29 もう一度、始めよう
太陽が沈む直前の、夕焼けのような赤い髪を見たのも、もう一年前。アストール邸の地下室でクライド様に襲われた時が、彼と……ユリウスと会った最後の瞬間。
「早くて一年、でしたっけ」
「そうね。長くて二年とも言われたけど」
それは、彼が罪を償う期間。
「まったく、手紙もろくに寄越さないなんて……」
「仕方がないわ。鉱山の労働所は規律が厳しいと聞くし」
エルマが不満を口にする気持ちは分かる。彼女はわたしの不安を代弁してくれているのだ。
「そもそも軍馬を盗難した罪でリーベの鉱山行きなんて、刑が重すぎなんですよ。隠避罪もあるとは言え、どちらも情状酌量が認められたのに」
ユリウスは犯した罪を償うために、現在は主に犯罪者を収容するリーベの労働所で働いている。と言っても、主な仕事は鉱山での警備だ。
6年前の事件についてユリウスが問われたのは、兄の暴挙と、そして事件自体を隠避した罪。わたしに怪我を負わせたことについては、事故として認められた。
また軍馬を盗難した件については、人命が懸かっていたこともあり、本来ならばもっと軽い刑で済むはずだった。
しかし、ユリウス本人が鉱山へ行くことを望んだのだ。そうでなければ示しがつかないと。
結果、アドルフ様と相談の上、1年から2年にかけて労働所に入ることが決定した。他の収容者と同じ仕事をこなしつつ、警備の任務にも当たっているらしい。
そしてこの事実は、世間には公表されていない。6年前の事件の真相とともに。
ユリウス自身は全てを明るみにすることを望んだようだが、アドルフ様と国王陛下の判断でそれは却下された。いまこの国に、リーエンベーグを治められるほどの人物はユリウス以外にはいない。そのため彼自身が納得のいく形で罪を償った後、予定通りアドルフ様の後を継ぐことになったのだ。
彼の立場が悪い方向へと向かわなかったのは、いまだにわたしの願いの影響があるのかもしれない。
「ユリウスが納得いくまで待つしかないわ。それ以前に……迎えに来てくれるかさえ、分からないけれど」
「せめてお二人の婚姻契約書が受理されていれば……」
「そうね……今のわたしは、彼との繋がりが何もないから」
これは後から知ったのだが、可笑しいことに、わたしとユリウスは結婚していなかった。騎士団がアストール邸を捜索した際にクライド様の自室から婚姻契約書が発見され、その事実を知ることになる。
だからわたし達は赤の他人。夫婦でもなんでもない。
もしユリウスがこのまま迎えに来てくれなければ、わたし達の関係は終わってしまう。リーベで暮らす彼とは、きっともう二度と会えないだろう。
だから、たくさんたくさん手紙を書いた。6年前のことでもう自分を責める必要はないのだと。あなたが好きだから、そばに居たいのだと。
小さな希望をのせて、いつかまた彼がわたしの手を取ってくれるように。
返事はほとんどない。数カ月に一度、簡潔で短い文章が送られてくるだけ。
それでも嬉しかった。今の彼との唯一の繋がりだから。手紙を抱いて、夜を過ごしたこともある。
そんな日々も、もう一年。
「明日は予定通り、湖へ向かわれますか?」
「ええ。寒くないうちに行っておきたいの」
「分かりました。夜は冷えますから、今日はもう寝てください」
エルマは微笑を浮かべながら、少しだけ開いていた窓を閉め部屋を出て行った。
◆◇◆
翌朝、身支度を整えて馬車に乗り込む。以前にユリウスと二人で行った、湖へと向かうのだ。
王都の中心にあるヴィトランツの屋敷からではだいぶ距離があるため、滞在する時間も含めて毎回早めに出るようにしている。
しばらく馬車に揺られていると、見覚えのある建物が目に入った。
「ここは変わってませんね」
向かい側に座るエルマが、ぽつりと呟く。
窓の外には、広い庭がある大きなお屋敷。一年前、彼とすごした場所。
「みんな元気にしてるかな……」
「ワン!」
寂しそうに呟かれたエルマの言葉に返事をしたのは、わたしの膝の上にいた小さな犬。
「あら、シリウス。あなたはいつも元気ね」
「ワンワン!」
