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9  旦那さまの弱点



 サアッ――と全身から血の気が引くのを感じた。


 ユリウス様がアストール家の者ではないこと、わたしがリーエンベーグの人間になったこと、わたしが売られたこと。知らなかった事実の数々に、思考ははち切れそうになっていた。しかし、父が最後に残した言葉によって、頭の中は真っ白に染まる。


 ゆっくりと振り返ったユリウス様の顔に表情はなく、白から黒に一気に塗りつぶされたかのように、わたしの胸に絶望が広がった。

 震える指先で彼の服を掴み、力なく首を横に振る。


「ちがうんです……父の言っていたことは、ちが――」

「オルテア」

「信じて、くださっ……わたしは楽しそうになんて、話して……ない、のにっ」


 もう頭の中はぐちゃぐちゃで、初めからの状況を話さねばと思うのに、口から出てくるのは拙い言葉ばかり。

 彼の黒い瞳に映ったわたしの双方がぐにゃりと歪んで、目尻からぽろぽろと涙がこぼれていくのが分かった。泣いている場合じゃないと思うのに、全然いうことを聞いてくれなくて。


「お願いっ……信じて……」

「オルテア、落ち着け。詳しい話はあとで聞くから、とりあえず馬車に戻ろう。ここは人が多すぎる」

「でも――」

「いうことを聞かないなら、また縦か横のどっちかで連れて行くぞ?」


 初日にされた質問を思い出し、慌てて涙を拭う。こんな場で抱き上げられたら、それこそ恥ずかしさで立ち直れなくなりそうだ。


 わたしが落ち着いたのを確認して、ユリウス様は右手を掴む。そのまま手を引かれながら、彼に続いて王城を後にした。



 馬車に着くなり、隣に腰かけたユリウス様に顔を覗き込まれる。あまりの顔の近さにびっくりして、先ほどまでの不安が一気に吹き飛んでいった。


「あ、あの」

「涙は止まったな」

「え?」

「俺はおまえの泣き顔に弱いんだよ」


 この人の前で、以前に泣いたことなどあっただろうか。そう疑問に思ったのは一瞬で、彼が再び口を開いたことによって思考は遮られる。


「それで、俺と別れたあと何があった?」


 ひとりになってからの状況を説明すると、みるみるうちにユリウスさまの眉間にしわが刻まれていき、いつもの怖い顔が姿を見せる。


「左手、見せてみろ」


 言われた通りに左手を彼の前に出すと、そっと手のひらで包み込むようにして握られ、ゆっくりと手首を覆っていた長い袖が捲られていく。あらわになった白い手首には、アイギルという男に握られた痕跡が微かに残っていた。


「赤くなってる……」

「こっこれくらいなら、大丈夫です! 肌が白いから目立つだけで……」


 必死で弁明してしまった。だって、ユリウス様の顔が見たことないくらい怖いんだもの。

 わたしの言葉が聞こえていないのか、彼は指先でゆっくり赤い痕をなぞる。他人の体温が肌を撫でる感触に背筋を震わせていると、ぼそりと低い呟きが聞こえた。


「アイギル・ラントか、覚えておく」


 先ほど怒りをあらわにしていた父と比べてどちらが恐ろしいかと聞かれたら、間違いなくユリウス様を選ぶ。それくらい、今は怒りを隠そうとしていない。父と対峙していたときは、あんなに冷静だったというのに。


 手を握られただけで、こんなに怒ってくれるとは思わなかった。アイギルに触れられた時は気持ち悪さしかなかったのに、ユリウス様の手の温かさは、胸の内を安心感で満たしていく。


 いつの間に、彼がそばにいてくれることに、こんなにも心地よさを感じるようになっていたのだろう。

 自然とこぼれた笑みを見て、彼は不思議そうに首を傾げる。


「なんで笑う?」

「嬉しくて」

「嬉しい?」

「はい、ユリウス様が怒ってくれたのが」


 黒い瞳を僅かに見開き、パッと繋いだ手を離してそっぽを向く。


「当たり前だろ。おまえは俺の嫁なんだから」

「ふふ、ユリウス様のお嫁さんになれてよかったです」

「……言ってろよ」


 反対側を向いてしまった旦那さまだけれど、それが赤く染まった頬を隠すためなのは知っている。彼は怖い顔に似合わず、とても照れ屋さんなのだ。



 来た時よりもゆっくりとしたペースで馬車が進み、その不規則な揺れに身を任せる。もう少しだけ照れた横顔を見ていたかったけれど、父とのやり取りで気になっていた点を尋ねることにした。


