24 神様への願いごと
クライド・アストール。
血のような深紅の髪に、濁った灰色の瞳。
アストール侯爵家の長男で、ユリウスよりふたつ年上。
「迷子にでもなったのかい? 会場まで案内しようか?」
完璧に作り上げた笑顔を浮かべているが、その目は全く笑っていない。まるで蛇に睨まれているような気分だ。
「いえ、結構です。少し体調がすぐれないだけ、で――あっ」
一刻も早くこの場から立ち去りたいと思い、踵を返そうと一歩後ずさった瞬間、前方から伸びてきた腕がわたしの手首を掴んだ。
「それは大変だ、この控え室を使うといい。ほら、おいで」
強引に掴まれた腕を引き寄せられ、そのまま室内へと連れ込まれる。後ろから聞こえてきた扉の閉まる音を耳にしながら、部屋の奥へずるずると引き摺られていった。
「離してくださっ……」
「それは難しいな。さっきの話、聞いていたんだろう?」
どう答えるのが正解なのか分からない。はいといいえ、どちらを述べても、この蛇のような目つきをした男から逃げられる気がしないのだ。
「姉と比べるとまだまだ子供だが、弟のお気に入りを汚すのも悪くないな」
愉悦を含んだ声音に、先ほど扉の外から耳にした言葉が頭を過ぎる。姉さまを穢すと言った、この男の言葉が。
「なにを、企んで…」
「簡単な実験だよ。珍しい薬を手に入れたんだ。せっかくだから試してみたくてね」
「……薬?」
「そう、薬だ。ほら、綺麗だろう?」
すぐそばにある机に置かれていた小瓶を手に取り、私の前に示した。透明なガラス瓶の中には、ルビーのような真っ赤な液体が沈んでいる。
「オルテア嬢、ここで会ったのも何かの縁だ。この薬を試してくれないかな? 後遺症が残るようなものではないし、効果は一時間ほどで消えるから」
いったい何を言っているのか。効果も分からないものを、簡単に口に入れられるわけがない。
――そう。落ち着いて考えれば、そんな当たり前の答えに辿り着けたのに。お祖父様とのやりとりで冷静さを欠いていたわたしは、最悪の答えを導き出す。
「その薬をわたしが飲んだら、お姉さまには手を出さないと誓っていただけますか?」
アマーリエ姉さまは、ヴィトランツ家の正統な後継者。お父様の血を引いていないわたしとは違う。絶対に姉さまを危険な目に合わせるわけにはいかない。
だから……わたしが犠牲になれば――
「いいだろう、誓うよ。ただしこの事は、私達ふたりの秘密にしてほしい」
「……分かりました。あなたがお姉さまには手を出さない代わりに、わたしはこの件を口外しない。約束は必ず守ってください」
「君もね」
今考えれば、とても浅はかな行動だったと思う。どうにかしてこの場から逃げ出して人を呼べば、あのようなことにはならなかったのに。
「セルジュ、人が来ないように外で見張っていろ」
「かしこまりました」
白髪を後ろでひとつに結った老齢の執事が、一礼して部屋の外へと出て行く。その様子を見届けて、クライド様は小瓶を手渡してきた。
覚悟を決めて慎重にふたを開けると、ふわりとしたフルーツの香りが鼻の奥を擽る。匂いからは危険性のあるものには感じられない。
大丈夫。命に関わるようなものではないはず。
いくらアストール侯爵家の嫡男とは言え、ヴィトランツ公爵家の娘を危険な目に合わせたとなれば、ただでは済まされない。効果は一時間で消えると言っていたし、舞踏会が終わるまでには解放されるだろう。
震える指先を無理やり押さえ込み、初めは舐めるようにひと口だけ赤い液体を口に含む。口内に広がったのは、甘いシロップのような味。
苦くなくて良かったと思いながら、残りの液体を一気に飲み込んだ。
「これでいいですか?」
静かに見守っていた目の前の男を見上げる。相変わらず寒気がしそうな気味の悪い笑みを浮かべて、じっとこちらを見ていた。
いまのところ体調に変化はない。しかし、この後どうするべきかと仕方なくクライド様に問おうとした視界の端で、奇妙な現象が起きる。
わたしの右手に握られていた小瓶が、するりと床に落ちて行くのが見えた。
「え――」
カランッ、と言う小瓶が床に転がる音と同時に、急に視界が低くなるのを感じ、その直後に今度は耳元で低い声が響く。
「おっと……これはまた、随分と――」
やたらと近くで聞こえた声は、幻ではない。だって……わたしの身体は、クライド様の腕に抱きとめられていたから。
