23 刹那の夢
「シリウス、おいで」
「ワン!」
元気よく返事をしながらわたしの胸に飛び込んできたのは、一匹の赤毛の子犬。ぴんと耳を立てて、千切れんばかりに尻尾を振るその様子に、自然と目尻が下がる。
学園の裏庭で子犬を助けてから2週間、すっかり懐いてくれたこの子の様子を見にくるのが日課になった。
あのあと挫いた足の腫れは3日ほど続き、大事をとって学園はお休みしていたのだが、次に登校したときには学園の用務員宿舎で子犬は寛いでいた。
それもこれも、全てはあの時わたしを助けてくれたユリウスと言う青年のおかげだ。
彼は高等科の1年生で、3つ年上の16歳。
わたしを医務室に送り届けてから、子犬の世話をしてくれていたのだが、今は用務員に話をつけて、一時的に預かってもらっている。
「なんでそんな名前にしたんだよ」
背後から、少し不機嫌そうな声が聞こえた。わたしは子犬を胸に抱いて振り返る。
「だってこの子、赤い毛に黒い瞳でユリウスにそっくりなんだもの」
「紛らわしいだろ」
「いいじゃない、この子も気にいってるみたいだし。ね、シリウス?」
「ワン!」
まるで言葉が分かっているかのように、シリウスと名付けた子犬は嬉しそうに鳴く。名前を取られた青年は眉間に刻んだ皺をさらに深くしたが、心から嫌がっているわけではなさそうだ。
子犬を通して、ユリウスとはすぐに打ち解けた。元々お互いに気の合う性格だったのかもしれない。同学年の女子生徒と話すよりも、彼と一緒にいる方がずっと楽しかった。
「名前まで付けて……どうするんだよ、そいつ。ヴィトランツ家で飼えるのか?」
その質問には、いいえと答えることしかできない。学園で拾った迷い犬をヴィトランツ家で飼いたいなどと言っても、父が許可してくれるはずがないからだ。
それは彼も察していたようで、首を振ったわたしを見て小さく溜め息を吐き出した。
「仕方ない。このまま飼い主が見つからなかったら、俺の家で拾ってやる」
「アストール家で?」
「ああ。本邸の方なら犬を5匹も飼ってるから、こんなちっこいやつ1匹混ぜても変わらんだろ」
ユリウスはアストール侯爵家の次男だ。身元もしっかりしているし、信頼できる。何より彼が引き取ってくれるなら、シリウスにまた会えるかもしれない。
「ありがとう、ユリウス!」
嬉しさが込み上げて、思わず溢れた笑みを向けると、彼は少しだけ目を見張って視線を逸らす。その頬が微かに赤く染まっているように見えた。
それから数日後、シリウスはアストール家に引き取られて行った。ユリウスは責任もって世話をすると言ってくれたので、とりあえずは一安心だ。
この頃にはもう、わたしは自分の中に芽吹き始めたとある感情に気づき始めていた。
彼といると楽しい、生きていると実感できる。もっとたくさん話をして、これからもずっと、彼と……ユリウスと――
小さな蕾が花開くのは、一瞬だった。
一度あふれ出た想いは止まることを知らず、開花の連鎖を巻き起こす。
叶うことはない。それは分かっている。
体の弱さゆえ、今のわたしに婚約者はいないが、いずれは父の決めた人のもとへ嫁ぐことになるだろう。それがヴィトランツ公爵家に産まれた、わたしの宿命。
だからこそ今だけは、せめてこの瞬間だけは……あなたを想って、絶対に訪れることのない未来の夢を見る。
――この夢を忘れてしまうなんて、この時のわたしは知る由もなかった。
あの日、学園主催の舞踏会にて事件が起こるまでは。
◆◇◆
「ユリウスは前期の舞踏会に出席するの?」
「しない、面倒だろ」
学園では年に2回、学生たちによる舞踏会が開催される。出席は自由で、学園生であれば誰でも参加できる催しだ。
前期の舞踏会は入学して一か月が過ぎた頃に行われるため、主に新学期の交流の場として利用されている。
「おまえは?」
「わたしは参加する予定。やっとお父様の許可が降りたの」
社交と言うものに興味はないが、舞踏会には憧れがあった。綺麗なドレスを着て、華やかな会場で踊る。女性であれば、誰もが一度は夢見る舞台。
最近は体調も安定しているため、同じ学園に通うお姉さまと一緒であれば参加しても良いと、父から許可をもらえた。
「疲れるとすぐ熱を出すのに、大丈夫なのか?」
「体調が悪くなったら、控え室で休めばいいもの」
ユリウスはわたしの体質のことを知っている。一度彼の前で熱を出して、医務室まで連れて行ってもらったことがあるからだ。
「……なら、俺も参加する」
「本当!?」
「ああ。会場で倒れられても困るし、保護者役やってやるよ」
その返答に、つい顔が綻ぶ。彼と一緒に踊りたいと、密かに思っていたからだ。
そんなわたしのささやかな願いは、舞踏会当日に叶えられた。