「ユリウス様はアドルフ大公閣下の後継になられたのですよね? もしかして、今はリーベ領にお住まいなのですか?」

「……そうだ。俺が正式に養子になったことは、国王陛下の耳に入れるまで口外しないように言われていたから、すぐに話せなかった。すまない」


 そういう事情なら謝る必要はないのに、彼は律儀にわたしに向き直り頭を下げた。

 しかしこれで、長期休暇をとったという理由が判明した。王都からリーベまでは、通常馬車で1週間ほどかかる。準備なども含めたら往復で3週間近くかかってしまうので、休暇をとるのはやむを得ないのだ。


「今後はリーベに戻るのですよね?」

「ああ。君の体調と体力の回復と、リーベ側の受け入れが整い次第、一緒に王都を発つ予定だ。今は情勢も安定していて、それほど危険はないから安心してほしい。……少なくとも、アストールの家にいるよりは安全だから」


 ガーシュウィンとの国境に面しているリーエンベーグ領は、ブルトニアの中央に位置している王都に比べたら、危険度が高いのは当たり前だ。置いて行かれる可能性も頭をよぎったのだが、一緒に連れて行ってもらえるようでほっと胸を撫で下ろす。


「大丈夫です。旦那さまが居てくだされば安全なので」

「……俺のこと信用しすぎだろ」

「いけませんか? わたしを監禁していたのも、自分のそばが一番安全だと考えたからですよね?」


 部屋の外に出る時は必ず付き添ったのも、夜眠る際にソファで横になった彼が物音ひとつで飛び起きるのも、すべてわたしを守るためだと考えれば自然と納得できる。


 アストールの屋敷にどんな危険があるのかは分からないが、ユリウス様があれほど警戒するのは何か理由があるはず。もしかしたら彼の噂に関係することかもしれない。


 いっそ尋ねてみようかと思ったが、珍しく中途半端に口を開けたままこちらを見る黒い視線とぶつかって、言葉を飲み込んだ。


「ちょっと待て、俺は監禁なんてしてないぞ」

「でも、扉にいつも鍵がかかっているのは……」

「あれは外からの侵入を防ぐためのもので、内側からなら開けられる」

「え」


 ……どうしよう。思いっきり勘違いをしていたかもしれない。


 言われてみれば、中から鍵が開かない自室なんて普通はありえない。ヴィトランツ邸の自室はわたしが逃げ出さないようにと、外側から鍵をかける仕様になっていたので、つい先入観から同じように考えてしまった。


 こんな勘違い普通はしないし、扉をよく確認したら気づけただろう。今回はさすがに怒られるかもしれない……

 そう思い、じわりと額に汗を滲ませながら、恐る恐る隣にいる人の顔を見上げる。


 ユリウス様はなんとも難しい表情で盛大に重たい息を吐き出し、あきれたような声で言う。


「……自分を監禁した男をよく信用したな」

「なにか理由があるのかと思ったので……」


 正直に言うと、まだ会って数日の人をどうしてここまで信用できるのか、自分でも不思議だった。


「まあ、そうだな」

「あの、……怒っていないのですか?」

「それくらいで怒るかよ」


 どうやら機嫌を損ねるほどではなかったらしい。いつも怖い顔をしているから分かり辛いが、今の溜め息はたんに呆れからきただけのようだ。

 安堵するとともに身体から力が抜け、背もたれに体重を預ける。


「疲れたか? 無理して熱が出たら辛いだろうから、屋敷に着くまで寝たらいい。ほら、遠慮なく使え」


 そう言って自身の肩を指し示したので、わたしは小さな声でお礼を言って、彼の肩に寄りかかった。

 触れたところからじわりと染み込んでくる体温の気持ちよさに、急速に眠気が押し寄せる。


 ねえ、旦那さま。どうしてそんなに優しくしてくれるのですか?

 傷モノで、不良品で、あなたのために何もしてあげることのできないわたしを、どうして大切にしてくれるのですか?


 この腕では、あなたの隣にいるだけで荷物になるのに……


 ねえ、ユリウス様……


 わたしが無理をするとすぐに熱を出すこと、一度も口にしていないのに……どうして、知っているのですか?



   ◆◇◆



 肩に感じる重みが心地よい。

 彼女が眠りに落ちてから、どれくらい経っただろうか。俺にもたれて、安心しきった顔で眠る姿に、どうしようもなく心が乱される。


 この細い肩に腕を回して、抱き寄せて、それから――


「……馬鹿か、俺は」


 そんなこと、赦されるはずがないのに。


 ふわふわと風に揺れる黒髪を、ひと房だけそっと掬い上げる。起こさないように気を付けながら、やわらかくて触り心地の良いその髪に、静かに口づけを落とした。


「神様……今度こそ俺に、彼女を守らせてください」



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