27 たとえ神が赦したとしても(ユリウス視点)
あれから勝手に拝借した軍馬を全速力で走らせ、なんとか30分かからず屋敷に戻ることができた。しかし、急いで駆け込んだ自室はもぬけの殻で、見つけたのは部屋の隅に転がる小さな存在。
「シリウス!?」
必死に起き上がろうとする愛犬の身体を支えてやると、手脚を震わせながらなんとか立ち上がる。この状態を見て、自分がいない間に何が起きたのか容易に想像ができた。
「くそっ……どこに連れて行ったんだ!」
時間は惜しいが、手掛かりがない今、手当たり次第に屋敷内を探すしかない。
もどかしさに歯噛みしながら部屋の外へ出ようとした俺の進路を、小さな存在が塞いだ。
「どいてくれシリウス、急いでいるんだ。おまえに構ってる時間は――」
「ワンワン!」
赤毛の犬は何かを訴えるようにぴょんぴょんとその場で飛び跳ね、部屋の外へと飛び出す。
「付いてこいってことか?」
シリウスは元々、小型の小動物を狩るために飼われることが多い犬種だ。恐らくオルテアの匂いを嗅ぎ分け、彼女がいるところまで案内しようとしているのだろう。なんとも頼もしい相棒である。
「任せたぞ、シリウス!」
そうして相棒の案内のもと辿り着いた地下室で、6年前を彷彿とさせる光景を目にする。
ベッドの上に寝かせられたオルテア。その上にはナイフを持った兄。
まさしく鋭い刃の切先が、彼女の喉元を切り裂こうという瞬間。
――今度は間違うな。
頭の中に響いた声は、過去の自分か。
一気にふたりとの距離を詰め、迷いなく銀色の刀身を左手で掴んだ。
「あの時も、こうすればよかったんだ」
手のひらに食い込んだ刃が肉を断ち、鮮血が手首を伝って滴り落ちる。
「そうすれば、君を傷つけずに済んだのに」
これは、償い。
痛みはない。こんなもの、彼女の痛みに比べたらなんでもない。
オルテアが意識を失うのを確認して、力任せに兄を蹴り飛ばした。俺よりも小柄な兄の身体は、思っていたよりも簡単に宙を舞い、近くにあった机に吸い込まれていく。
――ガシャーーーッン!
ガラスの割れる、不協和音が響き渡った。
「ぎゃあああああ! 熱いっ、あつぃいいい!」
それは、断末魔のような叫び声。
兄が倒れ込んだ先にあった、机の上に置かれていた複数の小瓶が倒れ、中身が持ち主の頭上に降り注いだのだ。得体の知れない透明な液体を被った兄の顔は、右半分が赤く爛れていた。まるで火傷の痕のように。
同情はない。これも全て兄自身が招いた結果だ。
素手で握りしめた血の付いたナイフを床に放り投げ、ぴくぴくと震える男の前に立ち、静かに見下ろす。
「兄さん、もう終わりにしよう」
床に蹲ったまま苦痛を訴える兄は、やがて獣のような唸り声を出しながら顔を上げる。
「ユリウス……おまえ、よくもっ……!」
憎悪の込められた視線が俺を貫く。同時に肉が焼けるような、不快な臭いが鼻を刺激した。
「自分の玩具で遊ばれる気分はどうだ?」
「うるさい! くそっ……こんなことになるなら、あの女に使っておけば……!」
肌を焼く、こんな恐ろしい薬をいったいどこで手に入れたのか。自分が思っている以上に、兄は裏の世界に足を踏み入れていたのかもしれない。
「兄さん、もう終わりなんだよ俺たちは。あんたとの取引も、ここまでだ」
「黙れ! セルジュ、何を呆けている! 今すぐその女を殺せ!」
部屋の隅にひっそりと佇んでいた者に向けて、怒声が飛んでいく。
床に転がるエルマにナイフを突きつけたまま、セルジュは大きく息を吸い込んだ。
「セルジュ! 早くし――」
怒りにまみれた兄の声は、カランッという乾いた音に掻き消される。しんと静まり返った室内で、セルジュの手から放り投げられたナイフが、床の上を滑るように転がっていった。
「クライド坊っちゃん、もう終わりにしましょう」
それは、穏やかで静かな否定。
「なにを、言って……」
「旦那様の代わりになんとかあなたをお支えしようと努力してきましたが、これ以上の愚行に付き合う気はございません」
紛れもない、裏切りの言葉。
この瞬間、兄に味方するものは誰一人いなくなった。いや、兄の味方など最初からいないのだ。何故なら――
「クライド様、私が生涯をかけてお仕えすると決めたのは、貴方の御父上であり、貴方ではありません。ましてや旦那様に薬を盛って、死に追いやろうなど……」
「なぜ……おまえがそれを……」
呆然と呟くように言った兄の言葉には、自分が返答する。
「あんたが6年前の事件をなかったことにするために、アストール家の権力を少しでも早く手に入れようと、父さんに毒を盛っていたのは知っている。父さんはあんたが用意した別邸とは別の家に避難させた。今は少しずつだが回復に向かっているよ」
信じたくなかった事実。だが、兄はもう人として最低のところまで堕ちていたのだ。
リーベから王都に戻りオルテアと再会したあと、中心街の別邸に住居を移した両親のもとを訪ねた。
父はここ数ヶ月で急に体調が悪化したらしい。1年前に会ったときは健康そのものだったのに。
さらに病名を尋ねても、掛り付け医からは何故か納得がいく回答がもらえなかった。どうやらこの医師は兄が手配したようで、別邸を用意したのも、初めからゆっくりと時間をかけて父を殺すための計画のひとつだったようだ。
そんなことをせずとも、父が座っていたアストール家当主という椅子は、いずれ兄のものになったというのに。6年前の事件の後から、兄も少しずつ狂い始めていたのかもしれない。
「兄さん、もうすぐここに騎士団がくる。俺は6年前の事件を含め、全て真実を話すつもりだ。だから俺たちは……アストールは、もう終わりだよ」
「馬鹿を言うな! この女を殺して私たちが黙っていれば、アストール家が罪を問われることはないんだぞ!?」
その通りだ。代々続いてきたアストールの家門を守るのであれば、このまま兄の計画に任せ何もしなければいい。
セルジュだってアストールを存続させたかったからこそ、やり方はどうであれ兄のすることに加担したのだ。
しかし、俺たちの罪をひとりの女性に背負わせ、その存在ごと消してしまおうなんて。そんな行為、赦されるはずがない。
そう、たとえ――
「たとえ……神が赦したとしても、俺たちの罪は一生消えないんだよ」
だから後悔しないように
今こそ、罪を償おう