育ち盛りのユリウスは日々実感できるくらい背が伸びているらしく、ヒールのある靴を履いても、わたしの頭のてっぺんは彼の胸の位置までしかない。
一緒に踊るには多少不恰好だが、それでも彼の手を取って煌びやかな会場で舞うのは、本当に夢のようなひとときだった。
「オルテア、もっと俺に近づけ」
「で、でも」
わたしの腰に回した腕をぐいっと引き寄せ、身体がぴったりと密着する。
「また怪我されたら困るからな。これだけくっついていれば、いつ転んでも支えてやれるだろ?」
足がもつれても、彼がふわりと持ち上げてくれる。ダンスはあまり得意ではなくて、何度も足を踏んでしまったけれど、彼は笑って許してくれた。
間近で見た夕焼けのような赤い髪が、シャンデリアの光に透けてキラキラと輝いていたのを覚えている。
そんな夢のような時間は、舞踏会が始まってから1時間ほどして幕が降りた。
「オルテア」
名前を呼んだのは、柔らかい女性の声。会場の隅っこでユリウスとふたり軽食を楽しんでいたわたしは、声の主に向き直った。
「姉さま、どうしたの?」
「楽しんでいるところ悪いのだけど、お祖父様があなたを呼んでいるの。少しでいいから、顔を出してくれるかしら」
わたしの母方のお祖父様は、この学園に多額の寄付をしている。舞踏会に参加できるのは基本的に学園生に限られるが、お祖父様のように特別な事情のある関係者も招待されるそうだ。
「分かった。ユリウス、少しだけ行ってくるね」
「ああ、こっちは適当にしてる」
彼が頷くのを確認して、ドレスの裾を翻す。そのまま姉さまが指定した場所へ向かうと、柔和な顔立ちの紳士がわたしを出迎えてくれた。
「オルテア、久しぶりだな」
「ご機嫌よう、お祖父様」
優しい顔立ちに、艶々とした黒い髪。相変わらず、年齢のわりにとても若く見える。
「会えて嬉しいよ。母親に似て、ますます美しくなったな」
「ありがとうございます。でも、お姉さまほどではないですわ」
姉さまはわたしと違って健康的だし、顔立ちも大人びている。まだまだ幼さの残るわたしと比べても、ずっと淑やかで女性らしい。
ありのままの事実を伝えたのだが、お祖父様はゆるゆると首を横に振った。
「いいや、おまえの方がずっと美しいぞ。なにせ私の子だからな」
「え……?」
さらりと告げられた言葉に、思わず声が漏れ出る。茫然と目の前の人を見返すと、わたしと同じ色のエメラルドブルーの瞳が細められた。
「どういう、意味ですか?」
「おまえが学園に入学するまではと思い今まで黙っていたが、オルテア、おまえは私とエメリアの子なんだ」
頭の中が一瞬で真っ白になるのが分かった。エメリアと言うのは、母の名で――……
これ以上は何も考えたくないのに、お祖父様は無常にも現実を突き付けていく。
「ヴィトランツ公爵は私から愛しいエメリアを奪った。これくらいのささやかな復讐は赦されるだろう?」
復讐? 赦す?
この人は何を言っているの――?
……そんなこと、絶対にあってはならないのに。
視界が白から黒に変わっていくのが分かった。眩暈に似た感覚を覚え、ふらりとよろけながらもなんとか言葉を紡ぐ。
「……気分が悪いので、失礼させていただきます」
「オルテア、待ちなさ――」
静止の声は耳に届かなかった。腹の底から込み上げる吐き気を無理やり抑え込んで、会場の外へと走る。
ホール内の活気に満ちた空気とは正反対に、廊下はしんと静まり返っており、冷静さを取り戻すのにそう時間はかからなかった。
「わたしが……お祖父様とお母様の子? わたしはヴィトランツ家の……お父様の血を継いでいないというの?」
お祖父様の言ったことが本当ならば、母は実の父親との子を産み落としたことになる。そんな恐ろしい事実、知りたくなかった。もし父に知られてしまったら、わたしはどうなってしまうのか……
ふらふらと壁に手をつきながら廊下を歩く。今はひとりになりたくて、人気のない廊下を進んでいると、小声で話す男性の声が聞こえてきた。
その内容に、わたしはぴたりと足を止める。
「そうだな、ヴィトランツ家のアマーリエ嬢で試すのはどうだ? あの清楚で無垢なお嬢様をどうやって穢すか、考えるだけでゾクゾクするよ」
「クライド様、ヴィトランツ家の者に手を出すのはリスクが高すぎると思いますが……」
お姉さまを穢す? 確かにいま、そう聞こえた。
信じられない言葉に辺りを見回しながら声の出所を探っていると、すぐ前方にあった扉がゆっくりと開いていく。
中から姿を現した人物はわたしを目に留めて、一瞬驚いたような表情を浮かべた。一瞬間を置いて、中途半端に開かれていた口の端が吊り上がり、きれいな弧を描いていく。
そうして、ふたりの間に冷たい声音が響いた。
「こんばんは、ヴィトランツ家のオルテア嬢」