30 ふたつめの願い
風が頬を撫でる。
青い空に、緑の草原。目の前に広がるのは透き通った湖。その傍らで、わたしは大好きな人と約一年ぶりの再会を果たした。
ユリウスは以前よりも少し日焼けしていて、精悍さが増していた。相変わらず目つきは悪いけれど、今はそれさえも愛しく感じる。
彼が湖にいたのは、わたし達を追ってやってきたから。屋敷を出た直後にヴィトランツ邸を訪ねた彼とは入れ違いになってしまったようで、わざわざ湖まで馬を走らせてくれたのだ。
「だったら、こっちに来るって先に手紙をくれてもよかったのに」
雲ひとつない青空の下、不安を口にしたわたしに彼は気まずそうに言う。
「……手紙は、書いたんだが……その、途中で追い抜いたらしい」
どうやら手紙が届くよりも早く、王都に到着してしまったようだ。もう二度と会えないかもと不安を抱いていたこともあり、それだけ急いで来てくれて本当に嬉しく思う。
迎えに来てくれたということは、今後準備ができ次第リーベに連れて行ってもらえるかと思っていたのだが、彼は予想外の言葉を口にした。
「俺がこっちにいられるのは5日間だけなんだ。一度リーベに戻って、冬が明けたら正式な手続きを踏んでおまえを迎えに来るから、あと数か月待っていて欲しい」
詳しく聞いたところ、今回王都に来た本当の目的は、国王陛下と謁見をするためだった。鉱山での刑を終えた彼は、片付けなくてはいけないことが山のようにあるらしく、冬も近いことから、わたしをリーベに迎え入れるのは春以降にしたいとのことだった。
しかしそんな彼の提案に、わたしはわがままを承知で首を横に振る。
「いやよ。これ以上待てない」
「そうは言ってもな……」
「五日で準備をすればいいんでしょ?」
あっけらかんと言ったわたしに、彼は目を丸くする。
「五日で準備できたら、一緒に連れて行ってくれる?」
「そういう問題じゃないんだが……」
「お願いユリウス、冬が終わるまでなんて待てないよ」
そうやって強引に話を進めた結果、彼は渋々同意してくれた。愚痴のような言葉を残しながら。
「……アドルフ様の言ったとおりになった」
「え?」
「我慢できなくて、絶対連れて帰ってくるって言われたんだよ」
この場合我慢できなかったのはわたしの方だが、アドルフ大公はこの流れを予想されていたらしい。それならば受け入れの準備も整っているだろうし、問題はないはず。
彼の名誉のためにも言い出したのはわたしの方だと、リーベに到着した際には一言伝えようと思った。
そんなことをこっそり考えていると、再びユリウスが口を開く。
「それから、これは伝えるか迷ったんだが……」
「何かあったの?」
「……ハーブル伯爵が、死んだ」
「お祖父様が……?」
ハーブル伯爵というのは、お父様への復讐にわたしを利用しようとしたお祖父様のことだ。お祖父様は半年ほど前に禁止薬物を使用した罪状で、リーベにある鉱山労働所に収容された。
詳しくは知らないのだが、わたしがクライド様に飲まされたザクロという薬、あれと同じものを使用した疑いで逮捕されたのだ。
「どうして……亡くなったの?」
「鉱山を抜け出して、国境付近にいたガーシュウィンの兵士に亡命を求めた結果、そのまま斬り倒されたらしい」
お祖父様は敵国ガーシュウィンと裏で繋がりがあったようで、ザクロという薬もその関係で手に入れていた。ガーシュウィンとの個人的な取引は重罪にあたるため、リーベの鉱山に送られたのだが、結局保護を求めたガーシュウィンの兵士によって命を落とすとは……
「……そう、教えてくれてありがとう」
お祖父様に対して恨みのような気持ちを抱いたことはないが、胸の内につっかえていたものがスッと消えたような気がした。
「さて、残るは……」
ユリウスはごくりと喉を上下させ、神妙な顔つきで言う。
「ヴィトランツ公爵の説得だ」
そう、残る問題はお父様の説得。
リーエンベーグへ行くには、神様の影響下から解放され、いまや娘を溺愛するただの父親に戻ったお父様から、許可をもらわなくてはならない。
さすがにわたしの方で話をしてみると言ったのだが、これだけは自分が超えなくてはいけない問題だからと、屋敷に帰ってから彼は真っ先に父のもとを訪ねてくれた。
「どうだった?」
父の部屋から出てきた彼に問いかける。
大きく息を吐きながらわたしを見て、一言。
「……なんとか、許してもらえた」
「本当!? これでリーベにいけるのね!」
嬉しさのあまり子供のように喜ぶわたしの前で、心底ほっとしたようにユリウスは胸を撫で下ろした。
父と話したユリウスの顔は少し憔悴していたが、無理もないだろう。以前王城で対面した際のことを考えれば、父がユリウスに対して良い印象を持っているとは考えにくい。
ひとまずはわたしの部屋へと場所を移し、ソファに腰を落ち着けたところで、彼は父との会話の内容を教えくれる。
「公爵には前回のことも含め、君を傷つけた非礼も謝罪した」
「怒ってた?」
「……まあ、それなりに。でも公爵自身も嘘に踊らされて娘を傷つけたから、おまえが俺と行きたいなら、止めることはできないって言われた」
最近のお父様は負い目があるからか、随分とわたしに甘いのだ。こんなにも急なリーベへの出立は、以前であれば当然許可は下りなかっただろう。
「そう。それじゃあ結婚については――」
「賛成だそうだ。まずは受理されていなかった俺たちの婚姻契約書を提出しよう。式については暖かい季節になったら考えることにした。こっちでやるか、リーベでやるかはおまえに任せる」
全てが良い方向に向かい始めている。あとは準備を整えるだけ。
嬉しくて嬉しくて、にこにこと隣に座る彼の顔を見上げる。かち合った黒い双方は、不安げに細められた。
「いいのか?」
「なにが?」
「本当に、俺でいいのか?」
真剣な声音に、わたしは優しくほほ笑み返す。
「あなたが好きだって、何度も手紙に書いたでしょう?」
「でも俺はおまえに傷を……、それに6年前の事件を黙っていたことだって……」
彼が己を責めるのも無理はない。しかし、あの事件が闇に葬られたのは、わたしの願いの影響だ。悪いのは彼ではなく、わたし。
これから二人で歩んでいくためにも、彼には真実を伝えなければ。
「ユリウス、実はね――」
そうしてわたしは全てを話した。聞き終わった彼は、眉を寄せて複雑そうな顔で言う。
「神様への願いごと、か」
どこか納得したように、ひとり深く頷く。
「ええ、だからユリウスが自分を責める必要はないんだよ」
「そうだとしても、君を傷つけたのは俺の未熟さが招いた結果だ。遅くなったが謝らせてほしい。すまなかった」
丁寧に頭を下げた彼につられて、同じように謝罪の言葉を口にする。
「わたしもあなたを巻き込んでしまってごめんなさい。それから、助けてくれてありがとう」
顔を上げた彼は、苦笑を浮かべながら小さく頷いた。そしてぽつりと、意外な言葉を落としていく。
「しかし残念だな。今すぐ叶えたいことがあったんだが……俺も願いはもう残ってなさそうだ」
「どんな願い?」
こてりと首を傾げたわたしの目前に、黒い瞳が迫る。ユリウスはまっすぐわたしを見つめて、小さな声で言った。
「おまえと、キスがしたい」
驚いたのは一瞬で。
物欲しそうに近づいてきた吐息に、そっと目を閉じた。
こちらで全て完結となります。
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