今にも飛び跳ねそうに元気よく返事をするシリウスに、エルマの表情は明るくなっていく。彼女が暗い顔をしていたのも無理はない。窓の外に見えるアストール邸は、いまは誰も住んでいないのだ。
クライド様が逮捕されたことにより、アストール家は事実上崩壊した。殺人未遂の罪は軽いものではなく、クライド様は火傷によって片目を失明したものの、現在も刑に服している。
息子の行いを恥じたアストール侯爵は、自身も息子に命を狙われたこともあり、減刑を望まなかった。さらには6年前の事件も含めて、息子を止められなかったことを重く受け止め、爵位を返上したのだ。
屋敷は売りに出され、使用人はほとんどが解雇された。アストール夫妻は、今は王都の別邸で慎ましく暮らしているらしい。飼っていた犬たちは数名の使用人とともに、ユリウスがリーベまで連れて行ったそうだ。
しかし、シリウスだけは王都に残った。エルマと一緒にわたしが引き取ったのだ。
「そう言えば、アストール家が治めていた領地は、結局ライベル殿下が?」
「ええ、そうみたい。ライベル殿下もご結婚されてしばらく経つから、ちょうどいいだろうって」
広大なアストール領は、現在は第一王子であるライベル殿下が治めている。次期国王の座は第二王子であるエイデン殿下に決定しているため、ライベル殿下は臣籍降下の後、爵位を賜ることになった。
「着きましたよ」
世間話も交えつつ馬車に揺られていると、いつの間にか湖の近くまでやって着ていた。この一年の間に道は整備され、今は馬車でも通れるようになっている。
停車した馬車の扉が開き、シリウスを胸に抱いて地面に降り立つ。連れてきた護衛の騎士達には馬車の付近で待機するように命じ、ひとり湖へと歩き出した。
少し冷えた空気が頬を撫でていく。風に攫われそうになる黒髪を手で押さえながら、目の前に広がる湖を眺めた。
「いつ見ても、ここは変わらないわね」
一年前、彼と見た景色。
あの時はいろいろなことが起こった。盗賊に襲われて大変な目に遭い、たくさんの血を見た。それも今となっては思い出のひとつにすぎない。嫌な記憶ではあるけれど、それ以上にこの場所で目にした、彼の笑顔が忘れられないのだ。
あの黒く美しい瞳にまたわたしを映してほしいと思うのは、贅沢な願いなのだろうか。一生に一度の願いを使ってしまったわたしには、もう奇跡を信じるしかない。
「本当に、綺麗だわ……」
一年前と変わらず、陽光を反射してきらきらと輝く湖面に見惚れていると、腕に抱いたシリウスがくんくんと鼻を鳴らし出す。
「どうしたの? おいしい匂いでもするのかしら」
不思議に思い首を傾げたところで、シリウスが急にわたしの腕から逃げるように飛び降りた。
「シリウス!? 待って、勝手に走っちゃ――」
腕から飛び出した小さな犬は、来た道を引き返すように走り出す。慌てて振り返ったわたしの足は、数歩進んだところで止まることになった。
そこに、ありえない人がいたから。
「元気にしてたか、シリウス」
低く、落ち着いた、優しい声。
大きな手が、赤毛の小犬の頭を撫でる。千切れんばかりに尻尾を振りながら、嬉しそうにくぅんと鳴いたシリウスは、今度はこちら見て「ワン!」と一声鳴いた。
どうしてか、一歩も動けない。じわりと視界が滲んで、目の前にある赤い髪が蒼天に溶けていく。
「迎えに来た」
彼は一番聞きたかった一言を落として、ゆっくりとこちらへ手を伸ばす。
その日焼けした長い指先に、躊躇いながらもそっと触れて、震える声で一言返すのだ。
「っ……はい」
繋がった指先は強く握り返され、わたしの身体は彼の胸の中に沈んだ。目尻から大粒の涙がこぼれ落ち、頬を伝っていく。ずっと恋しかった体温が、こんなにもすぐ近くにある。
「……待っていてくれて、ありがとう」
そう囁くように言った彼の声も、震えていた。
さあ、もう一度、始めよう。
今度は間違わないように。決して、離れないように。
この先もずっと、一緒にいられるように。
今度こそ、ふたりの未来を始めよう。
END.
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