26 今度は間違わないように(ユリウス視点)
初めて、ひとを好きになった。
他人に興味をもつことのなかった自分が、どうしても欲しいと思ったたったひとり。
生まれて16年、ただ親の言うことを聞いて、生きてきた。次男である自分に、家を継ぐ資格はない。だから、とりあえずは騎士にでもなってその後のことはあとで考えればよいと思い、学園の高等部は騎士コースを選んだ。
頭を使うよりは身体を動かす方が好きだし、頭脳では兄に勝てない。劣等感を感じているわけではないが、アストール家を継ぐことが決まっている兄とは全く違う道を歩きたかった。
しかし、流されるままに生きてきた自分の未来を変えた人がいる。彼女と出会って、話して、触れて、白黒だった俺の世界に初めて色がついたんだ。
波打つ艶のある黒髪に、水の色を閉じ込めたエメラルドブルーの瞳。キラキラと光を反射したふたつの湖面に、己の姿が映っているのが堪らなく好きだった。
『ねえ、ユリウス。どうしてあの時助けてくれたの?』
赤毛の子犬を抱きながら、彼女は不思議そうに問いかける。
『すっ転んで、半べそかきながら喧嘩売る貴族の女が気になっただけだ』
そう、初めはただの好奇心。
親切心だとか、正義感だとか、そういったものよりも、ただ純粋に興味が湧いた。
『泣いてないから!』
『泣きそうになってた』
『なってないよ!』
上級生の男に臆することなく対峙していたオルテア。
詳しく話を聞けば、あのヴィトランツ公爵家の次女だと言う。こんな淑女と言う言葉が当てはまりそうもない娘が? 全くなんの冗談かと思った。
それでも何事にも一生懸命で、屈託なく笑う彼女に惹かれていった。
子犬を守りたいなら、アストール家で引き取ればいい。身体が弱いと言うなら、俺が支えればいい。今まで抱いたことのない感情が、心の奥深くから溢れてくる。
この感情に名前を付けるとしたら、それは間違いなく『恋』という言葉が当てはまるだろう。自分でもすぐに気が付けるほどに、彼女が放っておけない。
それはあの舞踏会のときも同じで。オルテアが他の男と踊ることが許せなくて、舞踏会への参加を決めた。
しかしその選択が、悪夢の始まりだったんだ。
『ユリウス坊ちゃん! クライド様を止めてください……!』
舞踏会の会場で、ひとり時間を潰していた自分に声を掛けたのは、よく知る人物。元々は父に付いていたが、最近は兄の専属になった執事。
『セルジュ? そんなに慌ててどうした』
『クライド様が……ヴィトランツ家のご令嬢をっ……!』
その一言だけで、ある程度の事態を察した。ヴィトランツ家の令嬢、姉の方はいま会場内の人だかりの中にいる。となるとセルジュが示す人物は、先ほどまで自分と踊っていたひとしかいなくて。
『案内しろ!』
走り出した執事の背中を全力で追いかけた。祖父と話してくると言ったオルテアと別れてから、それほど長い時間は経っていない。いったいこの短い間に何があったというのか。
会場を出て、廊下を駆ける。これほど慌てるのは、他でもない兄が関わっているから。
兄は得体の知れない男だ。詳しくは分からないが、裏でこそこそと何かをしていることは知っている。セルジュは基本兄のすることに目を瞑っているようだが、今回は相手があのヴィトランツ家の娘だからか俺に助けを求めたのだろう。
『兄さん、オルテアに何かあったら俺はあんたを――』
焦りと怒りで、視界が狭まっていく。『冷静に』と呼びかけていた自分はとっくに思考の底に沈み、今はもう感情のままに突き進むだけ。
そうして辿りついた先で見た光景に、目の前が真っ赤に染まった。それは抑えきれなかった、怒りの色。そして彼女の腕から流れでる、血の色。
我に返った時には、全てが遅かった。もっと冷静に動いていれば、あのようなことにはならなかったのに。
オルテアの怪我は事故じゃない。俺がやったんだ。きっかけを作ったのは兄だが、彼女の人生を変えたのは……俺なんだ。
