の身の丈程度の大鎌へと変化した。その様はまるで死神。


「いってらっしゃい。またいつか、どこかで」


 ペコを中心に鎌の刃先で円を描く。すると、その中から光で形取られた蝶が何匹も生まれた。


 一匹一匹がふわふわとペコの周りへと群がり、ペコを覆い尽くす。


『ありがとう』


 光に包まれる直前、ペコは久瀬に向かってそう言った。彼女はこくりと頷いて笑顔を浮かべると、トンと大鎌の柄で地面を叩く。


 光はさらに強さを増し、一筋の光となって天へと昇っていった。


 やがて、光が見えなくなると彼女は大鎌を振ってバンダナに戻すと、それを頭に巻き付け、

「よし、書類作成頑張りますか!」

 と、自分を鼓舞した。


 久瀬みことの仕事は、まだ終わらない。





(終)

 ここまで読んでいただきありがとうございます。

 この作品はSSの会メンバーの作品になります。


作者:水城三日

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