「まさかここまで即効性があるとは。君はこの薬が効きやすい体質なのかな」
「なん、で」
「身体に力が入らないんだろう? 意識を残したまま対象の自由を奪う、これが薬の効果だよ」
その言葉が真実であることを証明するように、急に全身から力が抜け、床に倒れそうになった。そんなわたしを支えたのが、目の前の男だ。
おかしいことに、本当に指先ひとつ動かせない。まるで、自分の身体が自分のものではなくなったみたいに。
「さて、何をして遊ぼうか」
くくっと小さく笑いながらわたしの身体をソファに寝かせ、クライド様は懐から何かを取り出した。
それは鈍く銀色に光る、小さなナイフ。冷たい刃先をわたしの頬にあてがって、楽しそうに言う。
「さすがに傷をつけたら公爵が黙っていないだろうが……見えないところなら、君が黙ってさえいてくれれば問題ない。そういう約束だからね」
恐怖から、ヒュッと喉が鳴ったのが分かった。
狂ってる。完全に。
濁った灰色の瞳がわたしを見下ろして、そのままドレスの胸元をナイフで切り裂いた。ひやりとした空気が肌を撫でていき、視界が涙で滲む。
どうにか抵抗したくて持ち上げようとした腕は、だらりと力なくソファから落ちただけで。
怖くて、悲しくて、悔しくて。
頭の中はぐちゃぐちゃだった。
わたしがお父様の子供だったら、こんなことにはならなかったのだろうか。それともユリウスと出会わなければ、この人に興味を持たれることもなかった……?
そもそも、学園に行きたいなんて言わなければ――
頭のどこかで、別の自分が問いかけてくる。そんな、不思議な感覚。
でも、違う。後悔はしていない。
だって……学園に通って、ユリウスと過ごしたこの一か月は、間違いなくわたしの人生のうちで一番輝いていたから。あの眩い日々を、なかった方がよかったなんて言えるわけがない。
目の前の男よりも明るい、夕陽のような赤い髪が頭を過る。
「ユリ、ウス……」
「弟はこないよ」
そんなことは分かっているのに、願ってしまうのだ。彼はいつだって、わたしが困っている時に助けてくれるから。
「ユリウス……!」
できる限りの声で叫ぶと同時に、部屋の外から怒号が轟く。
「そこか、オルテア!」
バタンッという大きな音が聞こえ、扉の方へと視線を向ける。そこにいたのは、たったいま名前を呼んだひと。
一瞬見開かれた黒い瞳がみるみるうちに鋭く細められ、わたしの上に跨る人物を睨みつけた。
「クライド、おまえ……!」
低く唸るような声で兄の名前を叫びながら、室内へと踏み込む。
「ユリウス……? 何故おまえが――」
突然の訪問者に、クライド様の声にも動揺が滲んでいた。しかし、そんな兄の言葉など全く耳に入っていない様子で、一目散にこちらに駆けてきたユリウスは、怒りをあらわにした顔で兄に掴みかかる。
「クライド、何をしようとしていた!?」
「待て、話を――」
「話すことなんてない!」
どうして、彼がここに来ることを望んでしまったのだろう。わたしが願わなければ、彼が……ユリウスが、この運命を変える瞬間に巻き込まれることもなかったのに。
わたしひとりが犠牲になれば、それで済んだのに――
これは、わたしが忘れてしまった最後の瞬間。
そうだ。あの時はひとつひとつの動きが、コマ送りのようにゆっくりと見えた。
「おいユリウス、落ち着け! このままだと危なっ――!」
ユリウスが怒りに任せて掴んだクライド様の手の中から、ナイフがこぼれ落ちる。銀色の刃が重力のままに落下していくのが目に映った。そしてすぐに、左腕の内側に熱い衝撃を感じる。
一瞬室内が静まり返ったと思ったら、今度はやたらと騒がしくなる。だけれどみんなが何を言ってるのか、よく分からなかった。声は聞こえるのに、うまく聞き取れない。ただ腕が熱くて、視界がどんどん赤く染まっていく。
その中でひとつの言葉だけが、わたしの世界に届いた。
「オルテア、しっかりしろ……! 俺のせいで、こんなっ……」
大丈夫、あなたのせいじゃない。わたしが全部悪いの。だから――
――神様、お願いします。
彼を助けてください。
わたしはどうなっても構わないから、彼が責められないように。
どうか、彼を守ってください。
神さ、ま……お願い……
ユリウスを、たすけて