そのあとのことはよく覚えていない。兄に引きずられるように部屋をあとにして、気がついたら屋敷の自室にいた。一睡もできずに夜が明け、翌日の昼過ぎに同じように憔悴した顔の兄が部屋を訪ねてくる。
『セルジュに調べさせたが、オルテア嬢は意識は戻らないものの、一命は取りとめたらしい。今回のことは事件として扱われているが、目撃者がいなかったことから犯人は不明。私たちは本当に運がよかったよ』
運がいい? 馬鹿を言うな。
将来を捨ててでも、自首して真実を話すべきだ。
そう思うのに、何故か言葉が出てこなくて。
『いいか、ユリウス。もしこの事件に私たちが関わっていることが知られたら、アストール家は終わりだ。オルテア嬢が目を覚ましたらどうなるか分からないが、今は何も知らないふりをして、大人しくしていてくれ』
ふざけるな、そう叫びたいのに声を誰かに奪われたかのように、言葉が紡げない。それどころか、兄の話に頷く自分がいて。
まるで何か別の意思が働いているような、不思議で恐ろしい感覚。
結局何もできぬままただ流されて、数日が経った。3日後に目を覚ましたオルテアは全てを忘れていて、事件は未解決のまま終わることになる。
そして、兄は俺に提案したのだ。
『ユリウス、取引をしよう。今後も私はおまえがやったことを公表しない、その代わりおまえは私の行為に目を瞑る。これで互いの地位は守られる。悪い条件じゃないだろう?』
馬鹿げた取引だ。そう思う意思は確かにあるのに、あの時の俺は兄の提案を拒めなかった。
どうして詳しく捜査されることもなく、事件の真相が闇に葬られたのか。そして、何故自分は真実を話せなかったのか。何度考えても答えには辿り着けない。
ただはっきりしているのは、俺が彼女を傷つけたこと。彼女の未来を変えてしまったこと。
どう懺悔をしたって、その事実は変わらない。
だから、力が欲しかった。
後悔したって何も始まらないなら、強くなるしかない。次は何があっても、大切な人を守れるように。
――神様、今度こそ彼女を……オルテアを俺に守らせてください。
「止まれ!」
強く握りしめた手綱を、思い切り引く。
そうだ、まずは冷静になれ。
湖での襲撃後、兄の策略にはまった自分はいま騎士団の本部にいる。ここから馬を走らせてもアストールの屋敷までは30分以上かかる上に、人通りの多い市街地を通るため、さらに余計な時間を食うことになるだろう。
このままただがむしゃらに突き進んでも、あの時の二の舞を演じるだけだ。
「そうだな……償うなら、今か」
一瞬で思考を巡らし、跨った馬の身体をくるりと反転させる。そのまま騎士団の敷地内を逆走する形で走り出すと、先ほどまで会話をしていた人物が不思議そうに前から歩いてきた。
「随分と慌てた様子で出て行ったから、気になって見に来たんだけれど……ユリウス、何かあったのかい?」
「エド、馬を借りる」
「馬?」
「軍馬を借りるぞ」
「へ?」
ぽかんと口を開けたまま首を傾げるエドワードをその場に残し、敷地の奥へと進む。
ここはブルタリア騎士団の本部。戦時用に鍛えられた軍馬も数多くいるため、彼らを利用できれば普通の馬よりは断然早く走ることができるのだ。
さらに騎士団の裏手からは旧道に繋がっている。道幅が狭く整備が行き届いていないが、現在は騎士団員の移動経路として使用されているため、一般の利用者は殆どいない。多少は回り道になるが、速度を出せれば結果的に時間の短縮に繋がるはず。
「ちょっとユリウスっ、それはまずいって! 君はもう騎士団を脱退しているんだよ!? いや、たとえ隊員だとしても軍馬を勝手に持ち出すなんて……!」
全速力で追いかけてきたのか、エドワードが息を切らせながら静止の声をかけてきた。
自分がやろうとしていることが、許されないことなど最初から分かっている。しかし人命が懸かっている今、選択肢はない。
「罰は受ける」
そう一言いい残し、目的の場所へ歩みを進めた。
ただひとつの願いを叶えるために。